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聖書と共に

主を知らず

BC1350年頃のイスラエルでは、モーセの後継者ヨシュアも死んで世代変わりに伴って、主なる
神様を捨てて、他の民族の神々を拝する様になり
ます。

この士師記2章の所を「旧約聖書一日一章」(榎本
保郎 著)から抜粋し、ご紹介します。

聖書は、その時のイスラエルの人々の事を
「これは主を知らず、又、主がイスラエルの為に
行われた業をも知らなかった」と言っている。
彼らは、父や母、あるいは、祖父母から主なる神
様のみ業を聞いていたはずである。」

では、彼らは、どうして自分に対する神の栄光を
仰ぐ事ができなかったのであろうか。
 それは彼らが神のことばを、自分への語りかけ
として聞いていなかった、からである。
 神は決して一般論を語られるかたではない。
「アブラハムよ」と語りかけ、「アナニヤよ」と
迫られた様に、神は常に私たち個人に、語りかけ
られ、迫られるかたである。

彼らは、神のことばを聞いても、それを自分への
語りかけとして聞かず、ある時、ある人に、語ら
れたものとして聞いたのである。
 だから彼らにとっては、神のことばは、いつも
物語であり、昔話に過ぎなかった。

 その様に、自己不在のあり方に止まっている限
り、人は誰も、自分に対する神の栄光を仰ぎ見る事は出来ない。私達が自分の証を持たないのも、又、同様である。

神の私への語りかけを聞くように、聖書を読む事
によって、私達は初めて聖書のことばを通して
自分への語りかけを聞くことが出来るのであり、
そこから、祈りの生活が始まるのである。
もう一度、私達自身の、みことばへの、あり方を
顧みてみよう。

   **********
神は芝の中から彼を読んで「モーセよ、モーセよ
」と言われた。     (出エジプト記3-4)

主は又、重ねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼
ばれた。        (第一サムエル3ー6) 

あなたが右に行き、あるいは、左に行く時、その
うしろで、「これは道だ、これを歩め」と言うこ
とばを耳に聞く。    (イザヤ30-21)


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