古希のつれづれ

古希を機に、天から戴いた貴重な日々を有意義に過ごすために、日常生活を中心に駄文をつづってみることにした。

三途の川の渡り方

2006-08-19 | 生活信条

 かれこれ20年くらい前のこと、 「彼岸へ行くときに渡るといわれる三途の川は渡り方が三通りあることからその名がつけられた。すなわちこの世で、世のため人のために良いことをした人は上流の浅瀬を、そこそこの人は腰くらいの所を、悪いことをした人は下流の深いところをアップアップしながら渡る。世間でいう三途の川の渡し船などはない」ということをきいた。  
  還暦を過ぎた頃ふとそのことを思い出した。 そして考えた。
 今その岸に立ったらどのあたりを渡ることになるのか、決して悪いことはしていないまでも、良いこともしていない。まあ腰くらいかな、とは思ってみても、その判定は自分では出来ない。神仏の厳正な価値判断によるとすればどうなることか・・・。

・もし深いところをアップアップして渡る羽目になり、彼岸に着かないときはどうなるのか、この世で亡者にでもなるのか。

・もし泳ぎが達者ならこの世でどんな悪いことをしていても彼岸にはつけるのか。

・その逆でどんなに浅瀬を渡れても足腰が弱ければ流されてしまうのでは。

 などなど愚にもつかぬ事に思いを巡らせた。   しかし問題は彼岸にどういう形で着くかということと、それがどういう意味を持つのかということになる。ただ着けばいいということなら浅瀬であろうが深みであろうがどうでも良いこと。同じ彼岸でも着く場所というか地点が異なることによる、その後に生ずる差が問題である。こんな馬鹿な事を説いた高僧も学識経験者も誰一人いないと思う。 

 しかし三通りの渡り方があるといういうことから三途の川と命名した以上、そこに何らかの差がなければならない。  ここから先は小生などの考えの及ばぬ世界であるが、都合良く解釈して「彼岸からまたあたらしい人生が始まる。そして彼岸の上流の位置ほどスタートが有利になる。」 とこじつければ、凡人は素直に納得し、あの世がまだまだあるということから気持ちが安らかになる。 

 しかし仮にそうだとしても、今更過去をやり直すことも出来ない。出来ることはせめて残された日々を自分なりに世のため人のためになることを心がけるしかない。されど積極的にボランティア活動をやったり、気前よく寄付をしたりなどということは所詮無理というもの。 

 そこで愚考の末 「積極的に世のため人のためなることが無理なら、消極的に世のため人のためになればいい。それには人に迷惑をかけないことが最高である。従って決してぼけたり、寝たきり老人にならないように努力しなければならない。」と、すこぶる身勝手な都合の良い結論に到達した。  しかし冷静に考えればこれは大変重要な事であると思う。 以後今日にいたるまで以上のような愚にもつかぬ結論を金科玉条とし、その実践を心がけて生活してきたつもりでいるし、今後ともそのスタイルはなんとか貫いてゆきたいと思っている。