聖書と共に

十字架

十字架はキリスト教の中心です。オズワルト チェンバースの「限りなき主の栄光を求めて」(旧いと高き方のもとに)に次の文がありましたので、転記します。
『神と罪の激突』
キリストは自ら十字架の上で、私達の罪を、その身に負われました。(ぺテロ第一の手紙2-24)

イエスの十字架は、神が罪に下される、さばきとは、どういうものかを如実に示している。
キリストの十字架を決して殉教の死と一緒にさてはならない。十字架は究極の勝利であって、それによって地獄の基までも揺らいだ。
有限の時間においても、永遠の世界においても、
イエス・キリストが十字架で為し遂げられた事より確かで反論不可能なものはない。
キリストは全人類が神と正常な関係に戻る事を可能にし、贖いを人が生きて行く為の土台とされた。つまり、誰でもが神との交わりの中に入れる様にして下さったのである。
カルバリの十字架は、イエスの身に偶然起きたわけではない。キリストは死ぬという目的をもって来られたのである。キリストは「世界の基が据えられた時から、屠(ほふ)られた子羊」(黙示録13-8)なのである。キリストの受肉は十字架がなければ、その意味を失う。(1テモテ3-16)と罪とされた御子(Ⅱコリント5-21)を絶対に切り離してはならない。受肉されたのは贖いの為であった。
神である方が受肉されたのは、罪を取り除く為であって、自己実現の為ではない。
十字架は有限の時間においても、永遠の世界においても中心をなす出来事であり、その両者の全ての難問に対する答えなのである。
カルバリの十字架は、人間の十字架ではなく、神の十字架である。その故に、人間の経験では、その意味を十分に理解する事は不可能である。この十字架は、神のご性質の現れであり、人類の誰もが個人として神とつながる事を可能にする入口である。しかし、私達は十字架のもとに来ても、そこを通過点とはしない。十字架を入口とする、命の中に、とどまり続けるのである。
救いの心臓部はイエスの十字架である。これほどにも救いが容易に得られるのは、神が途方もない
犠牲を払って下さったからである。カルバリの十字架とは、神と罪人が激突して融合し、命への道が開かれた場所である。しかし、この激突の痛みを、まともに受けて下さったのは神だったのでしょうある。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る