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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 天地人(改)

 「天地人」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

ダ・ヴィンチの罠 天地人 - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 天地人 - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

goo blog

 

 url『ダ・ヴィンチの罠 天地人』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで93作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 天地人(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文)

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチが主宰する仮想の
時空劇『最後の晩餐』は、漸次、その舞台が
第三幕から第四幕へと移り変わり、



 現在、我々は、「エロス」がテーマ(主題)で
ある「肉性」および「情念」の情動が支配する
欲望の時代を鋭意 観劇(出演)中であること
を再度、思い出していただきたいと思います。

 時空劇『最後の晩餐』のシナリオを
ダ・ヴィンチ仕様に解剖すれば、

 

 ★ 各幕ごとにおける主要なテーマとして、
 
    <『東方三博士の礼拝』の世界1>
 
    『東方三博士の礼拝』修復前  
 
 ★ 序幕はカオス(混沌次元)で、すべての
要素が混然一体としている状態です。
 
 
 バルトロマイ、ユダ、ヨハネ、イエス、
トマス、マタイ、シモン他、全キャスト
によるビッグバン以前の混沌空間。


   反転画像との合成(混然一体)画像

  <『東方三博士の礼拝』の世界2>
 
 
 ★ 第一幕はロゴス(宇宙論理)で、「天」
としての「理性」の誕生です。



 バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレによる
ビッグバンの衝撃と光の誕生!
 
 
 反物質とダークマター(ダーク・エネルギー)


  反物質をイメージさせる反転画像

 ★ 第二幕はエトス(地球倫理)で、「地」
としての「知性」および「品性」です。



 この場合には、物質や生命の出現および
知識の出発点を意味しますが、ユダが握る
巾着袋の中身がエトス(倫理)なのです。
 
      「えっ」
 
 ユダ、ペテロ、ヨハネ、イエスによる
物質の出現及び人類の誕生と進化。
 
 ★ 第三幕はパトス(生命感情)で、「人」
としての「感性」および「疑念」です。
 
『岩窟の聖母』ルーブル版 『岩窟の聖母』ロンドン版
 
 <『岩窟の聖母』ルーブル版、ロンドン版世界>
 
 イエス、トマス、大ヤコブ、フィリポ
による改竄された歴史の闇と真実。    
 
 
  『岩窟の聖母』ルーブル版部分     ロンドン・ナショナルギャラリー版部分
      画像元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋

 
『聖アンナと聖母子』修復後     『聖アンナと聖母子』部分
 
 この場合には、精神性や共感とともに堕落
や反目・偽善・欺瞞を意図します。
 
 ★ 第四幕はエロス(憎愛感情)で、「愛」
としての「肉性」および「情念」です。
 
  <『東方三博士の礼拝』の世界3>
 
   
 マタイ、タダイ、シモン等による文明
の衝突とイデオロギー&宗教戦争。


 
 つまり、『東方三博士の礼拝』の世界が
 


『最後の晩餐』の中に存在している。



 言わば、
 
【20分で新約聖書】あらすじ・登場人物・内容を解説!
 
 時間と空間を両者が共有しているわけで、
同時進行や並行して共存する「時空劇」を
上映・上演しているようなものなのです。

 
 第一幕から第四幕までは、この世界を形成
する要素としての「天」と「地」と「人」の営みで
、それは地球だけにとどまることなく、宇宙に
存在する万物すべてという意味です。
 
 ★「天地人」と言えば、
 
             天地人 www.hikaritv.net
 
 2009年放映のNHK大河ドラマで、原作は、
火坂雅志の同名小説です。
 
 ドラマでは上杉景勝家臣直江兼続生涯
が描かれますが、直江兼続と聞いて、真っ先に
脳裏に浮かぶのは、「愛」の字を模った
(かぶと)です。
 
直江兼続が兜に「愛」という字をかかげた理由とは?3つの説から ...
       「愛」の字があしらわれた兜 rekisuta.com
 
 血生臭い欲望が渦巻く戦国の世で「愛」
を掲げ、一途に民と故郷を愛し「義」
貫いた誇りに溢れた武将でした。

刀剣ワールド 城】直江兼続と城一覧/ホームメイト
  直江兼続 画像元:www.homemate-research-castle.com
 
 但し、ここでの「愛」は、肉的な欲望、
イデオロギー、宗教的対立として描かれます。

   
   (マジか ・・・)    

 そして、

 最終幕は、ハデス(冥府冥界)で、すべて
 の構成要素がハルマゲドンによって
 消滅しかけますが、

聖書預言,ハルマゲドンの戦い,キリスト再臨
             画像元:www.bible-jp.org
 
 その後、
 
 
 復活再生してロゴスへと回帰し、      
 

       出典:www.2cb.info
 
 エンディングのカオスに戻ります。

  <「冥府冥界」からの復活の朝餉>



  オールキャストによる永遠循環
  希求して大団円(終演)を迎える。

        ― 以上 ―

 要するに、

 『最後の晩餐』での13人の役者が
演じるカットシーン(ストップ・モーション)は、

  

 ひとつにはビッグバン以前の混沌
(カオス)をイメージさせるカットで、


        NHK復元CG画像

 仏教でいうところの「空」の概念である

 「空即是色」=「一即多」や、
量子力学でいう「無」の世界(状態)が
再現されているわけです。




 「無」とは、物質存在しない何も
ない空っぽ(真空)の空間を指している
のではありません。

 「時空(時間と空間)すらも存在しない
状態が「無」なのです。
 
 宇宙は真空の相転移によって誕生した
と言われていますが、定かではありません。

 量子論では「無」といえども、何もない
状態というわけではなく、そこには厖大無限
なるエネルギーが寄せては返す波のように
現れては消えるということを繰り返している。

 言わば、

 「行って来い」で、結果的に相殺
されてゼロになるわけですが、ある瞬間
においては無限大エネルギー
存在し得るということで、

 これを「真空のゆらぎ」あるいは
「量子的ゆらぎ」と呼びます。

 上記の説明に、詳述する時間を割くこと
ができませんので、

 「量子的ゆらぎ」や「不確定性原理」また
は「量子重力効果」や「トンネル効果」など
を検索してみてください。
 
 こうしてみると、


  アテナイの学堂 ラファエロ・サンティ画

 古代ギリシャの哲学者プラトンの提唱する
『イデア論』『最後の晩餐』
脚本(シナリオ)のベースにあることは、


  アテナイの学堂(プラトンとアリストテレス)

 各幕の主題からも容易に想像がつく
と思われますが、それを脚色するものは、
若き日に体験した「幻視」でした。

     
    画像元:takashi1016.com    

 「幻視」については、

 

 url『ダ・ヴィンチの罠 松果体』
 url『ダ・ヴィンチの罠 白日夢(改)』

 などを参考にしてください。

 ダ・ヴィンチが、プラトンに傾倒していた
ことは、すでに何度となく触れていますが、

     アテナイの学堂(天を指さすプラトンとアリストテレス)

 それらはすべて、プラトニズム
関連するものでした。
 
 しかし、
 
 ここでは、事物の真の姿であるとされる
「真実在」を問うものとなっています。

 先に、

 url『ダ・ヴィンチの罠 想像力』
 
 のページで「鏡」が映し出す世界が
真実の姿で、我々が現実であると自覚する
空間が虚の世界なのでは ・・・

 というような疑問を投げかけましたが、

 ダ・ヴィンチがそのように思っていたか
どうかは定かではありません。

 ただ、そのように考えていたと仮定する
といくつかの事柄に整合性が見られる
ばかりではなく『イデア論』の考え
ともかなりの点で符合してきます。
 


 ダ・ヴィンチが鏡文字を多用したことや、



 「罠」としての隠し絵や騙し絵に




 鏡像を利用していること、



 さらに、合わせ鏡の中につくられる永遠
の奥行きに真実の世界があって、


      出典:news.infoseek.co.jp

 それが、レオナルド・ダ・ヴィンチの魂
をして、普遍的真理である「真善美」
のイデアへの憧れとなっていたことなどを
考え合わせると次の言葉の本当の意味が
見えてくるような気がします。

 曰く、

 「よく知られているように、間違いという
 ものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中
 に見つけやすいものだ。
  
 絵を描く時には、平らな鏡を使って、自分
 の作品を映してみるとよい。

 すると、絵が左右逆に映し出される。
 
 そうすれば、誰か他の画家によって描かれ
 ているように見え、じかに自分の絵を見て
 いる時よりも、その欠点が見えるものだ」

   (レオナルド・ダ・ヴィンチ)
 
 ところで、

 「鏡」は、なぜ、左右は逆になるのに
上下は逆にならないのだろう?

 そんな風に思ったことはありませんか。

 ダ・ヴィンチは、「鏡」に関しても、
いくつかの言葉を残しています。

  「鏡は画家の師匠である」とか、

  「絵画は単なる面に過ぎぬが
      鏡も同様である」とか、

  「画家の心は鏡に似ることを
         願わねばならぬ」
 
  「鏡は常に自分が持つ対象として、
  持つものの色に映り、そのままの
 映像によって、自己を満たすものである」

 これらはひとつの文脈の中で語られたもの
ではなく、個々に独立した言葉であったわけ
ですが、鏡自身は対象物そのままに自己を
満たすとしても、それを見ている者には左右
が反転して見えるわけです。

 もとい、左右が

「反転しているように見える」

 または、そのように「感じている」という
表現の方が正しいのかもしれませんが、
 
 ありのままの姿をそのまま映しているのが
「鏡」であって、左右で反転などはして
いないのです。

 えっ、なにアホなことを、


     出典:blog.goo.ne.jp

 そう思った方は、目を凝らして上の画像を
よぉ~く見てください。

 赤い色の玉と黄色い玉は、左右で反転して
逆になっているでしょうか❓

 上下はもちろん、左右も逆に映してなどは
いないのです。

 「鏡」がしていることは「鏡」の面を境に
して、手前と奥(前後)の側に紫の玉を逆転
させているだけです。

 要するに、

 裏表(裏返し)になっているというわけで、
むしろ、「鏡映反転」こそが、隠されていて
見えない真実の姿を映し出していると言える
のではないでしょうか!

 「水鏡」の場合には、水面を境にして
前後左右ではなく、タテ方向だけが上下に
逆転します。

 

 真実を映す「鏡」とは、よくぞ言った
もので実に正鵠を射た言葉です。

 「正鵠を射る」と言えば、空中において
止まっているという「ゼノンの矢」の件
ですが、量子力学や相対性理論等によって
設定される距離(長さ)の最小単位である
「プランク長さ」で解決します。

「プランク長さ」とは、不確定性原理の
都合上、これより短い長さは取り敢えず
「なかった」ことになる究極の長さで

 「ウロボロスの蛇」で言えば、
口に咥えられた尻尾の先にあたります。



 そうなるともう時間も距離も無限に分割
することは不可能となって、

    
   アキレスと亀 出典:ameblo.jp

 「アキレスと亀」では、亀に追い
つき、追い抜くようなアキレスがいても、

   
  ゼノンの矢と亀 出典:ameblo.jp

 ゼノンの苦心の考察に反して、飛ぶ矢は
見事に正鵠(的の中心)を射ることになる
のです。

   
     出典:writerzlab.com

 そうなると、

  
     出典:matome.naver.jp

 ふたつの「鏡」の組み合わせで表現
される合わせ鏡の無限のループにしても、
「プランク長さ」で打ち止めと
なってしまうわけで、

 
     出典:matome.naver.jp

 この無限に繰り返されるピザの画像も
どこかで止まることになるはずですが、


    無限ピザ 出典:writerzlab.com

 ああ~、目が回る

 とどのつまりが、
 
 イデア(事物の真の姿)とは、理性によって
把握される事物の本質で、現実の世界は、
 
      出典:www.itmedia.co.jp
 
 言わば、イデアの世界をコピーした仮想(影)
であるという。

 要するに、

 「鏡」を介して見える世界とは、虚仮
(こけ)のことで、仮りの世界の姿(鶏の影)
が見えてくるという意味です。

 つまり、

 イデアの世界では、事象を理性で捉らえ、
現実の世界においては、事象を感性(感覚)
で捉えるわけですから、

 そこに「鏡」を介在させることにより
心眼ならぬ理眼を得るわけです。
 
 ところで、

 第二幕の終盤から第三幕にかけて「地」
では、ロゴス(論理)とエトス(倫理)の
喪失という憂うべき大変革が起こります。


      出典:blog.livedoor.jp

 それは「人」の誕生で、理性(ことわり)
の次元から感性(たましい)の次元への
大転換が行われることになったのです。

 このことが、

 かのアンブローズ・ビアスの傑作である
『悪魔の辞典』での、口(くち)を、

  
     出典:ameblo.jp

 「男にあっては魂への入口、
  女にとっては感情の出口」 

 であると言わしめた原因であり、理由でも
あったのですが、

  (もちろんジョークですよase2

 A・ビアスは皮肉屋の冷笑家ですから

   
  楽園を追放されるアダムとエバ
    ギュスターヴ・ドレ画

 したがって、鋭意 観劇(出演)中である
時空劇『最後の晩餐』は、第一幕~第四幕
までが、「天」と「地」と「人」の物語で、
現在は「愛」がテーマ(主題)の時代です。
 
 さて、
 
 聖徳太子の最期の言葉として知られる
ものに、「世間虚仮、唯仏是真」
(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)があります。

 「この世の中は、なんとも虚(むな)しい
 仮のもので、唯一、仏のみが真である」

 仏(ほとけ)を ロゴスに置き換えれば、
そのまま『最後の晩餐』のワンシーン
であり、『イデア論』のシナリオです。

  

 鶏のイデアと実体として知覚するイデアの影
すなわち、イデアのみが知の目指すべき時空を
超えた非物体的なる永遠の実在、それが、
 

「真実在」であって、人間はイデアの
コピーや影絵(シルエット)を本当の世界
(実体)だと思っているというのです。

 しかしながら、

 ダ・ヴィンチは『イデア論』を100%
信奉していたわけではありません。

 それは、彼の「真」や「善」や「美意識」に
対する考え方にあります。

 ダ・ヴィンチから見れば、



  「真」かならずしも「善」ならず、
  「善」かならずしも「美」ならず、
  「美」かならずしも「真」ならず。



 であり、芸術家としての感性や感覚(主に視覚)
やイメージを重要視していた結果ですが、



 それも「幻視」によるトラウマの影響
なのかもしれませんね。

 一見、矛盾するような内容ですが、

 我々には直接見ることができない裏側の
世界を「鏡」がありのままに映し出すこと
で、イデアの世界が垣間見られると信じて
いたからでしょうか?

 それとも、

 「真善美」のイデアに対する憧れ
とは別の、反発にも似た挑戦だったので
しょうか?

 詰まるところ、

 「真善美」のイデアなるものや
「卵が先か、鶏が先か !!」
悩んでしまう「知性」の芽生え、


    出典:www.itmedia.co.jp

 あるいは「心技体」なる「品性」
の確立を模索させるが如き現象界(感覚世界)
としての宇宙的な時空(時間や銀河や太陽系
や地球や人間)を登場させたのが「神」
あるとでも言いたかったのか ・・・

 

 地球に人類が現われるまでには、数々の
変遷や紆余曲折があったのです。


    人類進化 grace-church.or.jp

 ところで、『時空劇』では、

 「わしがアダムで、あんたがイヴかのぅ」

  

  「ペテロ、言うてるやん、オッサン」

  

 「アタシの尾を踏んだら大変よ !!」



   「アタイの尻尾もネ」

 
  
   果たして「天地人」とは 、
    実体のないイデアの影〟なのか!

… to be continued !!

コメント一覧

小吉
卵が先かニワトリが先かなんてことはくだらなくて、
進化論みたいなことで話はつくんじゃないかなと思います。

元素がなんであるかなんてこともどうでもいい。

あるパンクバンドがいいました。

「人間は意味をつけたがる生き物だ」と。

どうでもいいことに意味をつけたがり、ただ「在る」ことに疑問をもつ。

わたしは哲学なんて嫌いで、生かされている「今」をいかにいきるかが大事なんだと思います。

どうでもいいけれど。
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