横浜のお耳の先生荻野先生が亡くなられたと聞いてびっくりしています。
思えば、たけぼんが小耳症で生まれた時、
情報も少なく、どのような治療法があるのか
わからず、おろおろしていたころ
母から新聞の切り抜きが送られてきた。
朝日新聞の「あいさつ抄」と言うコラムで
「握手をなかよしのしるしに」と言うサブタイトルが付けられていた。
この記事は今でも大切に保管しているが、
平成5年10月3日の日付、長男が生まれて4ヶ月のころの記事である。
「横浜市の上白根病院形成外科・荻野洋一さんは、握手を信頼のバロメーターと
かんがえています。先天的に耳のない子供たちの耳を40年作り続けている
荻野さんの治療は、病院や白衣におびえる幼い患者たちの恐怖や不安を除き、
意思との間に心を許し合う関係を育てることからはじまります」
これを読んで
「この先生に会いたい!」と思ったのだが、
上白根病院に電話する勇気が無いのが私の小心者なところ。
その後、また新聞記事で募集していた
「先天性四肢障害児父母の会」に入会したところ、
小耳症部会のアドバイザーが荻野先生だと知り、
父母の会の総会でやっとお会いすることができた時の
感動はいまも忘れない。
その後先生もご高齢になり、
結局別の先生の手術を受けることになるのだが、
この新聞の切り抜きは我が家の原点のような気がします。
荻野先生、長い間ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
思えば、たけぼんが小耳症で生まれた時、
情報も少なく、どのような治療法があるのか
わからず、おろおろしていたころ
母から新聞の切り抜きが送られてきた。
朝日新聞の「あいさつ抄」と言うコラムで
「握手をなかよしのしるしに」と言うサブタイトルが付けられていた。
この記事は今でも大切に保管しているが、
平成5年10月3日の日付、長男が生まれて4ヶ月のころの記事である。
「横浜市の上白根病院形成外科・荻野洋一さんは、握手を信頼のバロメーターと
かんがえています。先天的に耳のない子供たちの耳を40年作り続けている
荻野さんの治療は、病院や白衣におびえる幼い患者たちの恐怖や不安を除き、
意思との間に心を許し合う関係を育てることからはじまります」
これを読んで
「この先生に会いたい!」と思ったのだが、
上白根病院に電話する勇気が無いのが私の小心者なところ。
その後、また新聞記事で募集していた
「先天性四肢障害児父母の会」に入会したところ、
小耳症部会のアドバイザーが荻野先生だと知り、
父母の会の総会でやっとお会いすることができた時の
感動はいまも忘れない。
その後先生もご高齢になり、
結局別の先生の手術を受けることになるのだが、
この新聞の切り抜きは我が家の原点のような気がします。
荻野先生、長い間ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
私は33歳の男性ですが、母から産まれた時から「小耳症」で聖マリアンナ医科大学病院に在籍していた頃から上白根病院に移ってまでの「荻野洋一教授」の手術によって今日に至っております。
私はネットで「荻野洋一」を検索していたら「訃報」を知り、さらに検索していたら、あげは様のブログに到着いたしました。
いま普通に眼鏡を掛けたり出来るのは「荻野洋一教授」のお陰の他なにもありません。
気付くのが遅かったせいか2ヶ月近く経ってしまいましたが、何か「荻野洋一教授」に御礼が出来ない物かと思い、失礼とは分かりつつコメントさせていただきました。
本当はあげは様にメールを差し上げてお聞きしようと思ったのですが、メールアドレスが書かれていないのでコメントした事をお許しください。
いまこうして眼鏡を掛けながら何不自由なくパソコンに迎えるのも「荻野洋一教授」が居たからと言っても過言ではありません。
未来の行く「たけぽん賛」に頑張って下さい。と同じ「小耳症」だったおじさんが言ってたと伝えてくださると幸いです。
乱文をお許し下さい。
tenpomicoshi@yahoo.co.jp