アブダビで入手出来る魚でお勧めを一種類、と言われれば、ためらわずにマゴチを挙げる。3年間の滞在期間、ほとんど毎週、2~3匹を仕入れてきた。そもそも扱っている店が広い魚市場の中でも数軒しかなく、そこでさえ仕入れが無いこともあるから、ひょっとすれば過去3年間のアブダビのマゴチの8~9割方は我が家で消費したかもしれない。
偏愛の理由は明快。
安くて美味いからだ。それも、刺身から天ぷら、お吸い物、バター焼きと、およそどんな料理にも向く。
海の無い奈良で生まれ育った筆者にとって、マゴチは馴染みの薄い魚であった。
この魚との「出会い」は、30代も終わりにさしかかってから。魚料理に本格的に興味を持ち始め、購入した「魚の捌き方」という本に写真が出ていたのだ。本当にそれまでは、そんな魚の存在すら知らなかったのである。ちなみに、アブダビで出会った邦人の中にも、そういう人が少なくない。
初めてマゴチを目にしたのは、それから更に数年後のこと。7年間住んだレバノンを離れ、東京に拠点を移した時だ(レバノンではホウボウは良く獲れるがマゴチは市場に並んだことが無い)。「角上魚類」で一尾700円で売っていたのを試しに買ってみた。
第一印象は散々だった。
まず、身体のヌメリとウロコの多さ、背ビレと腹ビレの鋭いトゲ。さらには大きく湾曲し、肉に食い込むあばら骨。捌きにくいことこの上ない。頭がデカく、可食部が少ない。更には、おそらく活け締めされていなかったのだろう、身は生臭く、刺身で食べるには抵抗があった。
筆者も家内も、「これはたまらん」と、一発で厭になった。その後も東京で、数回丸魚で売っているのを見かけたが、とても買う気になれなかった。
そんな筆者が2年後にアブダビの魚市場で見かけたマゴチに、もう一度トライしてみる気になったのは何故か。
いくつか理由がある。
まず、この間に読んだ数多の「捌き方」解説書が、いずれもマゴチを「白身の高級魚」、「料亭直行」、「夏フグとさえ称される」、と絶賛していたこと。あの時は何かの間違いだったんだ、このまま食べず嫌いを続けると一生後悔する…そんな気になりつつあったのだ。
次に、鮮度の高さである。
ある日、アブダビ市内の漁港に早起きして出かけたら、漁師が魚満載の鉄カゴを引き上げてトラックに積み込むところだった。まだ口をパクパクさせるハムール(オオモンハタ)や大型のアジ類に混ざり、大きなコチが入っていた。マゴチは冷凍や空輸ではなく、アブダビの砂浜で獲れるのだ(近くのビーチに潜った時にも目の前をマゴチが泳いで行った)。目利きさえ間違わなければ、確実に新鮮なものが手に入る。
ダントツのコストパフォーマンスの高さも特筆したい。
アブダビ魚市場の魚介の値段はまさにピンからキリまで。
最安の大衆魚はイワシやマアジの類で、一キロ5ディルハム(約115円)。最高は大型のハムールとイセエビなどの大型エビ。活きているやつなら、キロ100ディルハム(約2,300円)を超える。売れ筋の大型アジ類、ハマフエフキなどのタイ類はキロ30~40ディルハムが相場だ。
ところでマゴチ。一キロ10ディルハム以下である。日本で料亭直行の高級魚が、イワシと変わらない値段で手に入るのである。先ほど「可食部が少ない」と書いたが、それも知識が乏しかったから。実際にはマゴチの頭部やカマには美味しい身がつまっているし、骨やゼラチン質の皮からは最高の出汁が出るので、潮汁や雑炊にすれば最高だ。
マゴチは中国語で「鰐魚」と書く。扁平に潰れ、長く伸びた頭はなるほど鰐に似て、醜悪だ。体色も砂場に隠れる保護色の灰色と、極めて地味。捌くのに手間がかかるのに加え、この見てくれの悪さが、アブダビで一般の消費者に見向きもされない理由だろう。ちなみに、アブダビではマゴチには名前すらついていない。英語ではflathead(そのものだが)、アラビア語ではワハルと言うそうだが、そんな言葉を使っても誰も知らない。漁師や魚市場の人が良く使うヒンディー語でも、名前が無い。
ひとつ。このマゴチ、実は雌雄転換する。体長が40センチ程度を超えると、もれなくメスになるのである。産卵期の冬から春にかけて、この魚を買えば、もれなく極上の真子がついてくるわけだ。全身ほぼくまなく味わえるのである。
アブダビで初めて買ったマゴチの刺身にはまったく何の臭みもなく、ポン酢になじんでそれはそれは上品な味であった。それ以来、当時6歳の息子、4歳の娘まで含め、一家あげてマゴチのファンになってしまった。かれこれ2年半ほとんど毎週、欠かさずマゴチを食べている。
【欠点】
アブダビのマゴチの欠点を敢えて挙げるなら、活け締めされていないこと。どんなに鮮度が良くても、衰弱死した個体の身肉の味は活け締めのマゴチに敵わない。筆者は名古屋の柳橋市場と白子の鈴鹿漁協直売所で一尾ずつ生け簀のマゴチを仕入れ、活け締めしたが、その身肉の透明感とプリプリした歯ごたえは、同じ魚と思えないほどだった。もっとも、刺身以外の料理であれば、活け締めと野締めでそれほど味に大差は無いというのが筆者の印象である。
もうひとつの欠点はおろし難さ。特に密集したウロコを綺麗に落とすのは至難の業だ。筆者はウロコ引きでサッとウロコをとった後、全身を金タワシで力を入れてこすっている。
【目利きの仕方】
漁獲量が少なく、白い腹を上向きに、他の魚に混ざって無造作に並べられていることが多い。しかし必ず手にとって鮮度を確認すべし。
外見でわかりやすいのは、他の魚と同じで目とエラの色。目は透明感があって、瞳は黒く澄んでいるのが良い。エラはカマの上のエラブタを広げて、鮮紅色であることを確認する。黒ずんでいたり、エラの中のヌメリが強いのは痛み始めている証拠。目やエラの色に疑問を抱いたなら、迷わずエラの匂いを嗅ぐ。少しでも悪臭があれば買ってはならない。
筆者はアブダビと名古屋の柳橋市場で一度ずつ、苦い経験をしている。
どちらも同じ手口に引っ掛かった。
一尾だけが手に取れる場所に置いてある。そこそこに新鮮なので値段を訊くと、有無を言わせず奥まった場所に置いてある数尾と一緒にビニール袋に詰め込み、「まとめて○○円(ディルハム)だ、持っていけ」と来る。お買い得価格だから言い値で引き取って、家で捌く段になって腐っているのに気づき、地団駄踏んで悔しがる、というわけだ。
【調理例】
① 薄造り
鮮度が高く身が締り、透明感があるなら迷わず薄造りに。色鮮やかなお皿に盛りつけ、身の薄さをアピールすると高級感が演出できる。葱の他、湯引きあるいは炙った皮を細かく刻んで、身の上に散らすと一層豪華。ポン酢であっさりといただく。
② 刺身
同じ刺身でも、厚めに切ればわさび醤油に良くなじみ、極上の刺身あるいは寿司ネタになる。
③ ユッケ風
アジのタタキのように、糸造りにした刺身をさらに短く切り分ける。キムチの素、ポン酢、刻み葱、ごま油と和えるとマゴチのユッケ風の出来あがり。酒の肴として、あるいはごはんのおかずとしても一級品。
④ バター焼
読んで字の如し。フライパンにバターを溶かし、切り身を強火で焼く。塩コショウしてほんのりキツネ色に焦げ目がつけば出来上り。シンプルそのものだが、バターの香りが上品な白身にマッチして、止められない味わい。
⑤ コチ飯
岡山ではマゴチのお吸い物を白米にぶっかけた料理のことを言うそうだが、我が家では研いだ米の上に良く炭火で焼いたマゴチ(頭部を落とし、切り分けたもの)を乗せ、水と素麺の汁を加えて炊き上げる。炊き上がると身をほぐしてご飯に混ぜる。ポイントは炊き込む前にしっかりとマゴチに火を通すこと。生焼けのまま炊き上げると、臭みが残ってしまう。
⑥ 天ぷら
刺身用におろした柵に衣をつけてカラッと揚げる。大きなマゴチだと中まで火が通りにくいので、薄く切り分ける。天つゆに大根おろしで食べると最高。なお、天つゆは素麺つゆで代用出来る。
⑦ コチ子スパゲッティ
小さな鍋にバターを溶かし、素麺つゆ(無ければ醤油と粉末かつおだしでも良い)を混ぜる。マゴチの真子の袋を破り、生の卵を鍋に入れる(真子の袋は庖丁かハサミで切って、まな板の上でスプーンでかきだせば、きれいに袋の皮からはがれる)。スパゲッティの茹で汁をスプーン数杯分だけふりかけ、軽く卵を加熱する。生クリームを混ぜ、アルデンテに茹で上がったパスタにさっとからめる。
卵は茹で汁と、茹で上がったパスタの熱だけで軽く加熱、生の食感を残しておくのがポイント。刻みのりをふりかけていただく。我が家の冬の定番メニュー。
⑧ 潮汁
マゴチのアラ(頭、中骨、尾ひれなど)を鍋で炊く。沸騰直前に火を止め、蓋をして1~2時間程度おいておく。再度加熱してアラを取り出し、灰汁を捨てる。酒、醤油、生姜、葱を加えて味を調える。高貴な味わい。水の量を控えめにすれば、冷蔵庫で寝かせるとゼラチン質が固まり、煮こごりになる。その場合は醤油を少し多めにするなど、強めに味つける。