このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
『ダニエル書』は『旧約聖書』の正典
の一書ですが、アカデミズム的な見解では
紀元前164年の前半ごろに書かれたものと
の推測が主流のようです。
アレクサンドロス大王
それというのも、紀元前323年6月10日に
アレクサンドロス大王がバビロンで
急逝した後、残された大帝国の版図を巡る
ディアドコイ(後継者たち)の戦争が起き、
アレクサンドロス3世(在位 BC336-323年)
最終的に、パレスチナ(ユダヤ)の地は
エジプトのプトレマイオス王朝の支配
の下に置かれることになります。
紀元前198年にセレウコス朝シリアの
アンティオコス3世がパレスチナを支配下
に置くと比較的平和だった時代から事態は
一変することになります。
エルサレムを占領したアンティオコス4世
エピファネスは エルサレム神殿を略奪、
ユダヤ教を迫害し、偶像崇拝を強要します。
アンティオコス4世エピファネスのコイン
エピファネスによるユダヤ教の弾圧に
対し、紀元前167年~164年にかけ、ユダヤ
側からの激しい抵抗運動が起こります。
所謂(いわゆる)、「マカバイ戦争」
(マカバイの反乱)ですが、『ダニエル書』
もまた、こうした状況下における抵抗文学と
して、ユダ・マカバイとは別のグループ
(共同体)によって書かれたものとの見方が
大勢のようです。
ユダ・マカバイの勝利 ギュスターヴ・ドレ画
つまり、
それは実際の出来事をベースに預言が
組み立てられたようで、エピファネスが
最初にエルサレムを襲ったのは前169年
で、前167年の2度目のエルサレム襲撃
からユダヤ教に対する全面的な迫害が
始まるわけですが、
エピファネス
この後、およそ3年半あまりの期間を経て
エルサレムが解放され 神殿が浄められる
のが前164年のことです。
8章13-14節にある「2300の夕と朝」
を日に換算すれば1150日ですから、3年
少々ですが、この間に「荒らすことをなす
罪と聖所とその衆群がわたされ」(8:13)
そして、12章11-12節 の
「荒らす憎むべきものが立てられる
時から、1290日が定められている」
さらに、
「待っていて 1335日にいたる者は
さいわいです」とは、エピファネスが
ユダヤ教の迫害を始めてから3年8か月
あまりを経て、エルサレムの神殿が回復
されたことを指すとの解釈であって、
(この祝いがユダヤ教の神殿奉献祭です)
これらの記述から 『ダニエル書』は、
出典:i.ytimg.com
弾圧が始まり、迫害が3年目に入った
紀元前164年の前半頃に書き始められ、
3年半ほどして、纏(まと)め上げられた
(後に加筆あり)と推定されています。
ところが、
『新約聖書』の内容とは打って変わり
『旧約聖書』の預言には 甚だ寛容なる
我らがレオナルド・ダ・ヴィンチは、
ダニエルなる者が「バビロン捕囚」の
終わりの時代にバビロンの地で、この書を
記したものとして推理を構築したようで、
バビロン捕囚 wikipedia
『ダニエル書』の内容(私的解釈)も、
「あなたの民と、あなたの聖なる都に
ついては七十週が定められている。
これは、
背きをやめさせ、罪に終わりを告げ、
以って不義をあがない、永遠の義を
もたらし、幻と預言とを封じ、至聖所
に膏をそそぐためである」(9章24節)
出典:www.mustardseedosaka.com
「それゆえ、エルサレムを建て直せと
いう命令が出てから、メシアなるひとり
の君が来るまで、七週と六十二週ある
ことを知り、かつ悟りなさい。その間に
しかも苦しみの時代に、エルサレムは
広場と堀が建て直される」(9章25節)
「その六十二週の後、膏そそがれた者
は断たれ、彼には何も残らない。 また
来たるべき君の民は、町と聖所を破壊
する。 終わりは、洪水のように起こり、
その終わりまで戦いが続いて、荒廃が
定められている」 (9章26節)
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
を結び、半週の間、いけにえと供え物
とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
者の翼に現れ、ついには 定められた
絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」
(9章27節)
といった翻訳で、これらの解釈について
も独自の理論を展開します。
24節については、これまでの罪や不義
なる行いをイスラエルの民が悔い改める
つまり、改心するのならば「神」の
約束において、不義を贖(あがな)い
永遠の義をもたらすと言っているので
あって、下線の部分は七十週の期間が
終わるまでに「神」が執り行う行為
と目的を述べているとしたわけです。
『聖書』の常識から言えば、
25節はイエス・キリストの降誕の
時期に関する預言とされていますが、
『羊飼いの崇拝』1622年 ヘラルト・ファン・ホントホルスト
この場合のメシアとは単なる大祭司
やユダヤの王ではなく、
「背きをやめて、罪に終わりを告げ」
させるような人物でなければならず
「不義を贖い、永遠の義をもたらす」
とは、その執り成しの行為による結果
として「神」との約束が果たされる
ことを意味していたわけですが、
『洗礼者ヨハネの誕生』1655年頃
結論から言えば、約束は不履行と
なって現在に至っているわけです。
このことからも、ここでのメシアとは、
『ルカの福音書』でのダビデ王
の再来としての出現の告知でも、
『マタイの福音書』による罪から
人々を救う者としてのメシアの存在
とも 少なからざる相違があるわけです。
はてさて、しつこいと思われるでしょうが、
またもや、繰り返しての確認です。
その六十二週の後、
「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」
(ダニエル書 9:26)
この彼とはいったい誰なのか
聖書研究者の大多数の者が、いやいや、
聖書信奉者を含め、100人の者に訊けば、
100人が100人、もれなくイエスの名前
を挙げるでしょう。
すなわち、「ユダのライオン」、
「神の子羊」としてのイエスです。
しかし、ダ・ヴィンチは断固、叫びます。
メシアとは洗礼者ヨハネなのだと、
考えてもみてください。
「彼には何も残らない」
つまり、
『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)
メシアは何も残すことが出来なかった
ままに断たれてしまう人物なのです。
それでも、
洗礼者ヨハネは、「洗礼」という
イニシエーションを残したではないか、
と言うかもしれませんが、
イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp
それは、
「あなたがたは行って、すべての民を
わたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と精霊の御名によって、
バプテスマ(洗礼)を授けなさい」
(マタイの福音書28:19)
というイエスからの言葉によるもので、
むしろ、キリスト教会において形式化した
サクラメント(秘跡・聖礼典)のひとつです。
そもそも、ヨハネの授ける「洗礼」は
教会や宗団の名によるのではなく、また、
神や精霊の御名もまったく関係なしに、
出典:www.diwanmsr.com
その名が示すように、ヨハネひとりが
授与者であって、そのことを「洗礼者」
という呼び名が如実に物語るわけです。
洗礼を授ける受洗者にも一切の条件
(区別や差別)はなく、「悔い改める」心と、
「神に立ち帰る」意思が重要とされていて
、正しい行いにより、魂が浄化されること
に基づいて、体を「聖別」するためには
「洗礼」を受けなければならない。
としていたわけです。
『洗礼者ヨハネの斬首』部分
ここに斬首されるに至る悲劇の淵源が
見え隠れしているわけですが、
『洗礼者ヨハネの斬首』部分
詳しくは、
『ダ・ヴィンチの罠 斬首刑』
を参照してください。
それでは、
『ダニエル書』に戻り、預言内容
を再検証してみましょう。
それゆえ、
「エルサレムを建て直せという命令
(BC457)が出てから、メシアなるひとり
の君が来るまでに七週と六十二週ある
ことを知り、かつ悟りなさい」(9章25節)
BC457年の七週(49年)後は、408年で、
ちょうどこの時期は『旧約聖書』における
最後の預言者とされるマラキが活躍
していた時代にあたります。
そして、
彼を最後に旧約の預言者の時代は
終わりを告げることになるのですが、
『マラキ書』
これが、「幻と預言とを封じ・・・」
としている『ダニエル書』9章24節
の意味するところであり、その六十二週
(434年)後のAD27年にメシアとなる
ひとりの君が現れるわけです。
ですから、洗礼者ヨハネを旧約の
最後の「預言者」とするのは誤りで
あって、大いなる誤解なのです。
『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ
さらにメシアなる君が現れる目的は
「至聖所に膏をそそぐ」ためだった
のですが、その使命は果たされること
なく挫折してしまったのです。
なぜなら、その目的達成の証しとして、
「背きをやめさせ、罪を終わらせ、
咎を贖い、永遠の義をもたらす」
ことが約束されていたわけなのですが、
救世主がヨハネからイエスへと
入れ替わってしまったことにより、咎を
贖うところで頓挫をし、永遠の義を
もたらすことが出来ませんでした
ちなみに、
BC408年頃までに、「神」からの
啓示的な幻と預言とが封じられて
以来、400年以上にわたり、預言者
不在時代が続いていたのですが、
「メシアなるひとりの君が来るまで、
七週と、六十二週があることを知り、
かつ悟りなさい」
「七週と、六十二週」とに、区切られて
いるのは、そこに「幻と預言者」とを
封じた「神の計画」があったわけで、
メシアの到来をプロデュースする
ためのひとつの節目でもあったのです。
ところで、
『ダニエル書』に限らず『聖書』に
は微妙に異なる意訳が多々見られます。
もちろん、翻訳の仕方よって、それらは
大きく違った意味にも、あるいは、まるで
逆の趣旨にも感じられるものもあります。
たとえば、
その六十二週の後、
「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」
(ダニエル書 9:26)
これは【新改訳改訂第3版】ですが、
【口語訳】での、その部分は、
「その六十二週の後にメシアは断たれ
るでしょう。 ただし自分のためにでは
ありません」 (口語訳)
となっていて、いかにも十字架上での
イエスを思い起こさせるような記述に
なっています
イエスの死(磔刑) www.jizai.org
その他にも【新改訳改訂第3版】の
「あなたの民とあなたの聖なる都に
ついては七十週が定められている。
それは背きをやめさせ、罪を終わら
せ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、
幻と預言とを確証し、至聖所
に油(膏)をそそぐためである」
(ダニエル書 9:24)
あなたの民とはユダヤ人のことで、
あなたの聖なる都とはエルサレムの
ことを指すわけですが、
「幻と預言とを確証する」とは、
『聖書』に記述されているすべての
幻と預言とが成就することで、
『神の栄光』 mayonez.jp
「至聖所に膏をそそぐ」とは「神」
の栄光の光(シャカイナ・グローリー)
を浴びることですから、この場合には、
現在においても、未だ、その成就を
見ないでいることを意味します。
しかしながら、
この節においても、【口語訳】では、
「これは咎を終らせ、罪に終りを告げ、
不義をあがない、永遠の義をもたらし、
幻と預言者を封じ、いと聖なる者
に油をそそぐためです」 (口語訳)
となっていて、
「幻と預言者を封じ」については、
前述のように 天啓的な幻と預言者
とを、これ以後には出現させないことを
意味するので問題はありませんが、
「いと聖なる者」という表現方法は、
あからさまにイエスをイメージさせる
作為的なものになっています。
一般に、
『旧約聖書』の『ダニエル書』9章
はメシア到来の時期と十字架上の死、
そして終末の出来事を語ったもので
「七十週預言」としても有名ですが、
いかなる状況下での話かと言うと、
イスラエルの民が「神」に従わずに、
罪を犯していることを嘆いたダニエルが、
その行いが「神」の目に「悪」なる
ものとなれば、イスラエルのユダヤ人は
「選民」ではなくなり、約束されていた
メシアの到来も反古にされると憂いて
一心不乱に祈りを捧げていたところに
ガブリエルが現れて「神」の言葉
を告げるという設定です。
『The Vision of Daniel』 DROST Willem 1650年 blog.livedoor.jp
再度、第9章を冒頭から見てみると、
「メディア族のアハシュエロスの子
であるダリヨスが カルデア人の王
になったその元年、」
(ダニエル書 9:1)
「すなわち、その治世の第一年に、
私、ダニエルは 預言者エレミヤに
あった主の言葉によリエルサレム
の荒廃が終わるまでの年数が70年
であることを、文書によって悟った」
(ダニエル書 9:2)
とあります。
バビロンの王ベルシャザルが殺害
されてダリヨスが王となり、そこで
ダニエルは大臣になりますが、
おそらく、それはエルサレム帰還の
1-2年前のことだったと思われます。
ここでエルサレムの荒廃が終わる
までの年数が70年であるとは、
バビロン捕囚 wikipedia
バビロン捕囚の後、70年でエルサレム
に帰還できるという約束のなかで神が
語った言葉であって、決して終末期を
預言したものではありません。
「神」の計画通りに、70年を経ての
エルサレムへの帰還は成就しますが、
エルサレム帰還後の神殿の再建 blog.livedoor.jp
その後、500年以上の歳月を費やして
の「神」によるユダヤ救済計画は、
「(私を)呼び求めて歩き、祈るのなら」
また、「心を尽くして、探し求めるならば」
という「改心」(悔い改める心)と「回心」
(神に立ち帰ること)がその条件でしたが、
メシアである洗礼者ヨハネの死
によって、「神」の「救済計画」は
頓挫し、後継者であるイエスによる
イエス・キリスト計画へとその舵が
大きく切られて行くことになるわけです。
そこで、レオナルド・ダ・ヴィンチは、
この余儀なくされたメシアの変更が、
『ダニエル書』9章27節にある
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
を結び、半週の間、いけにえと供え物
とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
者の翼に現れ、ついには 定められた
絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」
という最後の一週に係る預言にある
と看破してみせたわけで、イエスは
何処まで行っても洗礼者ヨハネの
異母弟であり 「影法師」でしかない
というのが、どうやら結論のようですが、
(ホンマかいな) (んなわけないがな)
その解説は次回以降とさせてください。
その意味からは、「永遠の義」は、
未来永劫、訪れることはないのかも
「影法師じゃのぅ・・・」
やっぱり、
「無理かしら」
「ダメじゃな !!」
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
所詮(しょせん)、マリアの子は
「影法師」なのじゃ ・・・
「泣けてくるぜ !!」
こりゃあ、なんにしろ、
(詰め込みすぎやで・・・)
・・・ って、おいおい、
(ゲロゲロ ・・・)
出典:www.mustardseedosaka.com
『サロメ』ルシアン・レヴィーデュルメル画(1896年)
… to be continue !!
(… to be continued !!)