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聖書と共に

私の肉は真の食物(4)

今日も「贖罪の動力」の続きです。
「私を食らう者も、私と共に生くべし」
           (ヨハネ6-57)
献げものの内、食べる事を許されている
三つ目の事は、咎祭と罪祭を一つに数えた
ものである。
罪祭と咎祭の献げ物は、一部は壇上で焼か
れ、一部は食せられ、一部は営の外で焼き
尽くされる。

罪祭を献げた祭司は、それに与る事が命じ
られている。
この犠牲が会衆の、ある個人、又上に立つ
者の罪の為であれば、その祭物に与る事が
命じられている。

祭司は罪を犯した礼拝者の為に、犠牲を
献げるだけでなく、又、祭司、みずから、
それを食べるべきであった。

ある有名な著者の言葉には、助けになる。
「ここに、兄弟の罪を、自分の罪とし、
あたかも、自分が、その罪を犯した様に、
霊において、神の御前に、これを負うと
いう事である。この事が、いと聖き所で、
罪祭を食べる事につながる。
これは祭司の最高の御奉仕であった。」

我らは、霊的意義、適用に入る為に、
キリストに近付く必要がある。
ある兄弟が、罪を犯した時、彼に対して、
審判の座に座し、厳しい監察者の立場を
取り、その罪を我らに何の関係も無い様に
するのが、我らの傾向である。

しかし、これらは我らの祭司たる職能に
おいて悲しむべき失敗である。それは
いと聖き所で、罪祭を食べる事を拒否する
のである。
謝れる兄弟の罪を自分の罪となし、霊に
おいて神の御前に、それを負う程に、彼と
自分を同一するのは、恩寵の最も貴い実で
ある。

人々の罪の為に、信仰によって、キリスト
の犠牲に入り、彼らの救いと赦罪の為に、
時を費やし、信仰をもって嘆願する事が、
これを学ぶ次第である。

「私を食らう者は、私によって活くべし」
と主は言われた。それは、他人の為に、
生きる力を、キリストの内に見出し、人々
の霊魂の為の、私達の愛を、みな、傷つけ
られた方より受ける事を意味するのである

何人も、救い主の犠牲と、その救済の力を
感じて、他人の罪の為に、それを訴えつつ
、その罪を自ら負う事は、神の臨在の聖所
でしか、なし得ないのである。 おわり

   **********
バックストンの「レビ記講義」pー66

パウロは罪祭を食いました。イスラエルの
ために罪の重荷を負いました。(Ⅱコリント2-4)

ダニエルは国民の罪を感じ、祈りました。



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