毎日、とても暑いですね。ただ、湿度が低くなりつつで、
もう秋の入口は、近くまで来ているかも知れない。
そんな気配も感じさせている今日の夜風です。
さて、少し私の両親のことを書くことにします。
ここに取り上げようとする内容に、深い繋がりがありますので、
では、今暫くの時間お付き合いのほどヨロシクです。
二親とも関西の出身です。父には兄弟が多く、父が上から二番目、
その下に女の子ばかり、4人います。下の子たちとは、
その分だけ年も離れているから、当然中学生くらいの頃には、
もう何人もの小さな子供を、その数だけ、間近に見て生活した経験者。
だから、幼児が相手なら、言葉で話してみても通じないのは承知している。
そうした小さな子の場合には、例えば、2歳ぐらいなら、どう振る舞うか、
どういうものに関心を持つか、どう扱わないと愚図り出すかも心得ている。
父には、そうした背景があったのを、今回やっと私も気が付けました。
父は早くに亡くなっていますから、自分は話して聞いたのでなく、
父が育った時の状況から推測して、そういう事情があって、私の母に
あの苦言が述べられていた意味だと、そこが理解できました。
その母ですが、母も兄弟はいます。4人兄弟の上から2番目です。
下に父の場合ほどは離れていないけれど、二人の弟がいます。
ただね。母親は関西の中堅繊維会社の社長の娘でしたから。
そうした昔の家では、女中さんが何人もいたりするくらいなのです。
だから何かに付け、いろんな面で、そこでは使用人も立ち働く。
家の中で、家族の前で、そういう場面において、居合わせている。
だから、弟たちの面倒を姉である母がみた経験も少ないはずです。
それにお嬢さん育ちの人ですし。何事にも疎い面が有り勝ちです。
おっとりしていて、人が好くても、生き方の器用な人じゃない。
東京まで嫁いでくれば、うちは夫婦二人と子供だけの核家族。
親元と離れ、昔なら簡単には行き来できる距離ではなかった。
子育ての時でも、手を借りたり、知恵をもらうも、できない相談。
その人が一人目を産んだ長男というのが、他でもなくこの私、
それから、ちょうど丸々2年目には次子である私の妹が生まれ、
私の母は、その妹の出産で産科へ入院をした時には、その時2歳の私を、
母は看ることができないので、大阪から祖母に上京してもらい
その頃は、まだ元気だった祖母に、面倒を頼んだそうです。
でも私が祖母を手こずらせ、食事をしなくなってしまい、
そこで祖母に私の好物の刺身を食べさせてもらったようです。
そのあとなんですよ。問題になる出来事というのがね。
母は赤ん坊の妹の世話をしてやることは、そうなります。
2歳の男の子は、母親とは、くっ付き過ぎぎぐらいにして
私は覗き込まれるように、一心に育てられていましたよね。
ところが、妹が生まれると、母は妹にも手がかかる格好で、
放っておく訳ではないけど、それまでとは私の立場も違う。
目の前に、2歳の幼児には目新しい赤ちゃんがいます。
興味を持って、何かかまってみたりすれば、妹は泣きます。
妹が泣けば、泣かさないようにと私を制止するのが母です。
ただ、どういう風に2歳児へ言うことを聞かせたものだか、
その要領は母には分かっていません。単純に叱ったりして、
また言葉で説明をしてみたり、けどなかなか聞かないと、
しまいに、一日中朝から晩まで私を叱っていたそうです。
それを見ていた父がですよ。そんなに私ばかり叱りつけていたら、
この子が大きくなった時に、どうするんだと、窘めたそうです。
当然です、どう相手をしてやらないと無理かを知っている父だ。
でも、言われたところで、どうしたらいいかを知らない母です。
この時のやり取りは、2歳の私に記憶などはありません。
ただ後になって、そういうことがあったんだよと聞きました。
これが、どういう意味か、特に気にも止めていなかった。
ただ、その時に2歳児の私が、おそらく困難を味わい、
中身がどういう意味かは理解する能力を超えているけれど。
なぜか、ある日を境に、私は叱られ通しに叱られ続ける。
で、そのことをです。私はあの日の通院の帰りのクルマで、
おや、待てよと、私はそういう目にあっていたんだと思い、
運転中の妻へ話ました。「このことだけど、いいかい」
これは2歳の子にしたらだよ。自分の中で言わば独占中の
母親を、突然それが適わなくなり、しかも理不尽なことに
ただただ自分は、その相手から叱られ通しに叱られ続けるし、
それは小さい子の目から見たら、自分が誰かを独占するのは
手を返して突然に終わりが来るし、同時に悔しい私が2歳児なりに
全身全力で気持ちを表現したろうし。泣いたりもしたはずだ。
でも結局、最後は、その何か一種禁止令に対しては逆らえない。
ただ見て見ない振りして、自分の中できっとその感覚を
麻痺だか、無視をして、押し殺して、耐え続けるしかできないさ。
その場合にだよ、これは殆ど言葉未満で、記憶未満であるし、
自分の一番最初のキツイきつい体験として刻まれるのだから。
これは何十年が経ったあとでも、その人の行動を支配し続けて、
支配はし続けるのに、それを思い出し自覚に上らせる事は
まったく出来ないことであり。でも、それは自分の中の原理にし続けて、
たまたまだけども、この出来事を聞いていたことと、今の状態が、
この今になって、私は自分の中で繋がったから、分かったけど。
つまりこれは察するに、私の問題というか、この病気の状態とかは、
その目に見えないところの禁止令を、ずうっと見ないで殺すため
なんと60年近く経っても続けてきていたのが、この病気の
こういう障害の本当の正体だったのかも知れないんだなあ。
そこを認めるまで、今日まで辿り着かないまんまに、来ていたのか。
いやあ、この60年間、いったい私は何をしてきた人生なんだろう。
どうですか。これを読んだら、驚いたのじゃないかと思う。
私は、そのあと暫く、
もしかしたら自分の何もかもが入れ替わるんじゃないかと思った。
でも、そういう事態は特に起きていません。
ただ、それから腹が立つ場面が、なくなりはしないんだけど。
怒ったが最後、訳が分からなくなるという現象は終わったみたいです。
60年も前の話です。この読み説きが正しいのかどうかは、
ハッキリ言って証明できないことですが。
でも、とても自分の中では腑に落ちる。
人間というのは、赤子の魂百までは、本当らしいです。
いやあ、驚いたというのは、まさにこのことです。
(完)
お付き合いありがとうございました。
それでは、どちら様も、オヤスミナサイ~~。
生きていると、こういうこともあるんですね。
いやあ。人生って、本当に素晴らしいものですね。