いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

これもまた営みの一つですから

2021年11月30日 | 日記

先ほどの続きです。
子供は自分で取り組まないと、
自分らしい人生が始められないのだけど、
それと並んで、親の側だって、同じように、
自分の未消化で済ませてきた事柄を認めることと、
そのことに取り掛かることをしないと、
自分も同じように次の段階へと入っていけませんし、
そういう方向に進んでいかないと、
今までしてきたような疑問な振る舞いというのが、
終われないし、やめられないままなのです。
子供が同じことをしてくるから、
自分も同じことを続けないといけなくなるですって?
それは少し、いやいやだいぶ違いますよお。



われわれと別の動物の子離れについて知ってますか。
もちろん種ごとで、それぞれに違うことも多い。
ただ非常にたくさんある事柄ですけど、
巣立つときや、親離れするときに、
それまで食べ物を運んできた育て親たちが、
ある範囲まで成長したら、
親の側から、食べるものを運び続けるのは止め始めます。
子供の側で食べるのを、食べないから、
食べさせなくて済む、ではないんですよね。
ずっと与え続けて来たけれど、それは、ここで終わりだよ、
だから、これからは、もう自力で賄うようにと、
その促しを進めていくのは、親の判断ありきで始まるのです。
子供が今までのように欲しがってねだっても、
切り上げることを行うというのは、育てている側でした。

でも、ほかの動物のことを猿真似することで、
それでいいというのでない、これも分かってはいますけどね。

だから、ここで述べたいなと思うのは。
前の投稿とも繋げて書いていく意味なのですが、

子供が一定の成長に達するような時期、
今度は、自分の親世代。
つまり自分の子供の世代からみて、祖父母ですが。
その人たちの発揮できる能力が以前とは違ってきます。
それはつまり、自分と親との関係の持ち方が、
そこで次第次第に別の状態へと移行するのが始まり出す。

人と人との関係は、その時期その時期で、変化します。
自分がしていること、していくことが、変わっていく、変えていく。
これは自分の判断で、それを行っているという様子は、
傍らから見て、気が付いていくのは自然なことです。

判断の主体すら、イニシアチブを取る側が、そこでは動くし。
この変化を見せて上げられていたんですねえ。

それ見ながら、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが、
もっと自分が小さかったころと、変わっていけば、
自分ではやれなくなっていくことへ、周りの応じ方が変わる。

生活の上で、実行は能力に無理が認められる。
その場合は、肩代わりをする立場から手を貸すという。
この当たり前を知らない人々は、障碍者とは何か、
そこにも気が付けないし、トンデモな勘違いしています。

老人の施設が増え出して来たのと、
発揮する力の上限が、低めな相手への配慮というのを、
無知なままでいる人々が増えた時期は相関してることでしょう。

何かが変わっていけば、その相手とするような、
やり取りも、変わっていくし、変えていく。

ここが見える化されてる機会が、いまとても少ない。
最後には命を終えて死んでいくんだというのすらもが、
そこでの生きてる命の在り方にしても、
目の前で、同居していて同じ家の中で、それを迎えること。
今時ないことです。

知らず知らず目にしていて、身をもって触れながらで、
気が付いたり、その出来事から教わっていくような学び方が、
今は減りつつあることです。

まして今の時代は、近隣とすら、
交流するのもハバカラレル事情があったり。

だから、昔なら、ある程度は自然にいくように流れてきた。
そういうことにだって、今であれば、意識をしながら、
気を配りながらで、意図的な取り組みを持つことが必要です。

それが出来るか、出来ないかが。
ここで問われてくることです。

一見、困ったこと、なくてもいいことに思えるような。
そんな難局であっても、
そのピンチをチャンスにすることができるのは、
これがピンチであるからこそ、取り組める機会にもなるのですから。

なくてもいいこと、あってほしくないこと。
これが感じられるのは、実際です。

でも、現実に起きてるし、迎えてるんですから。
なくていいことが起きた話は、もうしている場合じゃない。

起こったことには対処をしていく、それが行うべきことです。
繰り言の言い換え語を探すのは、もういい加減に終わりにしていく。
いつまでもそれしていれば、先になんか進めません。

先に進むのには、今日、昨日とは違うことを試してみる。

やってみて工夫を重ねる。

日々そうしていれば、振り返った時の過去が、

そのとき既に、まだ短いながらも変わりだしているんです。

生きているとは、時間と付き合うことです。

生きている間、これを続けていくことです。

それが営みだということですから。




家族もたいへんだけど、本人はつらいんだよ、

2021年10月10日 | 日記


昨日は地域の家族会に行ってきました。

そこで耳にした個別の件について、
直接ここへ書く訳にいきません。
それらの内容は個人上の事情であるし、
また自助グループとして例会を行う以上、
そこで聞いた話を、よそで他言しない。
これが最重要ルールの一つだからです。

ただ、その場で私が感じたことや、
私が自分で気付いた点をあげてみて、
そこが何を意味する話に読み取れたのか。

その辺りをブログに書いてみるのは、
書き方においての配慮ができていたなら、
私の考えを知ってもらうのに問題はないと思います。

というよりも、ぜひ読み手の皆さんと、
ここで共有を図ってみて、学びあうべきだなと、
そういった気持ちが湧いてきていますので、
今回は、そうした投稿内容で綴ることにしました。

また、そのことは、
隣人の体験から、知る、教わる、学ぶという点で、
セルフヘルプの本来でもあるのだし。
また共通のバックボーンを持ったお互いで、
支え合う、助け合う、認め合うことに通じることでもあり。
グループの趣旨や性質に添うものとしても、
これを読んでいただくことには、
そういう相応しさが備わっていると考えています。



では、書いてみますが。

参加者の何人にも共通する部分として言えると思ったのは、
まず、その本人の現状について、多くの家族は、
たいてい、もっとこうだったら、だとか。
あるいは、こんな風ではなくて、どういう具合に、
してほしいとか、なってほしいとか、
また、何々させてみたいと感じているのだとか。
そういう観点で物事を見たり受け止めたりしていることです。

もちろん、その発想そのものは理解できない話ではない。
そのこと自体なら間違った考え方とは言えません。
ただ腑に落ちないのは、もっとこうしてくれたらというのも、
もっとこうなってくれたらというのだって、
ある程度、上手くいくようになっている場合でも、
そして本人に任せられている状態になった家族でも、
さらにさらにで、続きを望み続けている様子もあるのです。

それは、どこまで良くなったかというより、
「いいところ探し」ならぬ、
まだ「良くないところ探し」がやまらないみたいな。

しかも、それらは昨日や今日から始まったのではなくて、
ずいぶん前から続いているはずなのに、でも依然として、
そういう見方で接するだとか、感じていたりなのです。

でも、少し考えてみてください。

それらが思ったように変わらないし変えられないというのは、
これは本人だって同様な部分として感覚していることなのです。

やめようとしても、やめられないし、
自分だって終わりにしたくてやまやまですが、
そう思ったくらいで変えたり終わりにできたら、
最初から困らないし悩まないことです。

むしろ自分がやめたいのに、自分ではどうしようもない。

ここのジレンマこそが、悩みや困りごとの核心部分というべきです。

つまり常に自分が抱えていて重荷になっていることなのです。



それが、どこから来るているかは、さて置いておくとしてですが。



何よりも家族という一番に身近にあって、
最大限ずっと長い間に渡り、
自分の目の前にいる、その相手から、
何かにつけ、本人には自分で出来ないこと、苦手なことで、
いつも常時、これはしないでほしい、やめてくれないか。
そう見ている相手が目の前に居続けている話ですから。

そう考えると、これは、それ以上の苦行がないぐらいです。

そばにいる家族と、病気をしている本人との関係は、
そんな境遇にいる意味だといっても過言じゃないほどですから。

やめたくても、どうしようもなく、やめられずにいるしかない。
そういう奈落な螺旋階段をグルグルしている本人ですが。
傍らにいる人間から「大変だねえ、辛いだろう」と思いやって、
そういった声掛けをしてもらえるのならまだしもだが。

これがそうはならない。
真逆に「お前は、いつまでしているんだ」
「いい加減にもうやめたらどうなんだ」
日夜そういって責め続けられてやまないのが現実です。

本人が自分の問題を引き受けられていないのもアレだけど、
そういう家族を抱えている家人が、
目の前に居る本人の、これが現状なのだというのを、
家族というのは認めようとしないのです。

その部分を、いつまで経っても引き受けないということでは、
家族にしたって、本人にしても、同じことをしている意味だし。
それを踏まえた上での次なる展開へと進まないのは当然でもあります。

確かに今の現実は不十分というのは百も承知だ。
でもなんで、今のようにしているか、
そこを汲もうとしていないから、
言い換えるなら、その事態に陥った相手の窮状を理解してこそ、
じゃあ、この場合、どうするかという、組み立てに入れるが。
でも、「この現状は認められないので責任を問う」みたいに、
善処を求めるがごとく困っている相手へ自己解決を迫っても、
これで解決に繋がるはずがないじゃありませんか。

そこを見えていないというか、知ろうともしないのです。


そもそもが、まず自分本人こそが一番大変な目にあるのに、
それに倍加するようにして家族からも追い立てられる形勢ですし。

これで困りごとが膠着するのは、いったい何が理由であるか。
傍目からは、手に取るように見えることでしょう。
だから少しは察してほしいと思わずにいられません。

それをわざわざ声に出して言われてみたりだとか、
口で言わないまでも、窺うような目付きで覗くようにされます。
そういう状況に日々晒されされているというのは、
ひょっとしたら病気本体そのものよりも、
こういう接し方をされる事の方こそ、
より一層に大きな苦痛になるんだといっていいでしょう。

そういう態度を一生懸命にやり続けられていて、
しかも、それを自分では間違った働きかけだとは、
微塵も考えてないどころか。
むしろ、そこに反発したりすると、相手から、
「お前のことを一番考えて言っているんだぞ」とまで、
そうまで言われてナジルようにもされたりします。

ですから、そういう本人を病気だとか、病人なんだと、
そういう見做し方で、呼んだりしているけれども。
その本人の病気の苦しさの中身の半分は、どこからきてるのか。
そこを家族こそ、少しは気付くべきなのかも知れないぞと、
そう思わずにいられませんでした。

さて、今日のところは、ここまで。
また続きを書きますね。
ではでは、






生きてれば、いろいろあるから・・・・

2021年09月26日 | 日記


困っている人に対して、あまりに唐突かも知れませんが、
そこにあるのは、何かの正解探しなんかじゃありませんから。

こうあるべきだとか、こうでないといけないことだから、
そういう無理繰りな順序に従いながら、
ひとが活きていこうする人生になぞ取り組んだりしているから、
どれが正しいとか、何は間違いだからみたいな、だけで。

そのためには、ここはどうしなきゃいけない、にもなるし、
どんな風じゃ駄目だから、ここは変えるべきだと決め付けてみる。

それで、ここはダメ、アソコは飛び出しすぎだって、
いつまでたってもハサミを持ってチョキン、チョキンって。
切ってきって、縮めまくって、まるで素人仕立ての、
下手な盆栽かなにかでも作っているみたいな、
イジリ過ぎをしているから、それでよけいに格好はつかないし。
見るからにヘンテコリンナ出来上がりにしてしまう。

これは手間暇かかる「時間」を味方にした作業なのに、
「一日」で作り込むみたいなつもりになってるもんだから、
いまの体裁を良くする気持ちに襲われたりして。

枝葉が自然に伸びて来るのを待つのも知らないし、
少しずつ変えていくことも分からずに無理な力を加えているから、
大事なところまでポキッとヘシ折ってしまうヘマしてるのです。

そこはもっと時間も手間もたくさん使うところだと知ろうとしない。
ダメなところを失くしていけば、良いところだけ残るはずって、
それはぜんぜん違いますからね。
今の格好が悪くても、一旦そこを伸ばしていってから、
しかる後に手を加えるんだって、そこまでは考えようとしません。

目先の判断と、見通し持った計画とが、もうすべてがゴッチャ。
育つ、育てる、ということには、時間が要るし、
総合的な判断というのは、単なる目の前のこととは違うのですよ。
それを分かろうとしない知恵不足になっています。

第一、人間は、ある意味どんな風でもアリなのです。
どういう形だって、それは、それで、それなりに良い訳なのですよ。
そこさえ理解をしていれば、ここ不味い、あそこダメの、
ダメ押し世界で、結果すべてをブチ壊しにする、
イジリ過ぎて壊しちゃうアホアホだとか、
下手すれば八方塞がりしか残されてない気分になってみたり、
そういう勘違いしたドツボでグルグル回りになっていく。


取り敢えず、現状いまこうだ、というのは、
すべて現時点、それでいい、構わない、良しとする。
先ず、その評価をすることです。

なぜならば、
それが、そうであるとは、
そもそも、そうなるはずだからこそ、そうなっている。

だからこれは、そうなる必然から生まれ出でたところの、
現状な訳でして、これが、
いま目の前にある、その状態なのです。

だから、これは、なんでだろうじゃないんです。
それが、そこにそうあるのは、これが何のことだろうと。

先ず、それを認めろ、引き受けろ、というのは、
つまり、そのことであって、
それで、その物事は、そのようにしてあるんだということを、
目の前にあるのを、認めたうえで、
とにもかくにも、まず承知をしておくこと。

そう承知したうえで、そのあとですからね、
今後を考えるというのは。
そこにワンテンポの大休止を置かないと、
これが順序なんです。

承知するというのは、
文字通り、「承って」、「知って」おきます、の意ですよ。

その間を惜しんで、今即これダメ、あれ間違いに短絡をすれば、
今何が起きて、それが立ち現れている話なのか、
そこが抜け落ちてしまいますから。

そのことには、およそ考えが及びませんよね。
考えもせずに、すぐ次に取り掛かろうとするので、
その失敗が次に生かせなくなります。

だから失敗をしたら終わりだみたいな馬鹿も言いかねない。
失敗というのも、それをキチンとしておかないと、
次に取り組むときに、そこで探せるはずの方法も見付けずで。

それもこれも、まず現状あることの必然が分かっていないから、
判ってないせいで同じシクジリ方に、また落ちていく。

嫌なことを嫌だから、だけでは困るんです、大人として。
嫌なことを嫌なこととして、その不味さを味合わないとね。
味合わおうとしないから、苦いものは、
苦いもので価値があることに気が付けません。

だから引き受けようとしない、認められないままでいたら、
認めてもらえるまで、そいつは何度だって、
畳みこむように幾たびもいくたびも訪れますからね。
言われているんですよ、私の言うこと聞いてみてくださいって。
聞いてあげないから、成仏しないんですよね。
ちゃんと成仏させてあげるには、
自分がやった、上手くなかったことというのは、
やった自分が、自分のなかで引き受けておかないと、
それが終わらず、いくらでも、いつまでも、残り続けて、
耳を貸してもらえるまで、何度でも問い続けてきます。

聴いてやる、聞き届けるというのは、
他者に関してのことだけじゃない。
むしろ我が身、我が行いにこそ、しっかり出来ていないと、
ほかの人のことにだって、正確には向かい合えはしないんです。
向き合っているつもりと、向き合えたは、別物なのです。
偽物は目を養わない人には見抜けませんから。

そういう偽物でお茶を濁しているような生き方は、
最期の時に、お前は何をしてきたのか述べよ、
そう問われたときに応えられないです。
応えられないことというのは、やはり成仏もしえないから、
次代も次々代でも、何代にも同じ問いは繰り返される。
あなたがしなければ、次の代。

私は8050の件でアワを喰う目にあっていることの、
本当の中身というのは、まさにこれだと思う。
自分が死んだ後に残された子供がどうだこうだというのは、
そこをあんまりカスリもしていませんけども、
そういう問題が、問われた中身のような気もします。


では、このへんで。

どうぞ秋の味覚でも楽しみましょう。

今夜は、何を頂きますかねえ。





きっと、お月さんも、見ています!?

2021年09月24日 | 日記

お月見はしましたか?
まだ今は大きな問題なさそうですが。
もうじき台風の強いやつがまた来るようですね。
これからの進路が大いに気になるところです。

さて、今夜は少し違う角度からで、
お話をさせて戴きますので。
気が向いたら、どうぞ読んでみて下さいね。

今回は、来たものは引き受けるということを、
少し考えてみようかなと思います。

どんな物事にも、これはありますから。
もし待ち焦がれていた何かが到来すれば、
これを迎えた方なら、きっと喜ぶところでしょうし。
また反対に、来て欲しくないような出来事だと、
その歓迎できないことに関して、
認めたくなかったり、飲み下せないなと感じたり。
それも、またあったりすることですよね。

これらを、別な観点で眺めてみるなら、
それは何の出来事でも、また物事にしても、
誰もが、ひとびとの眼差しというもので、
それらの良し悪しというのを、
自分の気持ちのなかで、評価してみるのです。

それもたいてい、非常に近くて狭い範囲で、
それを目の当たりに見ながらで、
これは良いとか、これじゃ駄目だとか、
けっこう好き勝手に自分都合な、
ほとんど偏見に近い決め付け方をしてみたりです。



だから、その場では嬉しいようなことじゃなくても、
でも、後になって振り返ってみると、
あの時に、ああいう体験をしていたことが、
後々、自分には、とても大事な経験でしたという、
そんな振り返りに繋がることもあります。


それ自体、確かに同じ物事・出来事なのですが。
ただ、自分にとって、それがいったい何だったかで、
あるいは、何々ではなかったという、
そういう気付きを、あとから持つというのは、
これは違う時点・別の観点に立てば、
評価は変わる、変えられるという経験になる。

もっと言えば、それは解釈ということですよ。
自分にとって、その何かについて、それをわが身に、
どう活かせるか、また殺してしまう結果に終わらせるか。
それは自分の物事の見方・考え方なのですね。
それ自体、何か絶対値みたいな意味合いでの、
価値や無価値が、そこにあるからではなくてですね。
何があっても、またそこに何がなくても、
それを、どう見るか、どう受け取れるかというさえもが、
これは、そこに立ち会った本人が持った、
その場の心の構え次第で、決められていくことなのです。
そこの意味合いというのが、色合いを染め変えるにくらい移る。
同じことの、その意味がマサに正反対になるくらい。


そこを知らない人は捻じ曲げだと受け取るかも。
そこに何の意味合いがあるかないかとは、
読み解く人の気持ち一つ、心の持ち方なのです。


きっと極端だと聞こえるかもしれない。
もはや、そこに何があるかないかというより、
あなたの心や気持ちに、何があるかないかというのを、
目の前にある何かに、あなたの心が被せるようにして、
それをあなたは、そこに何があるとか・ないとか、
そう映し出して、感じていることです。
そう言い切っていいくらいなほどね。

そこが極端にパーソナル過ぎる価値先行に奔れば、
ひとからは妄想の輩だとも見えるのだろうし。

でもこれだって幻聴を苦しめる相手だと言い張れば、
幻聴だって、主張をし続けるのでしょうけど、
受け入れる気になって、上手く付き合う気持ちに立つと、
幻聴さんと呼んで、慣れ親しむ人もいることなのです。

その幻聴が、幻聴だというのは、同じことなのに、
それと、どういう関係を持つか・持たないかで、
自分が抗い続けていれば幻聴にも苦しみを味わうけど、
心次第で、それを、どう受け止めるかが、
ここで変わってきたりしてきます。

ルーレットを回せば、当たりとハズレに物事が分かれます。
期待しているのがアタリでも、外れも必ず来る。
しかも、ルーレットだけじゃなく、
実際に好機というのは、限られて少ないことの方なのです。
人生というのは、当たりを狙っても、必ずババも引く。
当たりを狙いたいから、ババは抜きたくないというのでは、
もしかして虫が良すぎたゲーム参加者なのかも知れない。
最初から、外れあってこそで、当りのある仕組みですよ。
負けたくないから、ひとは勝とうと思って頑張ります。
負けるのは引き受けたくないから、勝負にも出ない?
生きていくというのは、勝ち負けじゃあないけれど、
頑張る励みが、どこにあるのかないのかを楽しめない。
上手くいっても、上手くいかなくても、
やるだけやり切って、楽しんだなあという心地は。
負けを引いたって、それはそれでチャレンジしたという。
そういう達成感がある訳で、その達成感を楽しむから。
また挑もうとする。これが生きているイキイキ感なのだと思う。

それは、誰が病んでいるとか、どこに障害があるとか、
傍のモノサシが横ヤリで決めてくるような事柄と、
もっと違う次元のことでして、あくまで主観ありきな、
自分本位な健康さの発揮をしているかどうかであって、
自分が活きているというのは、そういう意味だと思う。

楽しむというのは近傍からの他己評価的な基準から、
自分は、どう見られているかで、考えていたのじゃ、
本気になって面白がるなんて、なれないことですもの。
人生もっと自分が楽しんでナンボ、ということでいい。
自分の生き方は、自分の感じ方で楽しむものだと思えば、
好きにやってみる気がしてくるかもしれません。

変な言い方ですけど、
これはホンコの遊びなんだと達観すれば、
怖がってばかりいないで、マジに励んでみるというのが、
アリで面白がれるんだろうなあと思いますけど。
そういう意味で、これは大人になれるということでもありましょうか。


さて、明日は外出の予定がありますので、また。

オヤスミナサイ。

一週間お疲れさまでした。






今朝の投稿の続きです。

2021年09月21日 | 日記


朝、起きてきた妻が読んでみて、
あのブログに関する感想を聞かせてくれました。
それで、ひとによっては読んでも理解しないかな。
そんな気もしたので、これは追記ですが。

まず、植物や、動物の件に触れましたが。
あれは人間と違う意味で、述べたのではありません。
ほぼ同じように、言えるから例にしたまで。

人間は自由な意思があるので云々という。
そんな読み方をされてしまっていたようですから。

また、相手に聞く点も、それは観察してみて知る面が大きい。
何か問い詰めて、答えさせる式の、尋ね方で分かるは、
暗に、その聞き方で、何かを言わせるだけで終わる。

そんな問い詰めで、ひとの本意が聞けるものではない。
相手は、こちらを読んで、それに応じてくるのです。

「大丈夫だよ」が期待されていれば、そう応えます。
そういうのは会話としては成立をしていても、
これは対話する意味合いでの関係性は、そこにありません。

その意味で、2者間で二人だけで話すとそうなりやすい。
そこに3人目がいないというのは、そうなりがちです。
家族構成が小さければ、それは起きやすいし、

ひとは自分の気持ちを聞かれているのか、
それとも何かを期待されていて、言わされた意味の返事を、
するよう求められた場面であるのか、実に巧みに読みます。

小さい子でも、これは言えるのです。
フランクに本音を言う関係があるかないか。
そこの家に何か特有の偏りが少しでもあれば、
知らずしらずに、相手の気持ちでも、行動でも、
自ずと、そこへと誘導されていきますから。

まだ子供だから分からないなんて、とんでもないです。
むしろ、力関係上、一層これを敏感に読み取ります。

だから、家族だけでは、そこに臨める話じゃない。
どんなに気を付けて、気を配ったところで、
それがベースのように染み渡っていますから。

そこを表面的に誤魔化せる気になっているのは、
親の側にこそ、よくあることです。
どこの家族でも陥るところですけど。

さてと、昼にしますので、続きは後程。