聖書と共に

我が内に善の宿らぬを知る

今日は、「ローマ人への手紙7章」からです。

「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)からです。

律法が人の内面の罪深さを鋭く指摘する聖句が
ある。「むさぼるな」である。
むさぼりは内心の強い願いの事である。

例えば、創世記では蛇が、「善悪の木の実を食べ
てはいけない。」という神の掟を利用している。
サタンは、その掟を用いて人の心に「むさぼり」
の思いを持ち込んだ。命に導くはずの掟が、
反って、死に導いたのである。

罪が「むあぼるな」の戒めを用いて人間の内に
ある罪を目覚めさせた。
パウロは、それに気がついた時、自分の内面の
汚さに恐ろしくなった。実は、それが古き人で
あり、肉的な私達の実体である。

またい5章21~48節には、キリストの律法解釈が
ある。主イエスは内心の動機にまで、さかのぼって、
問題にしておられる。例えば、怒りは殺人と同じ
であると言われる。

そこで、パウロは律法からの解放を教える。
律法的な信仰は人を活かさない。
キリストと共に生きる事により、律法から離れ、
罪深さからも解放される。

ここから「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)から
です。
私達は、概念的には、又、キリスト教では、自分
が罪人である事を知っているが、その事によって
震え上がる程、恐れ、おののいているであろうか
。罪の理解はあるが、罪の意識がない。それは
律法が無いからである。

なぜ、私達はキリスト教でなければならないか、
という事は、自分が罪人である事の、罪の
もだえが無かったら起きてこない。

聖書が教えているのは、これによらなかったら
救いが無いという事。
つまり、イエス・キリストが十字架について
死んで下さらなかったら、いつまでたっても
自分の罪を背負って行かなければならないが
、その罪を代わって背負っていて下さる方がいた
という事である。ここに大きな喜びがある。

神が私達に何を求めておられるか、について
厳しく自分に問う事をしないなら、それを
行わない罪人のために、イエスが死んで下さった
事が分からない。

偉い人は私達にとって必要ではない。必要なのは
私の代わりに死んでくれる人である。
一つしかない命を、私のために捨ててくださった
イエスを忘れて、自分のために生活しているなら
、それはイエスに対して、ふさわしい実を結ぶ事
にはならない。

イエスは正しい人のために十字架につかれたの
ではなく、罪人のために、十字架につかれたので
ある。


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