いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

なぜしなくていいこと、してはいけない働きかけを、ひとはするのだろうか。

2019年12月03日 | 日記


病気や障害というのは、その何かを呼んでいるところの名前の意味でしかない。本来的にそういう内容が、本当に病んでいると言えるのか。あるいは、非可逆的に固定したような状態で、そのままに継続をして続く相手かどうかというのも、実は付き合い方で決まる問題なのである。更には、それらの特性について、こうしたものが好ましい出来事か、それとも不都合と見做すべき現象かというのも、多くの場合、その人の暮らす社会や文化の状態、要するに時と次第によってなのであるが。その扱い方も、著しい左右を被る、という結果になる訳だ。



これは何事であれ誰しもが、その当該の立場におかれてみると経験するのだが。そうした時代の都合や社会の背景と、無縁な世界に生きていきたいと願っても、周囲からの要請というものは、これを簡単に放っておいてくれないのが現実だ。自分の思いだけで決めていこうとしても、世間というのは実にお節介に働き掛けてくる。しかも、悔しいことに知らない間に自分の内側へも世の習いというものが染み込んでしまっているから堪らない。これが蝕むようにして自分の判断をすら歪ませてくるし。自分の抱える不都合は、単に自分が困るだけに留まらず、不都合な一面を持っている自分の存在そのものが、疎ましかったり、ネガティブに感じられたりしてしまう。そういう不条理な辛さを味わう目になるので、本人としてはそこを苦しむという悩みに襲われる。



しかし、事実として、それが在るというのは動かし得ないのだし。これを、見たくない、考えたくない、と強く思ってみても、けっして消えもしないし、否定できる訳でもない。嫌なことは、忘れてしまえば、済むものなのかといえば、それを忘れたつもりと、これが消えてなくなるは、まったくの別問題な話であって。認めることを拒みたいからと言って、その味わいたくない苦みを打ち消すための強硬手段の一助に、作り事の世界を創作せんと企てようと試みるとか、またこれを構築し続ける仕事へどれほど精魂傾け頑張り励んでみても、そういう目先の取って付けた下手知恵で戦おうという戦法は、結局は徒労に終わる話なのだ。そんな無理矢理な解決策には、キチンとした実効性が備わっているとはおよそ考えられないのだし。そうして必要に迫られ急ごしらえされてくる妄想というのは、これも確かに願望かも知れないが、所詮は虚構の産物であるからにして、これを用いるようでは周囲との折り合いは持てなくなる。いや畢竟、その隠れ蓑を使った戦術が、自分としては武装手段のつもりだとしても。これはしくじる。それが鎧と盾にできたとしても、この場合に戦うべき相手というのは、周りの外の世界に敵がいる意味ではないのである。正確には現実の持っている厳しさに、迂闊にも尻尾を巻いてしまっている己の弱味こそが、実は征服をしなきゃならない相手だから。鎧兜の中に立てこもり孤立無援に暴れようとしてみても、その解決策のつもりで打つ手は、自問自答するが如く、剣も矢羽根も全部がひっくるめて自分に返され、自分の刃に痛めつけられるのは己の身になるだけなのだ。



要は、初っ端の時点で、認めたくない事実という苦くて嫌な不味さを、これは避けて通れば済むことだという、その見込みそのものに、そもそも甘さがあった訳なのだ。



急がば回れである。せっかちな答えで遣り過ごそうという手抜きは、やっぱりそういう結果を招く。骨が折れるようだが、折らないといけない場合は、膝を正して厭わない生き方をするべきなのである。一度、折れた骨というのは、癒えて繋がったときには、折れる前より強くなる。そういうことである。



だが、この場合の本人を取り囲む諸兄に申し述べておくが、彼ら彼女らの弱さというのは、どこの誰からも責められる筋合いもなければ、何人からも咎め立てをされるような謂れは。どこにも、微塵もないことなのである。だから今ここで、貴方に問うことにする。貴方がそうしない、そうならない。という場合に。そこで避けられているのが貴方の手柄かと尋ねたなら。これは、とてもそんな話ではないのである。たまたまの、巡り合わせ、偶然の幸運が、あなたをして、そう導いてきただけの話に過ぎない。それこそ風の向きが違っただけで、あなたの力が及ばなくなり、あなたも同じことをしているのだから。いいですか。できない人に、できないことを迫る世間があるからこそ、彼ら彼女らは、そこで窮地に立たされているのです。頑張れと言って無理をさせると、その無慈悲な押しが相手を二度と立ち上がれないような状況へと追い込んでしまう。追い込まれるから、出てこられない相手に、それは行ってもいいような仕打ちなのでしょうか。



叩かれて死にかけている者に、死んじゃいけないと、引っぱたいたら、その一撃は命取りにしかならないのですよ。心臓が停止したら、蘇生させる目的で胸部をリズミカルに押すことがある。でも、肋骨を砕き、心臓を潰す強さで押し込めば、二度と生き返らせない条件を用意するだけになりますから。



むしろ、何もしない風で、丸で何の働き掛けもしないみたいで、だけど見失わず、絶対に見捨てたりもせず、いつも常に見届け続ける、そういう心意気を持ちつつ。その人々が始め出して動きだし、順調に任せ切れる時が来るところまで、これを粘り強く待ち焦がれ続け。いつも彼ら彼女らの傍らに居ながら気長に付き合えることに満足を覚える、そんな眼差しを向けて、見守り続ける強さを、ずうっとずうっと惜しみなく持ち堪えられること。その働きかけが一番に大事で必要なのです。また一番、今のわれわれの姿勢に欠けてしまっている部分が、そこなのです。育てるということは、仕向けることとは真反対です。どこまでも最大限に寄り添いながら、だけどせっかちに働き掛けて手を出そうという安易を退けて、傍らに居続けて働き掛けて、でも手を出すとか口を挟むという手を抜いた関わり方をしないという一番に骨の折れる仕事が、そこに求められているのですが。これを忘れてしまうから、育つ人が、育ちえない。救われる人が見捨てられていく。そういうことがおきてしまうのです。育つ力というのは、すべて、本来から、既にそのなかに宿している。そう、それは種に芽を出す力があり、命に息吹きする力があるのは、そこで。これは育てる人、育む者が、何かそこで与えたりするから、それがおこってくるものではないのです。育てる側が、育む働きかけが、何かでここを台無しにしない限り、それらは発揮をされるように、そもそもそこにそれがあることなのですから。



命は作れるものじゃないし、生み出せるものでもない。そこにある命とは、それが発揮させられることを秘めながら、拒まれない世界に生きようと待ちわびているのが、もしかして命です。








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