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いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その9)

2020年08月25日 | 日記



毎日、とても暑いですね。ただ、湿度が低くなりつつで、

もう秋の入口は、近くまで来ているかも知れない。

そんな気配も感じさせている今日の夜風です。




さて、少し私の両親のことを書くことにします。

ここに取り上げようとする内容に、深い繋がりがありますので、

では、今暫くの時間お付き合いのほどヨロシクです。




二親とも関西の出身です。父には兄弟が多く、父が上から二番目、

その下に女の子ばかり、4人います。下の子たちとは、

その分だけ年も離れているから、当然中学生くらいの頃には、

もう何人もの小さな子供を、その数だけ、間近に見て生活した経験者。

だから、幼児が相手なら、言葉で話してみても通じないのは承知している。

そうした小さな子の場合には、例えば、2歳ぐらいなら、どう振る舞うか、

どういうものに関心を持つか、どう扱わないと愚図り出すかも心得ている。

父には、そうした背景があったのを、今回やっと私も気が付けました。

父は早くに亡くなっていますから、自分は話して聞いたのでなく、

父が育った時の状況から推測して、そういう事情があって、私の母に

あの苦言が述べられていた意味だと、そこが理解できました。



その母ですが、母も兄弟はいます。4人兄弟の上から2番目です。

下に父の場合ほどは離れていないけれど、二人の弟がいます。

ただね。母親は関西の中堅繊維会社の社長の娘でしたから。

そうした昔の家では、女中さんが何人もいたりするくらいなのです。

だから何かに付け、いろんな面で、そこでは使用人も立ち働く。

家の中で、家族の前で、そういう場面において、居合わせている。

だから、弟たちの面倒を姉である母がみた経験も少ないはずです。

それにお嬢さん育ちの人ですし。何事にも疎い面が有り勝ちです。

おっとりしていて、人が好くても、生き方の器用な人じゃない。

東京まで嫁いでくれば、うちは夫婦二人と子供だけの核家族。

親元と離れ、昔なら簡単には行き来できる距離ではなかった。

子育ての時でも、手を借りたり、知恵をもらうも、できない相談。

その人が一人目を産んだ長男というのが、他でもなくこの私、

それから、ちょうど丸々2年目には次子である私の妹が生まれ、

私の母は、その妹の出産で産科へ入院をした時には、その時2歳の私を、

母は看ることができないので、大阪から祖母に上京してもらい

その頃は、まだ元気だった祖母に、面倒を頼んだそうです。

でも私が祖母を手こずらせ、食事をしなくなってしまい、

そこで祖母に私の好物の刺身を食べさせてもらったようです。



そのあとなんですよ。問題になる出来事というのがね。

母は赤ん坊の妹の世話をしてやることは、そうなります。

2歳の男の子は、母親とは、くっ付き過ぎぎぐらいにして

私は覗き込まれるように、一心に育てられていましたよね。

ところが、妹が生まれると、母は妹にも手がかかる格好で、

放っておく訳ではないけど、それまでとは私の立場も違う。

目の前に、2歳の幼児には目新しい赤ちゃんがいます。

興味を持って、何かかまってみたりすれば、妹は泣きます。

妹が泣けば、泣かさないようにと私を制止するのが母です。

ただ、どういう風に2歳児へ言うことを聞かせたものだか、

その要領は母には分かっていません。単純に叱ったりして、

また言葉で説明をしてみたり、けどなかなか聞かないと、

しまいに、一日中朝から晩まで私を叱っていたそうです。



それを見ていた父がですよ。そんなに私ばかり叱りつけていたら、

この子が大きくなった時に、どうするんだと、窘めたそうです。

当然です、どう相手をしてやらないと無理かを知っている父だ。

でも、言われたところで、どうしたらいいかを知らない母です。



この時のやり取りは、2歳の私に記憶などはありません。

ただ後になって、そういうことがあったんだよと聞きました。

これが、どういう意味か、特に気にも止めていなかった。

ただ、その時に2歳児の私が、おそらく困難を味わい、

中身がどういう意味かは理解する能力を超えているけれど。

なぜか、ある日を境に、私は叱られ通しに叱られ続ける。



で、そのことをです。私はあの日の通院の帰りのクルマで、

おや、待てよと、私はそういう目にあっていたんだと思い、

運転中の妻へ話ました。「このことだけど、いいかい」

これは2歳の子にしたらだよ。自分の中で言わば独占中の

母親を、突然それが適わなくなり、しかも理不尽なことに

ただただ自分は、その相手から叱られ通しに叱られ続けるし、

それは小さい子の目から見たら、自分が誰かを独占するのは

手を返して突然に終わりが来るし、同時に悔しい私が2歳児なりに

全身全力で気持ちを表現したろうし。泣いたりもしたはずだ。

でも結局、最後は、その何か一種禁止令に対しては逆らえない。

ただ見て見ない振りして、自分の中できっとその感覚を

麻痺だか、無視をして、押し殺して、耐え続けるしかできないさ。

その場合にだよ、これは殆ど言葉未満で、記憶未満であるし、

自分の一番最初のキツイきつい体験として刻まれるのだから。

これは何十年が経ったあとでも、その人の行動を支配し続けて、

支配はし続けるのに、それを思い出し自覚に上らせる事は

まったく出来ないことであり。でも、それは自分の中の原理にし続けて、

たまたまだけども、この出来事を聞いていたことと、今の状態が、

この今になって、私は自分の中で繋がったから、分かったけど。

つまりこれは察するに、私の問題というか、この病気の状態とかは、

その目に見えないところの禁止令を、ずうっと見ないで殺すため

なんと60年近く経っても続けてきていたのが、この病気の

こういう障害の本当の正体だったのかも知れないんだなあ。

そこを認めるまで、今日まで辿り着かないまんまに、来ていたのか。

いやあ、この60年間、いったい私は何をしてきた人生なんだろう。





どうですか。これを読んだら、驚いたのじゃないかと思う。

私は、そのあと暫く、

もしかしたら自分の何もかもが入れ替わるんじゃないかと思った。

でも、そういう事態は特に起きていません。

ただ、それから腹が立つ場面が、なくなりはしないんだけど。

怒ったが最後、訳が分からなくなるという現象は終わったみたいです。

60年も前の話です。この読み説きが正しいのかどうかは、

ハッキリ言って証明できないことですが。

でも、とても自分の中では腑に落ちる。

人間というのは、赤子の魂百までは、本当らしいです。

いやあ、驚いたというのは、まさにこのことです。



                       (完)


お付き合いありがとうございました。

それでは、どちら様も、オヤスミナサイ~~。

生きていると、こういうこともあるんですね。

いやあ。人生って、本当に素晴らしいものですね。





再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その7)

2020年08月24日 | 日記



先般からの続編です。



無理をしてしまったせいで、具合を悪くしてしまい。

結果、癇癪を打つけるみたいな暴れ方をした私でした。

この私の場合、無茶をして暴れてしまうと、どうなるか。

ま、一言でいえば、入院なり病院へ行けという結果になる。

確かに不測の暴力は、社会の都合で排除させたいことだからね。

その理由は、秩序の維持ができていないと、治世が利かなくなる。

こんな風に言ってしまえば、身も蓋もないことですけれども。

兎にも角にも世の中の仕組みというのを優先させていないと、

われわれ人間は簡単にカオスへと突入し兼ねない存在なのです。

仮に暴動でも起きたら、普段は暴れない人間まで暴力を振るうでしょ。

もし日常的な催眠が解けてしまったら、非日常に従うのが人間です。

これが働き出すと、普段の行動はしなくなります。群集心理しかり。

今だって、「コロナ」騒動が起きていて、世情は不安を煽っているから、

ウカウカと怖がっていれば、これに乗じて何をされるか分かりません。

われわれ市民を、どこにでも持っていけますから。

戦時下では、平和時の常識が否定されても、誰もが認めてしまう。

平和な時代なら、「戦争はダメ」が言えても、戦時下の反戦は投獄される。

捕まるのが嫌ならば→従う、という順番で選びに倣うのが人間。




さて、話が広がりましたが、具合の悪い私は通院しました。

診察室では入院も考えてみるべきという話は、ドクターからもありました。

ただ、もしそれを実行した場合、今の主治医と私との関係は、

一旦そこで切り上げにする、その意味合いも、そこにはあります。

つまり今、私の治療にあたるドクターの手から、患者の側の私としては、

もう一人また別の医師へと渡され、そこで次なる医師と私の間で

新たに治療関係のやり直しを一から始める、という流れになるのです。

これは今の治療は一旦終わりにすべきである、と認めるなら、

そっちの選択肢へ譲ることも考えられるけど、継続が可能かどうか、

医師は確かめようして、私に、あの声掛けをしたのだろうと思います。



先生は、とても言い難そうで、でも私に聞こえる声で仰いました。

「あなたは、奥さんを独占したい気持ちがあるから、暴れたのですよ」

下の子が帰宅していた頃ですから、妻の顔も娘の方を向いていた、

だけどそれを、何か駄々っ子みたいに、暴れて奥さんを「独占しよう」は、

まさか私が、それをするものだろうか。ドクターはこうも言います。

「奥さんを独占したい気持ちがあっても、いいではないですか」

確かに、そうかも。でも後で思えば、素直に認めないからこそ、捻じ曲がり、

ヒネクレタみたいに真っ直ぐじゃないボールを投げていて暴れたことです。

でも、知らず知らずに、その部分は自分の意識下に仕舞い込むようにして、

自分では認めるどころか、少しも何も見えていないという状態でした。

だからこそ、そこを指摘された場面でも、半ばポカーンとなるくらい、

私の中では、意味不明な????に聞こえたほどです。

だから、そんなことで、私としてはちっとも傷付きはしないし、

意外性こそMAXだったけど、これでカチンと来るとか微塵もなかった。

ドクターからは言い難そうでした。いや、言葉にしてからでも、まだ

「こんなこと告げて申し訳ないのだけれど」云々が付言されていたくらい、

あれ状況的には、私が逆上するの、先生は心配していたのです、きっと。

でも怒るどころか、ピンと来る話にすら、私には聞こえてきません。

ただ、これは困ったことだなあと思ったのはですね。

自分には少しも気が付けない部分で、私の行動は大きな左右をされる。

問題が盲点にあったのでは、自分で避けたいと思い目を凝らしていても、

目には入らないものが相手では、いくら見張りを立てておきたくても、

それは回避策になりません。もし後から何が起きたのか知れてもですよ。

実際の現場で対応ができません。そういう中身と同じことになるのです。

もう暴れないには、山の中へ行って自分ひとりで生活するしか手段がない、

私は本気でそこまで考えてしまうくらいに貧に窮した状態でした。




結局、私が暴力状態になる対応策とか、見付けられなかったのですが、

訪問看護の特別指示書を出して頂いて、連日2週間の看護師による訪問と、

投薬の内容の調節を行うことで、今回の危機状況を乗り切ろうということで、

次回の受診の予約をした上で、診察室から私と妻は出てきました。




私は奥さんのクルマで送ってもらって、自宅への帰途に着きました。

妻の職場は、好都合なことに私的な時間が働く人の判断任せです。

障害児を抱えたお母さんたちにも、どうぞ働いてくださいという

そういう職場環境なので、うちの奥さんでも仕事が続けられます。




そのクルマの中で運転者と助手席の私との間であった会話が、

実は、ここへ書きたかった主題なのですが、長くなりましたので、

次回と致します。ここまで、お付き合いありがとうございました。



では、またお伺いいたします、失礼します。



再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その6)

2020年08月22日 | 日記



どうもおはようございます。昨日も暑かったですね。

でも私は例によって、部屋の模様替えをしていました。

家具でも、何でも、その配置を変えるだけなのに、

それだけで、丸で別の家に来たみたいに気分一新します。

ほとんど日常的に、そんなことをするのが今の癖なのです。

諸条件で外に出るのが減っても運動不足を避けられる。

重い物でも動かしたりしながら、退屈知らずに過ごせて、

たとえ外の気象条件が厳しくても、空調さえ効いていれば、

力仕事も部屋の中でなら、熱中症の心配なしにホント捗ります。

家の用事は昨日の内にしましたが、都合で一昨日からの続きが、

今朝の取り組みへと、こうして持ち越しにした形です。

あと、今日は午前中、うちの人が仕事に出ていまして、

その代わり今日一日、シー・ズー犬を預かり中なのです。

今朝方も妻が、ワンコの療養型デイケアだと言ってましけど、

その子と今から一時、涼しい環境でブログの更新と致します。





さて、狭いわが家に長期滞在者を迎えた疲労のために、

調子が、すっかり危うい状態になって来ていた私でした。

まあ、無理もない話ではあります。5月から2か月以上も、

普段しないような生活を、ずっと続けて来たのですから。

不慣れでシンドイ目に遭遇して、僅かな息抜きをしたくても、

自分の居場所である自宅に舞い込んだ出来事なのですから、

仕事や通い先を一つも持たない私としては、逃げ場がゼロ。

疲れが溜まって来たら、調子に響き出すのは当然のことです。

もしも最初に、誰か専門家と相談をしていたら、果たして私が、

その状況でも大丈夫なのかと、念を押されたに違いない。

でも、もう後の祭り。耐え切れなくなった私に我慢は無理。

とうとう家で暴れて、暴発大噴火の私になってしまった。

きっと外部から来ているような訪問看護師さんの目には、

ここらで休ませないと、只で済まない様子は見て取れたろう。

だから、家から離して少し休養する以外に仕方ないことだ。

その判断は、あの時点でしていたことだと思いますよ。

暴れた日に、急遽の訪問で来てもらい、さっそく入院を

考える時期ではないかと、勧められたのですから。

でも、マジ参った。もう10年以上も入院はしていないし、

最後の入院は都内の病院で経験したことなのですもの、

正直言って、かなり怖かったです。知らない土地で

それも東京時代の掛かり付け医から聞いていたのは、

北九州は荒いですからって、散々私も言われていました。

そのドクターは九州内の別の他県の医大の出身者。

その話の信憑性の高さは確証間違いないと思われたし、

いっそ、東京に戻って入院させてもらおうかと本気で考えた。

緊急にメンタルクリニックへ通院をしたのは、言うまでもない。

その診察室で、私はドクターに意外な声を掛けられたのです。

最初何を言われたのか、自分の耳は????になりました。

まあ、それ書き出すと、続きの長い物語へと展開しますので、

本日は、ここまで、とさせて頂きます。




別に話を引っ張る意味じゃないけど、そこを書き起こすと、

何といっても、背景に約60年が控えていたのですから、

まさかまさか、そういう問題だとは、思いもしなかった。

人間の病気には歴史があったものです。魂消たね。



では、また次回。




再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その5)

2020年08月20日 | 日記


今日も暑いですね、北九州は凄いです。

さて、続きを書きましたので。どうぞ、お読みください。



施設で暮らしてきた次女は、「某コロナ」の影響を被って、

長い期間、ずっと家族と面会もできない状態でしたので、

そこを退所させ、自宅へ帰らせたという、わが家でしたが。

日中の過ごし方としては、通える場所の用意に成功しましたので、

次は、寝起きする住まいになる場所を見付ける必要がありました。

ただ、大きな施設では制限も厳しいから、今回は利用を見送って、

この際、グループホームを探そうということになります。

それまで入所施設で生活していた重度障碍者ですから、

これは生活の場を、今度は地域に移行させるという取り組みです。

近年はグループホーム(GH)も数が増えてきたとはいえ、

うちのような重い障害を相手にしてくれるようなGHは、

ある程度、限定されてきます。まだまだ絶対数も限られていて、

簡単に見付けられる訳ではありませんから、時間を要します。

昼間の通所施設は良い場所が見付かったけど、GHとなると、

どう探したらいいものか、どこならば引き受けてくれるかな、と

懸命に探す子供の母親と、私も一緒になって考えます。

うちの奥さんは、仕事をしながらで探すことを考えています。

でも私にしたら基本暇です。だから専従して頭に浮かべています。

しかも、その行き先が定まらないことには、私自身、落ち着けない。

そこは、いくら聞き分けの良い子が相手であるとしても、

本来、私から望んで、一緒に暮らすことを選びました、

という意味では、ないことですからね、ハッキリ言って。

避けがたく同じ家にいる状況にしても、長い間に渡って続いてくれば、

正直そこは多少なりともシンドイ面があることは否めない。

だんだんに自分も重荷だなと感じる部分の比重が増してくる。

使えそうなGHも見付かるが、だが内容的に困難な事情もあるとか。

もう無理を承知で決めるとか妻が言うので、同意できない私が反対する。

難渋してくるうちに、私もだんだん精神的に参って来ます。

そのうち私が少し切れ出すようになるので、もう慌てるようにして、

急かされて話が進み出します。私の窮状を知った施設の配慮から、

入居先のGHが取り敢えずで、決まるまでには至りました。

でも、それは正式というよりは、仮の決定だ、とかも耳にする。

ともあれ、最終的には、以前からの知り合いのGHだし、ここからも近い、

という好条件のGHに空きが出来ていたお陰での入居と相成りました。

ですが、その前後の経緯で気を揉んで、私も余裕が枯渇してました。

ふとしたことが切っ掛けになって、しまいには、

とうとう私もブチ切れ状態で、ついに家で暴れてしまいました。




その暴れたことが、入院をすすめられる直接の理由でした。

だが、その後の、とある出来事が、予想もしない洞察を私にもたらし、

それがワン・ステップ別次元の次なるアクションへの契機だったのでした。




次回は、そのお話を書かせて頂きます。

暑さが激しいので、どちら様もお気を付けください。ではでは




再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その4)

2020年08月19日 | 日記


昨日に引き続いての更新です。

5月に施設を引き上げ、自宅に戻って来た次女ですが。

その子の母親が苦労をしながら探した甲斐もあって、

毎日の日中の居場所としては、とても好ましい施設が見付かりました。

送迎をしてもらって通い出してみれば、子供も気に入っている様子です。

機嫌よく出掛けて、居心地よく過ごして、洋々として帰って来る。

家に戻って来てからも、落ち着いた感じで過ごせていました。

伺っていると、どうも入所施設に居た頃より元気そうなぐらいです。

毎日、積極的に関わってもらえる影響からなのでしょう。

とても生きいきとして、楽しそうな様子を見せています。

通いだす前に、この子の母親はちょっと心配をしていたのです。

もし、連れて行っても、本人が嫌がってクルマを降りなかったら・・・・

これは杞憂でした。手慣れたスタッフに心得がありましたからね。

次女も心開いて付き合えてるらしく、上手くそこで過ごせるようなのです。

そして家族が驚いたのは、こういう障碍の場合よく起こるのですが、

ついつい癖がついてしまい、執拗にその動作を繰り返してみたりします。

そうした常同行為を止めさせるのは、非常に難しかったりします。

今回の場合、なぜか食事の時だけ、手で顔を必要以上に強く擦ります。

あまりにキツク手の甲を擦り付けるから、擦ったオデコが赤くなるほどで、

それでも止めずに擦るので、傷が付いて怪我をしているぐらいでした。

だが何事にも専門家はあるものです。通所先で止めさせたのですから。

密接に関わるというのは、達者なことが出来るのだなあと感心してしまった。

こういうのも広い意味で自傷行為と呼ぶ範疇なのですが、

この子は他にも、自分の手の爪を使って、腕でも身体でもツネっていました。

強くツネって、あちこちポツポツと小さな赤い傷がたくさんできてしまう。

知らない医師が、そこを診ると、皮膚の湿疹状態だと見紛うぐらいです。

でも、それすら最近は減ってきて、肌の傷は消えてきましたから。

どうも私が察するに、辛いことや、嫌なことの一種の吐け口として、

そうした癖になる行為をしていたのではないかと、そうも考えられます。

これはストレスで抜毛するのが癖になる場合と、まったく同様にね。

だから、それだけ無理を強いられる思いを、今はせずに過ごせていて、

のびのびとした気持ちで毎日を暮らしている、そういう証拠なのでしょう。

これらの様子が、そうしたことの現れとして示されているのであれば、

今回は「某コロナ」なる一見歓迎せざる背景からではありましたが、

それを機会にして、身内の一人がより良い生活を手に入れたのだと思い、

そのことは私たち家族としも、とても気をよくしているのです。



明日は、この続きで、この子が寝起きする居場所を自分のものにするまでと、

また、これに並行で、私へ降り掛かる出来事の顛末を中心に書きますね。


では、また