聖書と共に

我らはキリストにあって、神の義

今日は、Ⅱコリント5章です。

「人もし、キリストにあらば、新たに造られた
なり。古きは過ぎ去り、視よ!新しくなりた
り」

「私達はキリストの使者である。キリストに
代わって願う。
神は、私達の罪の為に、罪を知らない方を罪と
された。それは、私達が、彼にあって神の義と
なるためなのである。」

ここから「限りなき主の栄光を求めて」です。

罪とは根本的な関係の事を指す。
罪とは間違いを犯す事ではなく、自分のあり方
が間違っている、という事であり、故意に、又、
意を決して神から離れて生きようとする事であ
る。
キリスト信仰は、罪の持つ、自信に満ちた性質
が、あらゆる問題の原因であるとする。

他の色々な宗教は、個々の罪(sins)を問題にす
るが、聖書だけが、原罪(sin)を問題にしている
イエス・キリストが最初に直面したのは、人が
遺伝的に受け継いで来た、罪の問題であった。

聖書に啓示されているのは、私達が肉体で犯し
た罪を、イエス・キリストが、その身に負って
下さったという事ではなく、誰も触れる事すら
できない、脈々と受け継がれて来た罪を負って
下さった、ということである。

神は、ご自身の御子を「罪」とされた。
それは、神が、罪人を聖徒にして下さる為で
あった。
聖書の初めから終わりまで、私達の主が世の罪
を、その身に負われたのは、同情のためでは
なく、同一になる為であったことが、啓示され
ている。

キリストが、あえて自ら、その双肩に担われた
のは、人類が犯した罪の総体であった。

「神は、罪を知らない方を私達の為に、罪と
された。」とある通りに、神は、人類全体の
救いを、贖(あがな)いに基づくものに、して
下さったのである。

イエス・キリストは、神が元々、意図された
ところまで人類を復帰させてくださった。。
それ故、今は、誰であれ、主が十字架の上で
なされた、み業のゆえに、神と一つになる事が
できるのである。

自分自身を贖うことの出来る人は、一人もいな
い。贖いは、神のみわざであり、完全に成し遂
げられ、すでに完結している。

そして、個人一人ひとりに、どう適用されるか
は、その人の行動や、応答次第である。
贖いという真理が啓示されたという事と、
救いを経験する事とは、常に区別されなければ
ならない。

   ***************

私は過去を振り返り、
自己実現、自己の確立、などの思いがあった事
を恥じ入ります。
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