こちらが上で、あちらが下で、そちらが右で、こちらが左 …
あちらが前で、そちらが後ろ、こちらが表で、あちらが裏って
… 一体全体、何がどうなってんの
それが、アルファ(α)であり、ベータ(β)なのです。
決して、オメ~ガ(ω)クサイ(ξ)のシータ(θ)などと屁を、
いえ、ダジャレ的な屁理屈を垂れるつもりはありません。
屁理屈と理屈の関係って光と影とか男と女とかの違いと
似ていると思うんです。
だからと言って、対立的な二元論だけでは括(くく)れない
微妙な重なりをもっている。
自分自身と鏡のなかにいるもうひとりの自分と鏡に写って
いる自分とこちら側にいるオイラみたいな関係なのかも …
言っている意味がよくわからないって…
それは、あなたが、「理屈と屁理屈のはざま」 のなかで
迷宮の扉をノックしてしまったからなのかもしれません。
そうでなければ、このサイトをクリックした時からすでに、
「言葉と鏡のラビリンス」 に入り込んでいたのかも …
… ってなんだか、いかにも意味ありげなセンテンスです。
それでは、アルファ(α)とベータ(β)とは何をさすのか
それは、あとのお楽しみということにしておきましょう。
ところで、
理屈と屁理屈の差って、いったい何なのでしょう
理屈はともかくも屁理屈については、辞書によると 「まるで
筋の通らない理屈。 道理に合わない理屈」 とあります。
理屈のうえでは正しくても、現実面での 「机上の空論」 は
いくつもありますし、反対に一見、筋違いの理論が当を得る
場合も過去に何度かあったように思われます。
道理に適えば屁理屈も正論、適わなければ理屈(正論)も
ただの屁理屈や詭弁扱いにされるのでしょう。
立場や状況やタイミングなどの諸条件に合致しているのか
いないのか、つまり限定された話題や特定の議題の流れの
なかで、その時々の論旨や論点から逸脱したものが屁理屈
や詭弁の類とされるのでしょうか。
「屁理屈って何」 「屁の理屈だよ !」
「屁の理屈って」 「屁理屈のことさ」
なんだか納得してしまいそうで怖いけど、話になりません。
「屁理屈って何」 「理屈にもならないたわごとだよ」
「たわごとって 」 「屁理屈にもならない理屈のこと」
「じゃ 理屈って」 「たわごとにもならない屁理屈さ」
これでも、わかったような気になるところが不思議です。
… … で、結局のところ屁理屈って何 …
こんな具合に話をはぐらかされたり、論点が噛み合わない
だけではなく、もののはずみで、一旦、話が横道に逸れると
思わぬ方向に飛び火して収拾がつかなくなることも、決して
珍しい話ではありません。
屁が言う理屈だから屁理屈といった言葉遊び的なものや
端から道理に合わないもの。 巧みに論点をすりかえたり、
切り返しや言いかえ、言い回しなどで煙に巻こうとする話を
のぞけば、一般的に屁理屈だと言われるものと理屈との間
に実質的な差異はないように感じます。
個々のもつ概念の違いを無視して特定の議題のなかで、
その道筋や場面上の空気に相違(適確か否か)が生じた
ときに、長幼の序ないしは力関係において、より強い方の
言論に対して他方の理屈が屁理屈としての扱いを受ける
のではないでしょうか。
理屈にはほど遠いというよりも、むしろ理屈そのものでは
あっても、キチンと反論したり、論破できないがために力の
上まわるほうが他方に対して、なし崩し的に 屁理屈 と
いう レッテル を貼るのではないかとさえ思われます。
屁理屈を捏ねるなと言われ続けて久しい 2号 としては
、声を大にして叫びたいのです。
根拠があって十二分に納得もできるのに、単に、それが
個人の都合やわがまま勝手に属する内容だからといって、
「屁理屈扱いをするな!」 断じて、これは、
「屁理屈などではない!」 (誰にいっているんだろう)
よしんば、仮に、そうだとしても
「屁理屈にも五分の魂だ」 (一寸の虫でしょ)
何か反論するとすぐに 「盗人にも三分の理だから」 とか、
「なるほど盗人にも一理屈だなぁ」 とか …、
「泥棒にも三分の道理はある」 とか (全部同じ意味…)
そういうことわざを使って 逃げるな!
ふう~、ス~ッ とした!
… というわけで、実は、屁理屈 とは日常生活にとって
必要不可欠な存在なのです。
屁理屈は理屈の影であり、光源が変われば、屁理屈(影)
が新たな理屈となって影(新理屈)にスポットがあたることで
影(元屁理屈)の影(元理屈)が新たな屁理屈に変わります。
同時に理屈と屁理屈とは、男に対する女、女に対する男、
あえて、どっちがどっちとは申しませんが、人間として同種で
あるように、理屈と屁理屈は同種であるわけです。
そこで属性の一部ないし全部が、そのT・P・Oにより同化、
共鳴、変化することで、オカマ や オナベ …、
いえ、理屈や屁理屈としてニ分法的に分類されるのです。
したがって、理屈は屁理屈ではありませんが、屁理屈も
屁理屈そのものだとは言い切れないのです。
屁理屈の存在がなければ理屈も存在できません。
屁理屈なる存在があるからこそ理屈が理屈としての意味を
持つわけで、「この理屈は屁理屈ではない」 などと言う場合
にも屁理屈という言葉や概念が存在しない限り、そのような
表現はできないわけです。
つまり、「屁理屈ではない理屈」 とされるものは、屁理屈
によって初めてその存在が保証されるというわけなのです。
… さて、こんな感じで、いかがでしょうか
前稿、前々稿で約束した 「屁のツッパリになる屁理屈」 と
しての屁理屈の捏ね方ですが …
採用していただけるのでしょうか
ものは言いようだな 2号。
所詮は、言葉、どんなことでも、こじつけようとさえ思えば
どのようにでも理屈はつけられるものさ
それは 1号 さんの逃げ口上です。
逃げ口上ではない。 口の達者なのにかかると非常識な
話や詭弁も、論破するのは難しい。
要は、「何とでも言える」
結局は、それが 言葉 の持つ 限界 であって、同時に
なお 無限 の 可能性 を秘めているってことだな!
ところで、冒頭に尋ねた アルファ(α)とベータ(β)の
意味ですが …
もちろん、理屈と屁理屈のことだけど…
それを表記するアルファベットでもある。
日本風に言えば、文字です。
そして裏表の鏡の世界も意味しています。
言葉はある意味、鏡ですから …
え~っ、てんで、質問の答 になっていないし、
まるで、言葉 にもならないって
「もじもじ、もじもじ 」 さっきから尋ねているのですが …
「文字文字(もじもじ)」 と尋ねても、ことぱで 「もしもし」 で
なきゃ伝わらないよ!
「もじもじ」 じゃ、点(てん)で 「もしもし」 にならないし、
「ことぱ」 は、丸(まる)で 「ことば」 にならない。
言葉 文字は、アルファとベータ(アルファベット)
だから、屁理屈も鏡の中では理屈だし、理屈も鏡の世界
では屁理屈になるってこと …
もしもし、 ……。 あれれれ~、
理屈と屁理屈の迷宮に堕ちたまま彷徨(さまよ)っている
のは、どうやら、2号 の方なのかも …。 ( とほほ )
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