旭川美都

文化芸術の力で北海道旭川市と世界を繋ぐ!
文化芸術都市北海道旭川と出身アーティスト達の輝きをお届け。

菅井基就(彫刻師、陶芸家、原型師)

2019-02-20 02:17:55 | 輝く旭川人アーティスト達

北海道旭川市は多くの文化人芸術家を誕生させた文化芸術都市です。

そんな旭川市で生まれ育った素晴らしい才能の持ち主達を紹介しています。

 

菅井基就(すがいもとなり) さんは北海道旭川市出身(旭川南高校卒)の彫刻師、陶芸家、原型師です。

現在は拠点を米国に移し『工房スウィッチャ厶』の名で小さい彫塑の仕事をしています。

菅井さんは大の猫好きでバイク好き。彼の作品のモチーフとして猫とバイクはよく登場いたします。

工房の名称『スウィッチャ厶』は菅井さんの知り合いの幼女が猫に付けた名前です。大きな声でその名を呼んでいたのが無性に可愛くてなんだか耳に残ったので、盗む事にしたそうです。

菅井基就さんのプロファイルと経歴(飼い猫とアートのエピソードです)

 中高時代から模型と映画が大好きで、市内映画館、そして竹内模型店によく足を運ぶ。それが講じてフルスクラッチ模型、映画に出てくるキャラクターのフィギュアの製作に没頭します。これが造形を楽しむきっかけになりました。

特にタケウチモデル六条店では店に屯しつつ、高校生のくせにコッソリ焼酎を呑んでは模型や洋画の話を店主、友人を相手に熱中する日々を過ごしました。

当然学業は不振、親不孝者で父親に散々叱られたそうです。

 

洋画好きな菅井少年は映画『ターミネーター』を観て監督のジェームス·キャメロンが特撮の模型製作者出身だと知り、それに憧れて米国留学を夢見る(因みにジェームス·キャメロン氏はカナダ人です)のです。

後に道都短期大学経由で、カンサス州のベーカー大学へ。そこで陶芸を学びました。参加した展示会で自身の作品が面白いように受け、良く売れたので『ひょっとしたらこれで喰って行けるかな』と自惚れる。

 卒業後米国で就職しようと試みますが、生まれつき商才が無く手前の売り込みが全く出来ないので失敗(グリーンカードも無かった) 。仕方なく帰国して色々なバイト(ロア工房さん等)を旭川でしながら小さい彫刻を制作し続けます。この期間に美術館のみ回る英仏国の旅をして展示物に圧巻されるのです。

 

大学院への進学を試みて再度渡米しました。

まだ有効なカンサス州の運転免許証を所有していたことと、生活費が西、東海岸に比べたら安いのが主な理由でカンサス州立大学へ進もうとしますが、手前の作品が彫刻にしては陶芸としては小くさく、彫刻っぽいという理由で拒否されました。

カンサス·ステート大学に進学を試みるが、陶芸科の教授と馬が合わず拒否されるのでした。しかしそこの大学院生に「お前の作品だったらウィチタ·ステート大学の教授に気に入られるんじゃないか」と言われ、そこを尋ねる事にしました。

 ウィチタ·ステートの陶芸科教授、リック·セイントジョンは、菅井さんと一緒で、大のオートバイ好き。しかも同様に偏屈物なので気にいられ、入学を認められました。

以後セイントジョン教授が引退するまで師事。主にオートバイが主役なコミカルな陶芸作品を創る。其処で今までに実物大のオートバイを陶芸で造った者がいない事に気付き、菅井さんは制作を開始します。

誰もやった事が無いという事はかなり難しく、馬鹿らしいからだと気付くも4年間一日最低14時間は作品の製作に費やすと言うスケジュールをこなして完成させました。その間全奨学金で学校に通っていたが、生活費を節約する為、違法に学校で与えられた自分のアトリエをこっそり改造してそこに住む。

電子レンジで調理した即席ラーメンとじゃがいもを食べ、学校のジムでシャワーを浴びるといった生活を卒業するまで続けます。『修士号と実物大の陶芸バイクを造った者』といった肩書があれば少なくとも何かしらの仕事が取れるだろうと浅はかにも思うが、根っからの商売毛の無さと偏屈が災いし無職する。

 後にトロフィーやビールタップハンドルを製造するウィチタの会社に原型師として就職。しかし不況の為に3ヶ月で臨時解雇され、就労ビザを失う。

生活のために違法就労の肉体労働をしながら、米国のガレージキット会社ニードフル·シングに依頼されたフィギュアを制作。以降ニードフルの為に数々のフィギュアを彫塑する。この間、ルームメイトが猫を引き取り家につれてくる。菅井さんは元々動物好きでしたが、母が大の猫恐怖症の為、実家で飼う事ができなく、その反動で大の猫好きとなり、飼うことになった猫、キティ·ミャオをモデルにしてイラストを描いたりするようになるのです。

同時期に アクションフィギュアのアクセサリー等を下請けで、マクファーレンやNECAの為に製作するが、雇い主に賃金を値切られたり、悪くなると納品後賃金を全く払ってくれなかったりしたのですっかり嫌になってしまいます。

しかしニューヨークのコレクター玩具小売り会社アモック·タイムのポール·ラッゾ氏とは親しく、彼が自社でアクションフィギュアをプロデュースする事なった時は、喜んで雇われ原型師として働く事になります。この間猫は雌猫のスクイーク、黒猫のティブスを加え3匹となり、特にティブスとはいつも一緒、切っても離れない仲になるのです。

この頃工房スウィッチャ厶を開設。主に猫バイカーのフィギュアを彫塑する。

球体関節人形が結構な値で売れていると知り、人形造形に挑戦。球体関節人形のリサーチ中に後に妻となるアシュリーと人形関係のフォーラムで知り合う。彼女と一緒に球体関節人形のパーツ(主に頭)を売る会社、名も無き工房を始めたのです。

1/4球体関節人形のプロトタイプを彫塑。評判は良かったが、製造費が高くつく割には売れそうも無いので生産には漕ぎ着かず。更に球体関節人形のファンには一筋縄ではいかない人達が多くまた手間がやけにかかる割には利益が少なかったので人形造りはすっかり嫌になったそうです。

 後々原型は3Dデジタル造形プログラムで行われるのが主要になり、デジタルが出来無い原型師は皆解雇される。菅井さんもその内の一人となり、原型の仕事が全く無くなります。

オートバイや、草刈り機の修理などして小銭を稼いていたが、仕方なく食い繋ぐ為に、警備員の仕事をします。

 

この時期に奥様を家族に紹介する為に実家の旭川を帰省します。旭川駅で彫刻の街、旭川をプロモートする為に開かれていた『動物彫刻展示会』に足を運ぶ。そこの受付の女性に「旭川は彫刻の街って言っても旭川出身の彫刻家の作品は殆ど無いですね」と言われました。「自分は旭川出身の彫塑家なんで一つ自分の作品どうですか?」と探りをいれるが、「あんたは有名じゃないから駄目ですね。」と無下もなく即座に返されたのです。

米国に戻って3ヶ月、愛猫のティブスに目前で死なれ愕然とする。自分のアトリエにいつもいたティブスの存在が無い事に耐えられず、彫塑をする気をすっかり失いました。半年ほど彫塑から遠ざかっていたが精神健康の為大学院卒業以来遠ざかっていた陶芸を始めます。

ティブスの為に陶芸で骨壺を製作する。小さい仕事、主に1⁄6スケールの似顔を彫塑するものが個人から来るようになって漸く以前の様に彫塑が楽しめるかなと思っていた時にキティ·ミャオが腎不全、あと2週間の命と診断され、また落ち込む。しかし突然死でちゃんとお別れができなかったティブスと違いキティ·ミャオと出来るだけ一緒にいようと警備の仕事を3週間休みキティ·ミャオを膝の上に乗せ以前のように彫塑に励む。

しかしキティ·ミャオに逝かれてしまい落ち込む。彼の骨壷を陶芸で涙流しながら制作。同様にやる気を無くした悲しい生活に戻ります。

 警備の仕事中に少しずつ木彫りで小さい看板作ったり、1/6スケールの肖像を作ったりしていたが、二月程前にスクイークが原因不明の病気になり、心配でたまらん毎日を過ごしました。堪りかねて獣医学では名のあるカンサス·ステート大学付属の動物病院にスクイークを連れていったが検査に2256ドルも掛かったくせに未だに病因は解らず落ち込みつつも頭に来ている。

 デジタル彫塑を独学して何とかまた彫塑で喰って行きたいと思っているが、矢張りスクイークのことが心配で、また直に手にとって彫塑出来無いのに楽しみを覚えず遅々して進まない・・・・・・

米国に渡って活躍する芸術家 管井基就さんのWEBサイトはこちらです↓↓↓

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