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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 仮想劇(改)

 「仮想劇」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

ダ・ヴィンチの罠 仮想劇 - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 仮想劇 - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

goo blog

 

 url『ダ・ヴィンチの罠 仮想劇』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで94作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 仮想劇(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文)

 

 そもそも、この時代に確率の概念があった
のかどうかさえ、不明であり疑問なのですが



 レオナルド・ダ・ヴィンチは自らが仕掛けた
壮大な「罠」の構造が解き明かされる確率を
どの程度に踏んでいたのでしょうか?


      「う~む ・・・」

 というのも、

 確率は、いまでは中高生が数学の授業で
習うもので、それほど難しい概念のものとは
思われず比較的簡単なように見えますが、

 その理論が発明されたのは 17世紀のこと
で、当時は必要不可欠ならざる概念でした。

 その原点は、

 会計学の父と言わしめるルカ・パチョーリ
(1445-1517)の提示した「点数の問題」で、

   
 ルカ・パチョーリの肖像画1495年 wikipedia

 これが、確率論が発明されることになった
キッカケであり、「歴史的瞬間」でした。
 
ルカパチョーリ_スムマ
      ルカ・パチョーリの肖像画(部分)1495年 note.com
 
 「点数の問題」とは、目標点数を先に獲得
した人が掛け金を総取りする賭博ゲームの
途中で突然ゲームが中断されたら、掛け金
はどうなるのか? という問題です。

 たとえば、

 Aが5点、Bが3点とった段階で火事が起き、
ゲームが中断されて再開できなかった場合、
賭け金はどうやって分けるのか。

 単純に考えれば、Aが勝っていたのだから
Aの総取りでいいということになるでしょう。

 でもパチョーリは、それでは不当であると
して途中の点数が、5:3なら掛け金も5:3の
比率で分けなければならないと考えました。

 ちなみに、ルカ・パチョーリは修道僧にして、
数学者であり、ダ・ヴィンチの友人でした。

 これが15世紀における見解です。

 しかし、その後の16世紀に活躍した数学者
のニコロ・タルタリア(1499年または1500年-
1557年)はこれに異を唱えました。

    
   ニコロ・タルタリア Wikipedia

 彼は、「点数の問題」は私たちが思っている
以上にずっと難問だと言ったそうです。

 時が流れ、科学革命時代になった17世紀。

 「フェルマーの最終定理」で有名な数学者
で物理学者のピエール・ド・フェルマーと、

  
  ピエール・ド・フェルマー wikipedia

 数学者で哲学者であるブレーズ・パスカル
が、手紙で「点数の問題」を議論しました。

   
  ブレーズ・パスカル ja.wikipedia.org

 そして、2カ月間にわたるこのやりとりで、
2人はそれを完全に解決しました。

 詳細は、

 ★  「老人と子供の命、どちらが大切か」
  答えの出ない難問に答えを出すのは
  数学的思考である

 完全自動運転のプログラムに不可欠

 PRESIDENT Online /PRESIDENT BOOKS

 数学者キム・ミニョン

 https://president.jp/articles/-/51288?cx_testId=7&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=2#cxrecs_s

 を参照してみてください。

 さて、

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画に遠近法
を積極的に取り入れていますが、彼は当時
の最新技術を習得するために、友人であり、
数学者でもあった修道僧のルカ・パチョーリ
のもとを何度も訪ねています。

 レオナルド・ダ・ヴィンチがルカ・パチョーリ
から数学(幾何学)を学び、これがのちの作品
(罠の構築と仕組み)に強い影響力を及ぼした
ことは、ほぼ間違いなさそうです。

 『最後の晩餐』に用いられた遠近法による
表現や『モナ・リザ』等のスフマート(ぼかし)
は、当時としては、極めて画期的な最先端
の技術だったのです。

「私の芸術を真に理解できるのは
          数学者だけである」

    (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 ところで、

 繰り返し上演される仮想の「時空劇」は、



 「アルファであり、オメガである」
ゆえに 因果律が無視される事態に遭遇する
と突如としてバランス(結晶化状態)が崩れて
アモルファス化します。

 
 アモルファス www.mech.kanagawa-u.ac.jp

 それが、

 『受胎告知』での聖母マリアの右手に
見られるアナモルフォーズだったり、
 
 目線
 『受胎告知』アナモルフォーズ fc2.com    


 『東方三博士の礼拝』での混沌
とした量子論的な「無」の世界と多次元
時空 right 異空間を意図した構成と構図は、



 『最後の晩餐』における人物配置の
先駆けでもあり、


 『最後の晩餐』での最大の「謎」
のひとつであるナイフの真の持ち主
に直結するアナモルフォーズにして、

 

 異空間から投影されたメタモルフォーゼ
する人物たちの射影であって、



 『最後の晩餐』ヨハネ 『岩窟の聖母』マリア
    
     マグダラのマリア

 それらは因果律の乱れと、仮説としての

  
 四次元立方体図 d.hatena.ne.jp

 超次元立体パズルにおける透過面上の
変化や流動性、またはその過程における
透過投影体(射影)でもあるのです。

 
  四次元立方体図 d.hatena.ne.jp 
 
 この辺りのことが意味不明の方は、

 url『ダ・ヴィンチの罠 次元枠1(改)』
 
 を参照してみてください。


 たとえば、それは、

 
  四次元立方体図 Wikipedia

 4次元立方体の各面(半透明の膜状面)に
相当する作品内の人物たちの振舞いや


     「え、俺っ !!」

 明らかに首の長さに食い違いをみせる
失われた『レダと白鳥』の模写や
デッサン画(ラファエロ)の中に見ること
が出来ます。


  『モナリザ』と『レダと白鳥』の模写デッサン(ラファエロ)


   『レダと白鳥』の模写:チェーザレ・ダ・セストとフランチェスコ・メルツィの模写

 やけに首の短い白鳥(ラファエロのデッサン)と
異様に長い首をしたダ・ヴィンチの弟子たち
チェーザレ・ダ・セストやフランチェスコ・メルツィ
の白鳥の模写のイメージの違いは、


   ラファエロのデッサンとチェーザレ・ダ・セスト&フランチェスコ・メルツィの模写

 アモルファス的に伸び縮みする首や手を連想
させるもので、


 ダ・ヴィンチによる『レダと白鳥』の習作
 
 裸のレダが抱き寄せている白鳥の首が男性器
を想像させ、獣姦を想わせる構図が教会の禁忌
に触れるとしてダ・ヴィンチが自ら廃棄処分に
したか、あるいは意図的に破棄したか、または
教会によって処分されたと考えられていますが
、残念ながら『レダと白鳥』の絵画は
失われていて現存しません。

 しかしながら、いずれにしても、 

 『レダと白鳥』でのダ・ヴィンチの
メタファ的なモチーフの双方が彼の目算通り
に弟子たちの模写やラファエロのデッサン画
に反映されているように見受けられます。

 言わば、これらは、

 漫画 『ONE PIECE』(ワンピース)
の主人公ルフィーのように、



 伸縮するヨハネの右腕はナイフを握り、



 その手をガシっと抑え込んでいるのが、

     
      ペテロの右手の習作

 ペテロの右手というトリックにつながります。



 その後、舞台は『最後の晩餐』から
イエス顕現におけるガリラヤでの
朝餉の場面へと移り変わり、


 画像元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋


 使徒ヨハネの身体は移動してイエスの
左側に枝垂れかかるように寄り添い、


 
 ググっと伸びた左腕の指先が食卓の淵に
置かれることになります(黄丸&赤丸印)
 



 当然ながら、トマスとされる人物の顔は
ここからは消えてしまいますが、トマスが
この場にいないわけではありません。

 使徒ヨハネはマグダラのマリアに変わり、
フィリポは使途ヨハネに、そして、ユダは
別人(フィリポ)に変身しています。
 
 このことを、より具体的に、詳述すると、

 ガリラヤでの朝餉にトマスはいないので、
この場面ではトマスは消えて、
 
   ➡  
 朝餉の場面ではトマスは不在なので彼は消えています

 トマスのものとされる左手(赤丸印下)は、

 
 
 ヨハネに投影されたマグダラのマリアの
左手に変わります(黄丸印)

 
    トマスの左手と思われる素描

 すなわち、
 
 これが『最後の晩餐』であるはずなのに
窓の外が明るい理由(顕現の朝餉)であって、

レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」に描かれたウナギ料理 ... 世界遺産】最後の晩餐はどこにある?|チケット予約から魅力まで ...
 
 『最後の晩餐』における謎のナイフを持つ
右手の正体は、トリックとしての布石であり、


 
 テーブル(食卓)の縁に、それとなくそっと、



 添えられたトマス(マグダラのマリア)の左手
は巧妙に仕掛けられた「罠」だったのです。

  
   up_slow               down_slow
 大ヤコブの左手とトマスの左手と思われる素描
 
 
 この点に関する補足ページとしては、

 url『ダ・ヴィンチの罠 匙加減(改)』

 が参考になるかもしれませんpeace
 
 それにしても、どうして、

 これらの習作がこうも都合よくピンポイント
で残されているのか❓
 
 
    トマスの左手と思われる素描
 
 また、ちょっとしたメモ書きや手稿の中にも
これは、と思われる記述が散見されます。

 実に、不自然で奇妙だと思いませんか❓

 当然の帰結として導かれるのは、

 よくよく考えてみるまでもなく、伏線や布石の
ための作品であるだけでなく、ここに「罠」
仕組んであるので刮目せよ!とばかりに
 
  POP 吹き出し 宝の地図:イラスト無料
 POP 吹き出し 宝の地図 illust-box.jp

 まるで宝探しの地図における目印や符合の
如く、あるいは所謂(いわゆる)水先案内用の
暗号としての習作なのかもしれません。

 たとえば、

 このケースにおいては他の誰の手であるとも
言えないように、ペテロの右腕の習作を用意
して、メモ書きにはナイフを持つ人物の存在
を臭わせているのです。

 しかも、

 その習作にしても、決して、ハッキリとは
その肝心要となる手首から先を描かずにいる
わけですね。


      ペテロの右腕の習作

 要は、追及の余地を残しているのです。

 つまり、それが彼一流の「罠」における
「匙加減」(さじかげん)なのです。

 ユダの右手の場合もそうですが、巾着を
絞った口らしき部分だけは描いてあっても
肝心の袋の部分はないのです。


 ペテロの右腕が描かれている(黒枠内)『ユダの右手の習作』
            up
       
    その代わりに、
 
 ユダの右手の習作には、ペテロの右腕
らしきラフスケッチが残されています。
 
 ここから考えられる事柄としては、
 
 ペテロとユダの右手が同時に構想されて
いることや巾着の口の部分がナイフの柄頭
のように見えることからもナイフを握るか
のようなペテロの右腕とユダが持つ巾着袋
には周到なる「罠」が仕掛けられている
と推理・推察するのが妥当でしょう。
 
 たとえば、メモ書きにある

 「振り向いているもう一人の者は、手に
 ナイフを握り、テーブルの上のグラスを
 ひっくり返している」

 この文に該当する人物は見当たりませんが
ユダの手の中にナイフがあったと仮定すれば
メモの内容と、ほぼ合致します。

  
  up_slow
 相違点はひっくり返すものがグラスなのか、
塩壺なのか、の違いだけです。

   

 さらに言えば、

 この巾着を絞った袋の頭と思われる部分が
ナイフの柄頭を描いたものであったとしても、
    down_slow
  
何らの不都合も不思議も感じないわけですup_slow


 しかも、
 
 これがまた憎い演出だと思えるのですが、

 
       up_slow
 その袋にあたる部分にペテロの右腕を
思わせるようなかたちのラフ・スケッチを
そっと差し込んでいるわけです(黒枠内)

 さあ、このパズルを「解いてくれ」と
言わんばかりのサービスぶりですよね。


 はてさて、

 究極の「ネバー・エンディング・ストーリー」
(終わりのない物語)を永遠に繰り返している
【時空劇】(仮想劇)『最後の晩餐』
おいて、ウロボロスとなった魂の輪廻が


  ウロボロスの蛇(切折り紙)by Kawai Msakazu

 第二次世界大戦の戦禍から、この不朽の
名作(名画)を残す「奇蹟の中の超奇跡」を
演出してくれたのかもしれません。
 
 1943年には、ドイツ軍の空襲により、食堂
の天井と東側の壁が完全に崩壊します。 

空襲後に壁が崩壊した食堂

 爆撃を受けた際、修道士たちは壁画のある
北と南の壁を土壌を積んで保護しました。
 
最後の晩餐を土壌を積んで保護
          画像元:amazing-trip.xyz
 
 この事が幸いしたかは分かりませんが、奇跡的
『最後の晩餐』は焼失を免れたのです。
 
修復前の最後の晩餐
最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
   『最後の晩餐』修復前の白黒写真(上)と修復後(下) amazing-trip.xyz
 
 この「超奇跡」の詳細については、

 url『ダ・ヴィンチの罠 超奇跡(改)』
 url『ダ・ヴィンチの罠 矛盾点(改)』

 などを参照してみてください。

 畢竟するに、
 
 朽ちかけていた『最後の晩餐』がなければ、

 『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

 最後まで手もとに置いていた3枚の油彩画だけ
では「罠」の輪郭さえ、朧気(おぼろげ)で、
到底のことに、その存在の尻尾にすら触れること
が適わなかったに違いないのです。

 謂わば、そこに、

 解かれなければならない「罠」の存在が
あると考えれば、合点がいくし、モヤモヤも
ストンと腑にも落ちるわけです。

「十分に終わりのことを考えよ。
     まず最初に終わりを考慮せよ」

   (レオナルド・ダ・ヴィンチ)
 
 ところで、
 
 ラファエロが描いた『モナ・リザ』
『レダと白鳥』のデッサンですが・・・
 

  『モナリザ』と『レダと白鳥』の模写デッサン(ラファエロ)
 
  この二人の顔って、なんか似てね❓  
 
 
   そう言われれば、そうかもね!?

    
    たとえば、これって、さあ、



 こんな輩(蛇)たちが『レダと白鳥』

   

  背景には隠されていて ・・・

   

  『レダと白鳥』と『モナ・リザ』との関係に

   

 おいても同質の「罠」が隠し絵として背後で




 怪しく蠢(うごめ)いているのかもしれません。

 
 そうした演出が可能なのは、この世界が、
バーチャル(仮想現実)だからじゃないの❓

  

 シミュレーション世界での仮想劇だから、
起こるべくして起こった必然的な奇跡じゃな!


      「ええっ !!」
 
 何とも強引で思わせぶりなイメージ操作ですが、
 無理やり『仮想劇』に結び付けてみました。

   
  (って、マジかょ ・・・)    

 結局のところ、

 
 こりゃあ、体のいい「押し売り」じゃな!
 
    
 いま話題の統一〇〇の霊感商法、かも・・・
 
 
 なら、わしゃ、合同結婚式がいいぞい!
 

          画像元: domani.shogakukan.co.jp
           なんでやねん 
            この 変態ジジイ が!

   
 
  ・・・って、おいおい、

  

     … to be continued !!


       なんだかなぁ・・・

コメント一覧

小吉
この世界が「仮想世界」であるという考えはあんまりよくわかりません。

映画『マトリックス』みたいなことでしょうか。

イデア論もほんとどうでもいいい。

大切なことは、生まれてきて、限りある命で、この「社会」になにができるかということだけだ。

それだけでいいんじゃなでしょうか。
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