町に行って人々に言った。「来て見なさい。
私のした事を、全部、私に告げた人。この人は
キリストではないでしょうか!」
この町の多くのサマリヤ人が女の証しにより
イエスを信じた。さらに彼らは、イエスの元に
来て「この町に留まって下さい。」と言った。
イエスは二日間留まり、みことばにより、更に
多くの人々がイエスを信じた。
今日も、バックストンの「ヨハネ福音書講義」
より、ご紹介します。
救い主が来れば、ユダヤ人は皆、喜んで、
これを迎えるはずでした。けれども、かえって
これを拒絶しました。その為、主は退いて、
サマリヤの身分の低い者を、お扱いになりまし
た。その溢れる恵みは、ある所で拒まれれば
他の所で必ず溢れるものです。
ユダヤ人は神の選民と称されたる者でしたが
そのユダヤ人が主の恵みを拒絶するならば、
主は、神に捨てられたと見下されているサマリ
ヤ人を追い求めて下さいます。それだけでは
ありません。この女性はサマリヤ人の中でも
汚れた者とされていました。
ユダヤ人はサマリヤ人とは話をしません。
しかし、ここで主イエスの謙遜を見ます。
主は、この女性を救う為に、喜んで水をお求め
になります。
この罪人の魂を救う為に低い所に降りて下さい
ました。万物の王であるイエスは、ここで何も
持っておられませんでした。かえって、サマリ
ヤの女性、人々に捨てられた者に、恵みを求め
ておられるのです。
今、神がご自分を低くして、皆さんの様に
なってくださった事が分かりますか。
「私に飲ませて下さい」と皆さんに求めるまで
に、ご自分を低くして、皆さんの様になって下
さった事が分かりますか。
世の罪人には、これが分かりません。
かえって、神は高い所にいるものと思っていま
す。神は、ただ遠くにいるものと思い、ご自分
を低くして、自分達の様になって下さった事を
知りません。
生ける水は聖霊です。
「誰であるかを知っていたなら」の誰は
キリストです。
けれども、それだけではありません。ここに
父なる神をも見ます。
この女性は水を汲む為に、毎日、井戸に行か
ねばなりません。
まことの救い、まことの主の恵みは何かという
と、主が人々の心の中に井戸をお造りになる事
です。これがまことの救いです。ですから、
まことの主の救いは、井戸を頂く事です。
その時から泉となって涌き出ます。
これはサマリヤに起こった最初の大リバイバル
でした。
主はここで奇蹟を行わず、ただ言葉のみを
お用いになりました。こうする事でサマリヤ人
の信仰が進んだ事に注目してください。
ユダヤ人は多くの場合、奇蹟によって信じま
した。けれどもサマリヤ人は言葉によって
信じました。言葉によって信じる事が、完全な
信仰です。
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「人もし渇けば、私に来て飲みなさい。私を
信じる者は、聖書が言っている様に、その腹か
ら活ける水が川となって流れる様になります」
(ヨハネ7-37)