コリント教会はパウロが、ゼロから立ち上げた
教会で、迫害に会いながらも特に注力した教会
でした。
彼は、1年半のコリントの伝道で多くの実を得て
船路にて帰路につきます。その間にエペソに立ち
寄り、プリスキラとアクラをそこに置いて、
エルサレムを経由してシリアのアンテオケ教会へ
帰り休みました。 (第二次伝道旅行の終了)
ここから、「使途行伝講義下」(バックストン著)
からです。
「さて、アレキサンドリア生まれでアポロという
雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じ
ていた。」
アポロは特別な賜物を持っている人でした。
聖書に精通し、しかも雄弁で、旧約聖書を良く知
り、それを講義する事ができました。
ここから「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)
そのアポロが、エペソに来て、主イエスについて
語っていたが、彼は信仰の理解において不十分さ
があった。それは、彼が「ヨハネのバプテスマ
しか知っていなかった」点である。
アポロは、ヨハネが教えた悔い改めを説いたが、
主イエスの十字架と贖(あがな)いについては、
十分な理解はなかった。
悔い改めは大切であるが、しかし、罪の赦しが
なければ、いたずらに心を苦しめる事になる。
主イエスの十字架と復活には、誰も提供する事の
出来ない救いの福音がある。
アポロの欠けに気付いたプリスキラとアクラは、
彼を自宅に招き入れ、福音の真髄を詳しく解き
明かした。彼らの態度は立派である。
後に、アポロが、アカヤ州(コリント、ケンクレ
ア、アテネ地方)へ行こうとした時、紹介の手紙
まで書いている。この様な対応を受けたアポロも
謙遜な伝道者であった。
バックストンへ戻ります。
天幕製造人のプリスキラとアキラは、熱心な学者
であるアポロの説教を聞いた時に、この人は、
まだ聖霊の火と聖霊の力を得ていない事がわかり
、自分の家に招き、一緒に聖書を調べ、自分の
証しをして共に祈りました。
妻のプリスキラの名が先に書いてあるので、ある
いは、妻の方が熱心に、又、力をもってアポロに
勧めたのかもしれません。
D・L・ムーディ(アメリカの伝道者)が伝道を
始めた時に、どこでも教会にいっぱいの聴衆が
集まり、いつでも悔い改める者があって成功を
収めていました。ところが、ある時の集会に
二人の女性が出席していて、ムーディがまだ、
聖霊のバプテスマを受けていない事を知りました
そこで、ムーディに向かって
「あなたの為に祈っています」というと、彼は
、これに答えて
「私の為ではなく、この多くの罪人の為に祈って
下さい」と言いました。
その後、彼は自分の不足を感じ、ついに聖霊の
バプテスマを求めて、これを得る事となりました
後年、バックストンがケンブリッジ大学に在学中
にアメリカ南部のなまりのひどいムーディが
やって来て説教をします。ここでバックストンは
主イエスを受け入れたのです。
「限りなき主の栄光を求めて」には
聖霊は、ご自身の性質と主の贖いの御業に関する
以外に証しする事はなく、まして私達の理性に
証しされる事は決してない