暮色に包まれ始めたエマオへの街道、沈み
がちに歩む二人の弟子、突然、復活の主は
近づかれた。しばしの会話…
この物語には信仰生活に必要な3つの
基礎的な事がらがある。
①間断のないキリストの臨在の自覚
多くの信仰者が、無自覚の中に臨在と
同行を頂いているのではないか。
これを自覚する程の霊的成長が必要であ
り、内面的な同質性を自覚しているなら
ば、なお幸せな事である。(ルカ24-15)
②間断のない、み言葉の語りかけを、とら
える状態 (同17、19、25、27節)
歩みながら語られた主は、私達にも、
この様に、お語りになる。
朝ごとに、事あるごとに、自他の為に、
それを聞く事の出来る霊的関係にあり、
更に、それが習慣となる様に。
③燃える心ー顕著な内的保証の必要
主のみ言葉は、人の心を燃やし、屈し
ない奉仕を成させるものである。
生涯を主との語らいの道筋とさせよう。
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差し示された御手と御足
よみがえられた主は昇天までの期間、10回
程、栄光の、お体をもって弟子達や人々に
姿を現された。
顕現の目的は、究極的には復活が確実な
出来事である事が、証明される為であった
が、一回ごとに、その意味する所には相違
があった。
主がしばしば仰せられたみ言葉の一つは
「平安が、あなたがたにあるように」で
あった。真に復活のメッセージは平である
。それは昔も今も変わらず、聖霊によって
主の確かな顕現を頂くたびに、ますます、
心中に深められていく証しである。
罪、死、思い煩い、恐怖からの全き解放で
ある。
しかし、今一つの著しい特徴は、主が顕現
のたびに、ご自身が「ほふらた」という
事実を、人々に印刻しようとしておられる
事であった。
イエス・キリストは私達の為に損なわれ、
傷つけられた。しかし、実に、その事実に
おいてこそ、私達と関係があるのである。
主は、度々、御手と御脇腹を示され、傷を
傷を見せておられる。不信を抱いたトマス
にも、その様にされた。 (ヨハネ20-27)
ほふられた主こそ復活の主であるが、
「イエスは、こう言われて、その手と足を
お示しになった」 ここに
「贖罪者なるキリスト」と言う事が十分に
現されている。
御手、御足の傷を愛の故に誇りとして示し
ておられるイエス・キリストを、私達は
よくよく黙想しなければならない。
そして、その御傷を、じっと見つめなけれ
ばならない。そうするならば愛が分かって
くる。愛は愛の接触によって呼び起こされ
るものである。愛は、あたかも山彦の様に
饗応するものである。
十字架に現された愛に、とらえられると
そこに応えるのは当然の事となる。
信仰は心が第一で、知識は第二のものであ
る。十字架の愛に、どの様に反応するかを
除外して復活を考えてはならない。
示された御手と御足に愛の応答が期待され
ている。
「岩から出る蜜」より