なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

新しい日本列島改造論

2008-09-24 | Weblog
 日本を治安の良い国にする方法。

 人口に占める高学力者の比率を高め、低学力者の比率を少なくできれば、犯罪・非行・暴力・いじめ・虐待・暴走行為等の交通違反・消費者金融からの借金等といった問題行動をする人間が減り、治安が良くなって住み心地の良い国家になる。日本を進学校にすればいいというわけだ。ただこれは実現できないので、妥協策として、各地に学力別の地区を造り、学力検査によって入居できる人間を決めるという提案をした。もともとは、こうした問題行動と学力とは負の相関があるという統計からの発想だったのだが、差別だという批判が出そうだし、障害者や低学力でもいい人もいるのに、そういうひとたちはどうなるのだ? という疑問も出てくるだろう。
 ここであらためて提案することにした。学力による選別というのはさまざまな基準のひとつに過ぎず、このような、一定以下の学力者を入居禁止にするという消極的な方法だけではなく、むしろ積極的な、音楽好きを募集して音楽愛好者が集まってできた地区とか、オーディオ愛好者によるオーディオ村とか、鉄道愛好者の集まった鉄道村といったように、本来なら、同じ趣味、似た思想や趣向を持つ人間たちが集まって特定の地区を作るのが好ましいはずなのに、どういうわけがこのような意見や提案が出てこない(すくなくとも私にはそう思える)。

 どういう利点があるのか?

1似た人種が特定の地区に集まってくるので、隣近所とのいざこざや対立が少なくなるし、かりに対立が起きても解消しやすいだろう。

2メディアは、まるで○○のひとつ覚えのごとく、やたらと、「地域が崩壊した」と騒いでいるが、もともとある目的、習性、好みに基づいてどこかに転居したり入居したりしていたわけではないのだから、インターネットやメール等が普及してどこに住んでいるかに関係なく自分の好みの相手が見つかるようになれば、隣近所や近い地区に住んでいる人たちとの交流が減少していくのは、むしろ当然、というか必然的なのではないか。上述のようにすれば、隣近所や同一の地区内での交流が増えるだろう。

3村おこしとか地域の活性化など、みな掛け声だけで効果が上がっていない。全国津々浦々に観光に行こうと思っても、伝統的なものとか特産の食材とか、いかにももっともらしそうなものばかりで、道路といい建物といい街や町村のデザインといい、似たようなものばかりで、訪問する気にならない。こういうのを金太郎飴というのだろうか。上述のような方式に変更すれば、各地域というか各地区ごとの特徴が建物や施設その他に現れてくることが期待できるので、観光する価値が高まる。

4これは別項でも書いたことだが、このような方式にしたほうが土地の有効利用とお金と施設や道具の節約になる。たとえば、オーディオ狂が同一の地区に集合住宅を建てて入居する場合、その地区のどこかに共同出資してオーディオ館という、公民館のようなものを作ることもできそうだ。巨大なウーハーを壁バッフルにマウントして巨大なホーンをセットすれば、コンサートホールに匹敵する大迫力のサウンドを再生することも可能だ(専門的な話になって申し訳ない。)。このようなオーディオシステムを個人の住宅で造るのは大変だ。最大のウーハーは口径が80cmもあり、これを鉄筋コンクリートの間仕切り壁に頑強に固定し、20Hzまで再生するとなると、開口径が5mほどもあるホーンを用意しないといけない。ところが、共同出資であれば負担は少なくて済むし、こんな大規模なオーディオを個人で所有していれば、しょっちゅう使うわけにもいかないのでそれだけ無駄が多くなる。似た者が集まっているので近所迷惑になる危険も少ない。
 このほか、別項で書いたが、鉄道愛好者が同一の地区に集まれば、一家の土地が狭くても、その地区を共同で使用すれば、トロッコ用の超狭軌鉄道を開通することも可能だ。自宅の前に軌間38cmの線路を敷設し、その線路がそのまま隣の庭に伸びており、そのままさらにその次の家という風に延長していけば、本物の鉄道に迫る迫力の鉄道が実現できるのだ。線路を敷いている場所だけは、鉄道区の住民の半公共の場所という協定を結び、使用したい人は自作の車輌を走行させて楽しめばいい。分岐器を設置して自宅に引込み線を設置してもいい。
 大阪にある庭園鉄道の家には、国内だけでなく海外からも来訪者が絶えないらしい。町おこしとして宣伝しているわけではないのにだ。このほか、片貝町も、全国から見学者が集まってくる。マニアの目は鋭いので、門外漢が地元業者の利権のために設立した何々博物館とかレジャー施設など、本物かどうか見破るのである。
 (追加)
 おもしろそうなので、追加する。『花火村』
 片貝町は花火の里として名高いが、なにもこの町に対抗するというわけではないが、私にもしも花火大会の開催と演出その他を任してもらえるなら、以下のようなものにするだろう。
 
1打ち上げは、12月の上旬に行う。
2打ち上げる時間を1時間以内とする。
3五寸以下の小玉は、同時打ちでのみ打ち上げる。
4大玉の最大は二尺玉で、10発程度打ち上げる。
5六寸以上は基本的に単発打ちとする。
6観客には入場料の支払いをお願いする。
7何人かが共同で出資し、片貝町の奉納煙火のように、メッセージを読み上げてからの打ち上げも行う。花火のデザインも出資者に決めてもらう。
8日没前の薄暗い時間から打ち上げを開始する。

 まず1であるが、とくに太平洋側では、一年中でこの時期が一番降雨量が少なく、雨天になる危険が少ない。気温が低くて湿度も低いので、音が良く響き迫力があるというのも利点である。12月上旬は日の入りが最も早く、早めに打ち上げを開始できるので、終わる時間も早くなり、余裕をもって帰宅できる。花火大会の最大の問題は混雑が激しいことで、これが嫌で行きたくない人も多いだろう。帰りの電車の混雑や渋滞は、考えただけでうんざりする。そのため、なるべく早めに開始して早めに終了して帰宅してもらうというわけだ。このほか、夏季は煙火業者は多忙を極めているため、新たに花火大会を開催しようとしても応じてもらうのが難しいだろうが、この時期に開催することはほとんどないため、業者も余裕で準備できる。
 2。飽きを感じず新鮮に鑑賞できるのは、どんなに長くても1時間が限度ではないかと感じるからだ。予算が少なければ、40分程度にしてもかまわない。長くてだらだらした花火大会よりも良い。
 3。単発打ちはもちろん、連発でも五寸以下の小玉はすぐに飽いてくる。せいぜい10分程度だ。ほとんどの花火大会は、小玉の連発打ちが延々と続き、観客は飽いているのに花火が消費されていくのだ。予算の無駄である。これなら、大玉を単発で打ち上げたほうがいい。しかも、できるだけ違った型のものを使い、同一物の打ち上げはできる限り少なくする。そのために打ち上げ時間が短縮してもかまわない。無駄を減らすためだ。
 4の二尺玉の10発打ち上げは贅沢だが、あくまで目標である。予算が少なければ当然数は少なくなる。一度に二尺玉が5発以上上がる大会はあまり存在しないと思われるので(小千谷の花火大会くらいか・・)、10発程度上がれば「世界最大の花火大会」が実現する。三尺玉や四尺玉は保安距離が長過ぎて、見かけの迫力に乏しい。片貝町は世界一の四尺玉を打ち上げていることを誇りとしており、他所の追随を許可しない。それ以前に、(知られたくない事情であるが・・)そもそも四尺玉は、火薬取締法に抵触している可能性があり、四尺以上の大玉を製造しようとしても許可されない。外国なら可能かもしれない。
 つまりこういうことだ。観客にとってはじつは二尺玉がいちばん迫力があり、実質的には二尺玉が最大の打ち上げ花火なのである。世界一の大玉を打ち上げている片貝町民の誇りに触れることなく、実質的に大玉の打ち上げ世界一を実現してしまうというわけだ。
 このほか、尺五(15号)玉や尺二(12号)玉という、珍しい大玉も打ち上げる。できるだけ独自性を強くした演出とする。あるいは、二尺玉と三尺玉の中間の、二尺五寸玉というのを新たに作成して打ち上げてもいいだろう。径が1.25倍になると、体積は倍近くにもなるのである。二尺玉の、比較的保安距離が短いという利点と、二尺よりも大きいという利点との交雑というわけである。
 5の大玉の単発打ちは、連発よりもむしろ見応えがある。一発ずつ読み上げてから打ち上げれば、時間稼ぎにもなる。
 6であるが、もろちんスポンサーの協力は大歓迎であるが、観客が料金を支払うことにより、鑑賞に値する花火と演出をしているかどうかが問われるようになるだろう。できる限り無駄を減らし、効果的な花火にしようとする圧力がかかり、望ましい方向に進むことが期待できる。
 7も6と似たようなもので、尺玉を一発打ち上げるだけで10万円近くかかるだろう。個人だと負担が大き過ぎるので、共同出資ということになるだろう。どういう色のどんな型のものにするのか相談して決めればいいだろう。そうすれば愛着が沸くだろうし、花火の発展にも貢献するだろう。ひょっとすると、今までになかった新型の花火が出来上がるかもしれない。
 8の、日没前か日没時に打ち上げを開始するというのは、もちろん早めに始めて早く終了するためだが、このほかに、最近の花火は発光が優れており、かなり明るい。このため、空が暗くならない時刻でも十分楽しめるのである。むしろ、完全に暗くならない状態のほうが美しい。というか、夕焼けの打ち上げ花火には独特の美しさがあるのである。それだけ多様性が増え、飽きにくいという利点も追加される。ただし、昔からある伝統的な、暗い和火は打ち上げない。
 関東地方だと、12月の上旬の日の入りは4時半頃で、この時刻に開始すれば5時半には終了する。夏の花火大会だと、遠方からの来客者は帰宅できないため、宿泊するなどしなければならないが、これだと日帰りできる範囲がだいぶ拡張するだろう。
 追加として、打ち上げ開始の1時間前から、15分ごとに雷(音花火)と煙花火を打ち上げる。打ち上げ場所を知らせるのと、退屈しのぎの意味がある。

 「何々愛好者集まれ!」と入居者を募るのを阻止することはできないだろう。とすれば、それ自体がそのことに興味と関心のない人たちを自ずと排除することになるので、結局は低学力者のような要注意人物の排除を阻止することもできなくなるだろう。結婚ですら、好きでないひとを排除して成立しているのである。
 このことは、各地区の住民の意思に委ねるしかないが、たとえば音楽区であれば、楽譜が読めるかどうか? 楽器がある程度弾けるかどうか? という程度の簡易試験くらいは実施してもいいだろう。楽譜を読むというのも、ある種の言語能力であり、ある程度の知力を要する。ラッツアンドスターのメンバーのように、低学力系でも優れた音楽能力を持つ人たちもいるが、だいたい比例していると考えていいだろう。低学力者の入居を許可する区は、それはそれで構わないが、準二級程度の学力はほしいものだ。
 これ以下になると、問題児の比率が増えてくる。三級以下になると、いじめ・校内暴力多発校の、いわゆる困難校(教員すら寄り付かない)に近づいてくるので、要注意である。

メディア批判

2008-09-22 | Weblog
 遺憾・懸念・地域・悲願の金メダル・助詞と時制を省略した言い方。

 別項で取り上げた、さながら地域真理教と呼んでいいほどの、ことあるごとに、「地域」「地域」と連呼して視聴者を思考停止に陥れたり、「遺憾」「懸念」といった単語を思考停止用語化して使い回すなど、キャスターや番組制作者の手抜きではないかと思えてくる。テレビ局の社員の平均年収は1000万円ほどあるらしく、一流大学の最優秀の卒業生を採用している筈なのに、この語彙の貧困さと思考力のなさはどういうことか? 情けないのは、上場企業の経営者までもが、インタビューや記者会見等で、「遺憾でございます。」だの「懸念すべき事態であります。」といった、メディア用語に汚染された言い回しをしているのだ。
 とくにあきれたのは、北朝鮮が核開発をしようとしているらしいということが判明したとき、アメリカ政府が、「北朝鮮の核開発に重大な懸念を持っている。」と報道したことだ。本当に原語で「懸念」などという言い回しをしていたのか疑わしい。超大国・世界帝国であり、予算といい技術水準といい量といい、膨大な、というか、めちゃくちゃな軍事力を持つ米軍が、廃屋寸前の北朝鮮と戦争して負ける可能性は万に一つもない。しいて可能性があるとすれば、米国本土に巨大な隕石が落下して、米国が機能不全に陥るほどの打撃を受けたときくらいだろう。戦って負ける可能性がほとんどない相手になんで「懸念」するのだ? 地域という思考停止用語と同じく、しゃべっているキャスター自身自分が何を話しているのか分かっていないのではないのか。本来「懸念」という単語は、ある対象が自分にとって影響が大きく、かつ、自分がその、脅威になり得る対象に対して不可抗力的な状態にあるときに、状況が不穏になりつつあるときにそのことを感知したときに使用する言葉なのではないのか。仮に北朝鮮が原爆を数個保有したとしても、軍事上何の脅威にもなり得ない。こんなことは軍事知識としては常識だろう。
 もうひとつは、北朝鮮の核がテロリストへ流出するのではないかという「懸念」があるではないか。という指摘もあるが、テロリストが核を使うというのは一見もっともらしく聞こえるが、そうでもないらしい。じっさいに使用するとなるとさまざまな問題があって、容易に使用できるものではないらしい。そうだとすれば、アメリカは恐怖感を煽っているということになる。こういうときこそ、「本当にテロリストが核を使用できるのか?」ということについて、テレビなどのメディアで徹底的に論争すべきなのだ。くだらない番組を放送する時間があるのなら、こういう問題についても論戦してほしいものだ。

 大阪の地震に因る女児死亡事故について

 これを受けて全国の学校のブロック塀の安全性を調査する通達が出たらしい。これ自体を批判はしない。しかし、このことから気づくべきなのは、あれほど震災対策に取り組んでいたのにもかかわらずこのような事故が起きたということなのだ。つまり、ブロック塀の安全性ばかりに取り組んでいると、今度は想像もしていなかった別の問題や事故が起きたりするものなのだ。それに、災害は地震だけではなく、大雨や台風や突風や竜巻もある。想定外や盲点を洗い出さなければならないというわけだ。こう考えていくと、いかに大変なことかが想像できるだろう。

 寸記の続き(文字数が少ないこの項目に追記していきます)

 身体的特徴から日本人に不利と指摘されるワールドカップや短距離走について、知能と運動能力との間には正の相関がありますから、平均知能が高いとされている東アジアの人たちは、それだけ高い運動能力を発揮しやすいわけです。これを人種差別と批判するのなら、身体能力やリズム感で優れている黒人も、それだけ高い知能を発揮しやすいということになります。
 サッカーワールドカップに関しては、別項にも書いたように身体能力の優れた人材はプロ野球に行ってしまい、これが上位を狙う最大の障害になっていると考えています。こんなことを書くと野球ファンからお叱りがくるでしょうが、あくまで客観的な分析として指摘しておきたいわけです。これはスポーツチームに限ったことではなく、大学や企業その他に至るまで、優秀な人材をどれだけ確保できるかによってほぼ決まってしまうわけです。したがって、今のような状況のままではワールドカップの上位を狙うのは、さすがに断念しなさいとまでは言えませんが、すくなくとも困難であるという覚悟くらいは持った方がいいでしょう。現実を見て見ぬふりをすることだけは避けるべきです。逆に諸外国から見ると、プロ野球は優秀な人材を吸い取ってくれるという、まことに好都合な守護神的な存在であるということになるでしょう。そしてまた当然のことながら、日本のサッカー界にとっての最大の敵はプロ野球界なのです。あのスポーツ超大国のアメリカですら、今回のワールドカップでは予選で敗退したということが象徴的です。あれだけの人口規模と経済規模と人種の多様性と、なによりも優秀な人材が世界中から集まっているという申し分のない有利な環境でも、有能な選手が集まらないとどうなってしまうかということを教えてくれています。

 体育会系オヤジの存在意義とその将来について

 私はこのような存在に対しては基本的に批判的だ。人間という種は酸素供給から遺伝情報に至るまで、知力とそれを担当している大脳の機能を最優先にするような体質にとうの昔に舵を切っているからだ。したがって科学や知識や知能や知力よりも、体力や運動能力や気力を重視して評価するという考え方は、人類の進化の方向と逆行しているし、それはすなわち、反人間的な思想の持主であり、最終的には淘汰されるべき存在であると考えている。このような体育会系オヤジの価値と影響力をいかにして下落させていくかということが、日本の未来を左右する鍵のひとつであると確信している。
 そのいっぽうで、その存在がある程度社会の安定に寄与していると考えることもできそうだ。運動は得意で勉強が不向きな男子にとっては、部活やその成果で採用してくれる体育会系の人たちがいるおかげで自分たちの存在価値が確認できるし、全世界的に男子の学業成績は女子の成績よりも低い傾向なのだ。男子の軟弱化というのがしばしば話題になるが、このような傾向は国内だけの問題ではないのだ。

 止揚しましょう

 諸外国からの死刑執行批判を「内政干渉だ」と反発してはいけない。どのような考え方や主張にもそれなりの理由があるからだ。かといって平身低頭として唯々諾々と受け入れてもいけない。
 尊師の執行はともかくとして、弟子の死刑には場合によっては多少は再考してもよかったのではないかというような気もしないでもない。

 AIの疾風勁草性

 今回の豪雨災害や洞窟の救助や復興でAIが活躍したという話は聞かない。はっきり言って糞の役にも立たないといったところだろう。私のような肉体的精神的に脆弱な奴ですらボランティアくらいのことはやろうと思えばできなくはないが、それすらも手も足も出ないだろう。AIは生物ではないから糞を食うことはできないから、むしろAIに仕事を奪われるなどと扇動している専門家とか教授といった人たちこそ「糞を食って出直してこい」というところだ。

 AIの自立(自律)の可能性

 かりにAIの普及によって雇用が奪われて社会問題になるのなら、それだけ社会に害悪を及ぼしたわけで、すくなくともその責任を取ってもらわなければAIが人間と対等の存在になるどころか足元にも及ばないだろう。新たな仕事と職場と職業訓練と斡旋や紹介や手配その他諸々を、いっさい人間の手を借りることなくすべて自律的(自主的にと言った方が適切かもしれないが)に行わなければならない。これだけのことをしてもようやく人間並みの存在になれる可能性がかろうじて見えかけてきたといったところだろう。

 核廃棄物の処理問題について

 核廃棄物をどうするのかという問題があるが、とりあえずは保管しておくというのが最も賢明なやり方ではないか。無責任なようだが、時間が経過すればするほど工業技術その他は高度化してくるし、原子力や物理の知見も蓄積が進んで高度化していくだろうからだ。

 ユーチューバーと読書量

 ユーチューバーの多くは、今後はいずれいわゆる「ネタ切れ」に悩まされることになるだろう。こうなったとき、これまで読書によってどれだけの知識を蓄えてこれたのかという蓄積力に左右されるようになってくるだろう。どれほど行動力のある人間でも、一人の人間が実体験で得られる情報など、時間的にも空間的にも限られるからだ。読書量とは、書籍に限定されたものだけではない。
 
 東京医科大学での女子減点について

 上記のように、男子の成績は女子の成績よりも低い傾向にあるというのは以前から指摘されていたことなので、驚くことはなかった。これについては、いろんなひとたちがすでに批判しているし、私は医療関係者でも大学関係者でもないので詳しい批評はできないが、そもそも男子学生の平均学力が低いからこのようなことをしなければならなかったわけで、教育関係者は恥ずかしくはないのか。とくに、休日にも部活の練習をさせている部活教員は、そんな余裕があるのなら補習授業をやろうという発想は出てこないのか? もっとも、部活の指導がしたくて教員になった教職員も多数いるらしいから、そのような期待をすること自体が間違いなのかもしれない。それとも、男子は体格と体力で女子よりも勝るので、そのハンデの分多少はあほでもかまわないということだろうか。
 体力が必要な外科医とかは女性が敬遠しがちで・・とかいう事情もあるらしいが、誰かが指摘していたように、そもそも医科大学とか医学部という名称自体が、さすがに詐称とまではいかないにしても近いものがあると感じる。職業訓練校とか専門学校というのに近いだろう。学問的な研究を専門に行うのは、東大の医学部などに限定してしまって、それ以外の医科大学は医師養成の訓練校というのに名称を変更したほうがよさそうだ。募集要項にも、医療の現場で働くのはこれほど大変で、これだけの体力が必要ですというのをしっかりと説明しておくべきだろう。大学の医学部も「医師養成訓練所」とかいうもののほうがよさそうだ。そうすれば、「医学部」という名称のもつ、なにか高尚で学問的な研究を行うかのような印象を抱かせることもなくなっていくだろう。自動車の整備士の養成所みたいなもので、車の下側に潜り込んで油まみれで行う作業のようにイメージしておいたほうがいいのかもしれない。
 部活については別項でも批判しているので重複してしまうが、休日を潰してまで部活を行い続ける学校については、行政の指導を行い。それでも改善されない場合は学校法人としての認可を取り消すというような法改正をすべきだろう。二回目までは執行は猶予することとする。
 その一方で、思春期以降は性ホルモンの性差によって体力の性差は拡大してくる。いくら男女平等とはいっても、生物学的な性差は何も変わっておらず、しかも学校という場は託児所としての役目も担っているから、男女を同一条件下で扱うというのは無理があるというのも事実だ。運動部の部活には、このような役目を果たしている面もあるから、すべてを否定したり批判したりすることもできないとは思う。現実を見て見ぬふりをする教育論や男女平等論の悪弊も指摘しておかなければならない。
 実生活や職場での、男女間での筋力の差がどのように影響してくるのか、そのへんのところを現象論的に詳しく分析して戦略を立てていくべきだろう。

 これに類似する現象として、ハーバード大学がアジア人の枠を狭くしているため、成績が優秀でも合格しにくいというのが問題になっているらしいが、いっそのこと成績のみで合否を決める大学を新設すればよかろう。優秀な人材が多数集まった大学こそが良い大学になるわけなので。

 追加
 「女医さんは眼科や皮膚科や美容外科に行く場合が多く・・」などという書き込みを散見しますが、そうなれば供給過多に陥って自ずと市場価値を下落させることになりますから、そのことを察知して自然と解消されていくのではないかという気がするのですが、医療保険も含めて日本の医療界は社会主義的な規則に則っているのでそういうわけにはいかないということなのでしょうか? 逆に言えば、外科や救急など、成り手が少ない部署に行けばそれだけ競争相手も少なくなるわけですから、大げさに言えば天下を乗っ取るようなもので、自分の市場価値も高くなって好都合になりそうですが。

 欲しがりません。勝つまでは・・

 オリンピックを誘致したり開催したりする費用があるのなら、学校にエアコンを設置するとか災害の対策費を増額しようとかいうような意見が出てこないのが不思議だ。われわれ国民はこれらいっさいの苦痛を我慢し、滅私奉公しながら選手の勝利に向けての喜び組として邁進していく所存でございます!!

 猛暑でお疲れ様

 今週は立秋ですが、統計上はこの日が暑さの峠みたいです。あくまで統計上でのことですが、ようやくという気が楽になる目安にはなりそうです。

 星一徹の現代版か?
 
 例の男山根会長が、男ということにこだわっているが、かなり珍しいと感じた。こんな人種が今現在生息しているということに驚いた。
 暴力団との関係が取り上げられているが、それを問題視するのなら、格闘家崩れの組員がいることをなぜ取り上げないのだ。

 因果応報

 東京オリンピックが猛暑に襲われたとき、様々な被害が発生するのではないかという「懸念」が浮上しているらしい。そのような事態が発生した場合やシステム変更その他の費用は、あとで森氏と石原氏に請求すればよかろう。「自分が蒔いた種は・・」という諺通りだ。

 風化の必然性について

 戦争体験とか災害の被災者らなどがよく、「風化してしまうのが怖い」などと発言しているようですが、そもそも風化の定義とは何なのだ? といった論議になったのを知らない。戦争や災害の被害者と同等の体験をしなければ本当に理解することなど不可能だし、たとえば食糧不足を理解しようと数日間断食を続けたとしても、健康上の問題も含めて良し悪しはともかくとして、その気になればいつでも食事ができるという環境にいるのだから、しょせんは食糧不足体験ごっこをしているに過ぎないのだ。風化どころか、同時代に生きていた人たちですら、当事者以外の人間に本当に理解することなど不可能なのだ。この現実と事情を理解したうえで戦争や災害を語り継ぐというのなら理解できなくもないが、この程度の認識もなく風化を嘆くというのはほとんど思考停止といっていいだろう。こんなに安易で呑気なことしか考えられない「風化懸念症候群」者の頭そこ教育されるべきだろう。
 このほか、歴史の不可逆性というものも頭にないらしく、かりに再度戦争に巻き込まれることになったとしても、なにしろ地球の裏側にまで画像付きですぐに情報が届くような時代なのだから、第二次大戦以前のような状況に陥るわけがないのだ。この点に関しても思考停止に陥ってしまっていると言えるだろう。 

 左利きについて

 左利きの苦労は左利きの人にしか理解できない。これも上記と事情は同じだ。右ききの人が一定の時間左手だけを使って生活したとしても、いざとなればいつでも右手が使えるからだ。

 小池都知事の車椅子体験ごっこについて

 テレビでたまたま小池都知事が車椅子に乗っている映像を見た。これも上と同じで、車椅子体験ごっこをしているに過ぎない。政治的なパフォーマンスか?

 不登校児の問題について

 学校など所詮は徴兵制が弱体化したものに過ぎないのだから、面倒だろうし嫌なことも多々あるだろうが、我慢して行ってみようや。というような雰囲気で説得するのが無難なのではないか。学校が本来素晴らしいものである筈だとかそうあるべきといった理想論を持ち出さないことも大切だ。このほか、学校教育の価値を下落させて大衆の多くが期待しないようになればさらに好ましいのだ。
 さらに追加するとすれば、成人になれば学校という徴兵制度からは解放されるが、その代わりに会社勤めと仕事と労働という徴兵制が待ち構えている。仕事や労働など、大多数の人たちにとっては勉強のように所詮は必要悪なのだから、会社とか仕事や労働を素晴らしいものであると称賛するような風潮も見直すべきだろう。
 
 サマータイムについて

 あまり詳しくないが、よく欧州と比較されるので指摘しておくが、イギリスとドイツの緯度は樺太の北半分くらいになるのだ。冬は9時頃になってようやく明るくなり、午後3時くらいには暗くなってしまうのだ。夏はこの逆だから、午前3時頃には明るくなり、午後9時くらいが日没なのだ。これほど自然条件の異なる場所と同等の効果が期待できるのか?
よく考えてみたまえ。

 魚離れについて

 骨を除去するのが煩わしいとか、臭いとか、器具を洗うのが面倒だとか、いろいろありますが、私などマイクロプラスチックが気になる。魚の消費を増やそうというキャンペーンもたまに見かけるが、勉強嫌いの子供に勉強の楽しさや面白さを知ってもらおうというのを連想してしまう。そもそも本人が食べたくない食品を食べさせようというのは何なのだ? そういえば以前は、「もっとお米を食べよう」というようなCMが流れていたが、いつのまにか見かけなくなった。農協のステマか?

 スポーツバカの体育系おやじについて

 練習が終わるまで水を飲ませないとか、非科学的、もしくはそれどころか害悪さえ及ぼすような練習を強要させておき、偉そうに怒鳴り散らしたり体罰を加えたりもするわ、命令絶対で独裁者のように振る舞っておきながら、こうした害悪を及ぼしたということについて何ら責任を取ろうとしない。それどころか内省すら働かないのだろう。こうした人種がいかにどうしようもない連中であるかということがよくわかる。私はさいわい野球部には入部せず、卓球部にいたのでブラックではなく、むしろホワイト部活というのに近かったし、地区の少年団はすぐに退団したのでなんとか避難できたというところだ。
 多少とも責任感や罪悪感があるのなら、せめてもの償いとして被災地にでも行ってボランティア活動でもやるべきだろう。
 本来部活など任意に過ぎず、入部しようがしまいがとやかく言われる理由などないし、嫌であるとかないとかに関係なく、いつでも退部でき。再度入部したいのならいつでもかまわない筈だ。部活をやめたがる生徒を非難し、根性無しとして叱るような腐脳症的な部活教員こそ教員免許を取り上げるべきなのだ。
 部活を頑張りたい人は頑張ればいいが、頑張りたくない人は頑張らなくても一向にかまわない。もちろんいっさい入部しないというのも問題ないのだ。悲壮感の漂う雰囲気で、「入部するからには・・」などという、教育音痴のバカ保守が喜びそうな精神論に依存する人たちというのは、これはもう宗教法人部活教団の信仰者という印象だ。

 新入部員やへたくそな部員は球拾いやら用具運びその他の雑用ばかり強制させられ、特定の選手だけが注目される。補欠や球拾い専門の部員は、応援その他の脇役が専門の喜び組として使われるというわけだ。こういうやり方に異を唱えようものなら、せいぜい非国民扱いされるか粛清されるかくらいが関の山だろう。
 日本の近くにあるどこかの国とそっくりだ。

 それでもすごい

 かつてマラソンの高橋選手が、「マラソンは楽しい」とかいうのを発言していたのを聞いた記憶があるが、そもそも42キロも走れるということ自体が信じ難いうえに、しかも楽しいと感じる人がいるというのを知って言葉を失った。マラソンなど苦痛そのものである人間にとっては、別の生物といった印象だ。もともとこうした頑強な体質を持つ人たちにとっては過酷な運動などたいした問題ではないのか。それとも精神的に強健なのか。とにかくその忍耐力には敬服するし恐れ入りますわ。

 選手宣誓

 我々受験生は、カンニングその他の不正な行為にはいっさい手を付けず、自分の学力のみを頼りとして正々堂々と競合することを誓います。

 戦争責任とは?

 この問題については、ずっと以前からいろんな人たちがいろいろと発言しており、戦中の人間ではないし歴史にも疎い私など、とても手が届かない。
 よく言われる、批判するのなら、他のどんな選択肢があったのかを示すべし。という指摘に基づけば、どんなに精査しようが誰にも分らないということだろう。
 なにしろ自然現象でさえ、バタフライ効果というものがあるので長期の天気予報は当たらないし、はるかに複雑な人間社会のことだ。ましてや戦争など、いったいどれだけの人間がかかわって誰がどんな役目を果たしていたのか、そのすべてを把握していた人など存在しない筈だ。早めに降伏すべきだったのか。そもそも開戦すべきではなかったのか。それなら、日露や日清戦争も開戦すべきではなかったのか。もしそうしていたら、それはそれで想像もしていなかった事態に陥っていたかもしれない。
 宇宙に存在するすべての原子や素粒子のすべての位置と運動量を正確に記録したデータに基づいて、そっくりの別の宇宙をシミュレーションして、別の選択肢を採った場合のその後の歴史について再現してみるということでもしなければ本当のことは判明しない筈だ(歴史というものはほんのささいな出来事が原因で思いもよらない方向に展開していくものだし、そもそも歴史というものはそうしたものの蓄積だと言えるのではないか)。当然のことながら、今後どれほどスーパーコンピューターや人工知能が高性能化したとしても、こんなことは永遠に実現しない。1立方mの内部に存在するすべての分子の位置と運動量を特定してその後の変化を予測することすら不可能だろう。
 こうした考えに基づけば、過去の人間に対して批判している人たちの無知性ぶりが分かろうというものだ。こんなことはまさに神のみぞ知るというものだ。 

 再生可能エネルギーの疾風勁草性

 北海道の停電について、太陽光や風力でこの停電を解決しようという意見が出てこない。

 子育て論の欺瞞について

 子育てがたいへんなのかどうかは、どういう子どもをどういう親が育てるのかによって雲泥の差があるし、子育ての相談やその解答というのもおかしなもので、個人差というものがあるのだから、一律な子育て論など無意味な筈だ。オリンピックでメダルを取った選手や何とか賞を受賞した親たちが子育て論を刊行すると売れるらしいが、そんなものが役に立つなどと考えてしまう自分の頭をまず教育すべきだろう。当然のことながら、教育次第で誰でもオリンピックに出場できるようになるわけではないし、誰でもノーベル賞が受賞できるわけでもない。

 AI脅威論の欺瞞

 AIの知能が人間を超えるとどうなってしまうのか? といった議論があるが、それ自体はたいした脅威ではないと感ずる。不謹慎なたとえ話になってしまうが、知能は高いが運動能力を失ったホーキング博士みたいな存在だからなのだ。もし本当に脅威になるとしたら、自律型のロボットの性能が飛躍的に向上してこれにAIを搭載した場合だろう。

 男脳と女脳の欺瞞

 男は脳梁が小さく女は大きい。そのため左右の情報交換が活発なため、言語能力も高いし表現も豊かで、同時にふたつのことができるのだ。というようないかにももっともらしそうな説が流れているが、実際にその因果関係を実証した実験というものを知らない。これはかつて流行した右脳左脳論の欺瞞を彷彿させる。かりにある程度の裏付けが見つかったとしても、せいぜい仄めかすという程度のものにすぎないと考えておいたほうがいいだろう。このほか、個人差というものがあるのだから、こうした決まりきった男脳女脳教を信じるというのは、若い女性に人気という広告用語に洗脳されるようなものだろう。

 なるほど・・

 「海外で人気のあるサブウエイが国内ではいまいち人気がない」という記事を読んだが、私もしばしばスーパーで売れ残りのパンを物色するが、なかなか決まらずに何度もぐるぐると周回してしまうことがよくある。たしかに考えるという行為は重労働であるし、選択肢は少なくしておいた方が負担も軽くなるし無難なのだろう。

 タトゥーについて

 刺青とタトゥーがどう違うのかも知らないし興味もないが、とりあえず感想を書いておくことにした。
 刺青があると威圧感があるので嫌われるらしいが、私は実際に見たのは手首か足首かどちらか忘れてしまったが、蝶のようなマークのようなものだったような記憶がある。たぶんシール式ではなかったかと思われる。タトゥーをして後悔しているひとも多いらしいが、後悔する可能性があるから入れる前によく考えてからやるべきだというようなアドバイスも見かけるが、後悔する可能性があるからというよりも不可逆性が強いから慎重になるべきだというべきだろう。不可逆的だからこそ後悔するとも言えるが。これ以外では包茎手術や美容整形などが挙げられそうだ。皮膚に傷をつけてインクを浸み込ませるというものらしいが、小心者の私などとてもできそうにない。想像しただけで痛々しい。
 シール式のがあるのだからそれを使用すればよさそうなものだが、やはり本物でないと満足しない人もいるらしい。公共での是非の問題については、実感がないので何とも言えないが、暴言を吐いたりからかったり暴力をふるうような問題行動に比べればたいした問題ではなさそうだ。
 ついでに参考にしてもらいたい。仮性包茎は正常である。というか、仮性包茎こそが正常であるというのが正しい認識になりつつあるのだ。当然ながら、病的なものを除いて仮性包茎の手術は不要だ。というよりもむしろ有害だと言えるだろう。

 台風の今後について

 猛暑の影響で海水温が高めなので、台風も強力なものになりがちでなかなか弱くならないとしても、北半球側に太陽から供給されているエネルギーは日々減少しているし、今後も減少し続けるのだ。これは確実なことだ。天体の運行の予測は過去に外れたことはないし今後も外れることはない。正確には夏至を過ぎてからはすでに太陽エネルギーは減少し続けているが、地表と海水が温まるまで時間がかかるので秋分までは気温は上昇し続けるのだ。
 というわけで、今後も台風に襲われるかもしれないし、以前の台風よりも被害が大きくなる可能性もなくはないが、確率的には確実に減少していく筈なのだ。

 保守派によるバカ教育改革も、学校教育の価値の下落という点では評価できるかもしれない。

 徴用工判決について

 夫婦別姓の裁判のときも感じたが、原告が訴えたかったのは別のところにあったのではないかという気がする。

 時既に遅しか?

 日産が経営危機に陥っていた時、三菱などの他社との合併をすべきだったのではないかと感ずる。トヨタ・ホンダ・マツダ・スズキ・ダイハツ・スバル・イスズ・・多過ぎるわ。供給過多に陥らないほうが不思議だ。今後は少子化や車離れやカーシェアリングや地方の過疎化などによってさらにじり貧になっていくのではないか。
 絶好の機会を逃してしまったと言っては言い過ぎだろうか。業界では百も承知だが、諸事情によって実現しなかったというところだろうか。
 自動車に限らず供給過多になりやすい産業構造があり、ゴーンのようなカリスマに依存するか、もしくは精神論を強制する体育会系の経営者に牛耳られてノルマの強制やパワハラや残業や不毛な精神主義で半ば強制的に、というか、むしろ押し売りみたいなことになってしまうわけだ。

 パイロットの飲酒について

 これが氷山の一角に過ぎないことは確実だろう。車の飲酒だって見つかっていないものは膨大な数に上る筈だ。
 このほか、昔は過積載は常態化していて、たいていは最大積載量の3倍近く載せて運搬していたわけだ(設計上は3倍くらい積めるように造ってあるらしい)。戦後から高度経済成長期を経てなんと最近までだ。今でも途上国や新興国では過積載はありふれているだろう。過積載による事故も起きたことはあったが、それでも大部分は無事だったのだ。飲酒についても同様だろう。これは飲酒や過積載を肯定するものではないが、事実だったのも間違いない事実であり、このこともきちんと頭に焼き付けておくべきだろう。
 国交省の指導に基づいて社内教育を徹底させるとかいうことらしいが、あほらしい。俗に言う馴れ合いの悪しき例だ。利害関係のない第三者機関による抜き打ち検査を実施すればよいのだ。結果についてはインターネットで公表するということでよかろう。

 自己肯定論について

 諸外国と比較して日本人の自己肯定感は優位に低いという統計を見たが、その原因の最大のひとつは、精神主義に依存する体育会系男が社会的権力を牛耳ってきたということにあると考えている。これは日本社会にとっての最大の不幸のひとつであり、こうした人種を今後どうやって駆除していくかということについて、国家的戦略も含めて検討していくべきであるし、しなければならないだろう。
 やはり体力の価値を下落させていくことが効果的であり、産業構造や社会のしくみを徹底的に検討していかなければならないだろう。
 
 フランスの暴動について

 日本人はあまりデモやストライキをせず、こういうところは見習うべきというような感想が散見されますが、もともとは全共闘運動の連合赤軍事件に対する世論の批判がきっかけだったのではないかと感じます。良し悪しはともかくとして、日本人もそれなりに抵抗はしています。これは、「お金が好き」の項目にも書いたことですが、防衛と攻撃は表裏一体であり、節約という自己防衛によってデフレという攻撃(あるいはデモかストライキ)をしているわけです。自動車にかかる税金が諸外国と比較して高いという批判がありますが、どこまで当たっているのかはともかくとして、若者の車離れという「反撃」に遭っています。車の税制改革にしても、燃費の良い車種を優先的に減税して買い替えを促すとかいった、業者側にとって都合の良い政策のように感じます。ポイントにしても、期限内に使用しなければ無効になるという「人質」を取られているわけで、やはり業者寄りと感じます。消費者にとっての利益を後回しにするからデフレもなかなか改善しませんし、車離れも止まらないでしょう。このほか、政界が道路議員に牛耳られてきたことのつけが回ってきたという面もあるかもしれません。
 節約という自己防衛による攻撃はデモやストライキや暴動よりも効果は大きくて深刻な影響を及ぼしているでしょう。デモや暴動などせいぜい数日か数週間程度で収まるでしょうが、節約によるデフレの影響は数年間か十年以上もの長期にかけてじわりじわりと効いてきます。
 上記の自己肯定感の欠如も関係しているでしょうが、やはり個人や消費者や国民を大切にしていくような社会や政策にしないと、何をどうしようとも大した成果は出ないでしょうし国力の強化にもつながらないというわけです。

 NHKが写らないテレビについて

 そんなものを買うくらいなら、テレビを撤去すればいいではないか。たいして困らないだろう。受信料というのは上納金かみかじめ料みたいな存在なので、経費削減のために組員に委託すべきだろう。

 消費者は最強の権力者らしい

 指定暴力団の日本放送協会や、税務署の職員とか財務省の役人やら、国会議員や総理大臣でも消費者には逆らえないだろう。消費税増税をすれば節約という対抗手段があるし、じっさい買わなければ消費税などという上納金は支払わなくて済むし、デフレや景気後退や、なによりも消費の低下による税収減という皮肉な結果にもなりかねない。
 ついでに、最高裁が受信料の義務を認めた判決を出したらしいが、これについては反感を抱く人が多い。テレビ離れが進むだろう。さすがにテレビを撤去したひとにまで支払わせるわけにはいくまい。最高裁判所の裁判官ですら消費者には勝てないということだ。

 現実的な依存症対策を考えるべし

 恐らく何も依存せずに生きていける人など存在しない筈だ。依存にも良い面と悪い面とがあり、良い面を増やして悪いところを減らしていくというような現実的な対応を考えていくべきだろう。

 知事の自家撞着性

 辺野古に賛成する人は沖縄県民ではないのか? 自分の考えに賛同しない人間を非県民扱いするという排他的な考え方を、いやしくも知事という立場の人間が採ってはいけませんぞ。
 琉球新報とかいうサイトをたまたま読んだとき、ナイチャーとかウチナンチューとかいったわけのわからない単語が出てきたので、「なんじゃ?」となったものだ。言葉というものは生き物だから、意味や概念上の定義だけではなく、実感が沸かないと意味がないのだ。自分らだけの会話で使うのなら問題ないが、全国民が読む文章であり、まして「沖縄を差別するな!」ということを訴えるのなら、なおさらこんな意味不明な言葉を使うことは避けるべきだ。それとも自分たちの存在を特権化したいのか?
 この問題については、基本的には防衛というのは国の任務であり、自治体が決める問題ではないと思うが、全面的にそうとは言い切れない面もなくはないという感じだ。これ以上のことは自分の無知をさらすだけなので口出ししない。
 なお、こんな書き方をするとネトウヨみたいな印象を抱かれるかもしれないが、沖縄のメディアのことを反日左翼などと罵倒したり、ことあるごとに罵詈雑言を浴びせる体育会系のスポーツオヤジみたいな言動には賛同できないし、私も批判ばかりする人間なのであまり偉そうなことも言えないが、そんなところには本意はないのだ。
 部外者の無責任な発言になってしまうが、どちらもそれなりに根拠があって正当性があるのだろうが、両者を止揚していくような動きがあれば良いのにという、なんか惜しい感じもする。
  
 ゴーン氏が名誉博士を授与されていたらしい。医科大学や医学部の女子や浪人生の減点問題もそうだが、こんな人に名誉博士を与えるような間抜けな大学というものを、良い意味で軽蔑か見下すようになればいいのだ。かなり前のことだが、ある大学で名誉教授と数日ほど同じ部屋で話をしたことがあるが、知性というものがさっぱり感じられなかった。こんな人でも名誉教授になれるのかとあきれたものだ。追加するが、受験生の点数操作は他の大学や学部でも行われていたことは確実だろう。
 西川社長の責任を問う声もあるらしいが、そのことはともかくとして、向こうの人であれば理不尽な指示でも唯々諾々と受け入れるという奴隷精神もあったのではないかという気もする。
 
 嘘をついたら負けだ。

 話題のゴーン容疑者も韓国のレーダーもそうだが、いったん嘘を言うと、どこかで辻褄が合わなくなってくる。このことを正当化するため、いわゆる「嘘の上塗り」が始まるのだ。その後は泥沼化していき、いよいよ筋が通らなくなってくる。韓国の照射に対して、「遺憾の意」などという毎度おなじみの思考停止用語を連呼するのではなく、事実関係について問いただしていけば良いのだ。
 なお、「嘘つきは泥棒の始まり」という諺があるらしいが、むしろ、「嘘つきは敗北への第一歩」というべきだろう。
 
 タレントの政治的発言について

 ウーマン村本とかローラとかいったタレントが政治的発言をすることの是非についてだが、「どうぞご自由に」という感じだ。ただし、どんな反応が返ってきたとしても、それは自業自得であり、自己責任で処理していただきたい。余計な口出しをすると、へたに発言すると自分の知識不足を露呈して恥をかくだけなのでおすすめはしない。
 
 野球離れについて

 補欠の選手は、過酷な練習とベンチでの応援と後片付けと球拾いといった使用人みたいなことばかり強制させられるわけだ。自分が歌って演奏した曲を動画サイトに投稿したりブログその他で自説を発表することもできる。だれもが主人公になれる時代に、こんな滅私奉公みたいな役を進んで選ぶ人などいるのか? 事実(私がかつて所属していた)卓球とかバトミントンとかテニスとかいった個人競技に人気があるらしい。

 捕鯨について

 動物教の偽善を突くだけではいまひとつ説得力がない。捕鯨自体が虐殺なのかどうかということと、すべての生物の人道的な扱い方、というか安楽死に近い状態が実現できるのかどうかということと、どのような殺し方をしているのかということだ。これらは無関係ではないが、論点を整理しておくべきだろう。
 たとえば、中華民国で今も行われているらしい犬食だが、食用にすること自体よりも、生きたまま熱湯に浸したりバーナーで焼いたりしているらしい。ヤギも生きたまま焼いているそうだが、こんなことを続けていくわけにはいかないだろう。

 大型ドライバーの綾人氏について

 この人に限らず、違反者やDQNを全面的な悪として非難する論調が多いが、それ自体を批判はしないが、彼らにも人生があり、それなりの理由があって行動しているのだ。その事情を考慮してからいろいろと批評したほうが説得力も増すし現実を見る目も鍛えられるのだ。
 余計な口出しをさせてもらうと、プロという言葉にこだわり過ぎという印象がある。 

 意味の乏しい視聴率

 テレビを見ない人の比率は反映されていないだろうから、視聴率という数値自体に疑念を感じる。

 竹田会長について

 オリンピックの開催だけでなく、誘致のための賄賂かコンサルタント料か、いずれにしてもこうした上納金を喜々として支払うという奴隷精神に、誰も疑念を抱かないのだろうか。たかが数週間の間に行われる運動会のために・・
 やはりオリンピック自体を無くしてしまうのがよかろう。そうすれば誘致も開催もしようがなくなる。世界ランキングはワールドカップへ一元化すればよかろう。

 高須クリニックの高須克弥院長について

 ウーマン村本とかいう知性や教養などと縁のない人を相手に、よくこれだけ長々と言い合いを続けるものだとあきれる。

 バカ保守が政治の中枢からいなくならない限り、改憲にはいまひとつ賛同する気にはならないだろう。

 いくらか気は楽になるだろう。

 統計上は立春が底だそうで、すくなくともこれ以上は寒くはならないだろうし、太陽の高度も日々確実に上昇していくのだ。

 女児の虐待死事件ついて

 不謹慎な書き方をしてしまうが、被害者が死亡したという証拠があるから逮捕されたわけで、証拠の残りにくさや見つけにくさという問題をどのように解消していくのかという意見があまり出てこない。かといってすべての家庭のあらゆる場所に監視カメラを設置して四六時中監視するというわけにもいかない。これが氷山の一角に過ぎないことは間違いないし、言うことを聞かずに問題行動ばかりする子供をどう対処するのかということも不明だ。ある程度のことはやむを得ないなどと考えがちな体育会系の教員や部活主義教員が担任になった場合はどうなるのかという不安もあるだろう。
 いずれにしても、一朝一夕には解消しない難問だろう。親の態度が改善すれば虐待も再発せず、子どもを返しても良いなどと考える役人は、講習を受けさせれば教師の質が改善されるなどと考えるバカ保守みたいなものだ。
 すくなくことも、「関係機関の緊密な連携」などという、いつもながらの思考停止用語(むしろ思考の放棄というべきか)を連呼してお茶を濁すという毎度おなじみのパフォーマンスだけで終わらせるということは避けてほしいものだ。

 これが現実的だろう。

 今後沖縄の独立運動が盛んになっていくのではないかという指摘があるが、防衛という点からして困難だろう。中華民国の自治県になるか米国の自治領くらいしか選択肢はないのではないか。 
 妥協案として、沖縄が自治県になるというのが考えられる。防衛という問題があるので困難かもしれないし、おすすめしているわけでもないが。

 僕ならこう考える。

 沖縄には米軍基地が集中しているということに対する反発があるらしい。そのような考え方を批判も否定もしないが、僕ならむしろ、沖縄に何%集中しているということには関係なく、実現可能な範囲で最大限の軽減が実現できるという可能性を探ろうとするだろう。
 このほか、戦時中に沖縄が捨て石にされたことの恨みを訴える論説も散見するが、戦争とは無縁な世代にそのような話をされても実感が沸かないので説得性が乏しいのだ。

 県民投票について

 茶番だというのは言い過ぎだし失礼なのでそこまでは言わないが、内閣府やNHKなどがしばしば行う、反日暴動が起きた直後に、「中国と韓国に対して親しみを感じるか?」といったたぐいの誘導尋問的な世論調査を連想する。最初から答えが半ば決まっているわけだ。

 「敵は本能寺にあり」か?

 投票結果を受けて工事を中断することはないというのは分かっていた筈だから、これは琉球王国ならぬ琉球自治県への口実にするかその礎にするなどの深謀遠慮みたいなものだろうか。

 部外者からの苦言を書く

 例の辺野古の対立について、どちらに正当性があるのか知らないが、自分の考え方が全部正しくて批判している相手側が全部間違っているということがあるのか? どちらもそれなりの根拠があって主張しているのではないかと、とりあえず考えてみる気はないのか? 相手側の批判にもそれなりに根拠があると認めつつ、このような改善方法があるのではないかというような提案や論議ができないものか。自分絶対主義や自分原理主義的な態度と考え方からとりあえず離れてみたまえ。こんな心理的な内戦状態を誘発するような状態はどちらにも益をもたらさないだろうし、第三国に「漁夫の利」を与えかねない。こんなことでは、ウーマン村本さんのことを批判できませんぞ。推進派も反対派も・・
 ついでに追加するとすれば、県民投票の結果に基づいて、「ほれみー」とばかりに推進派を叩こうとすれば、守りという防衛へと戦略を転換するだろう。そうなるとその後の攻撃がやりにくくなってくるのだ。これは推進派についても当然当てはまるだろう。

 投票結果を受けて‥

 県民投票の結果を重く受け止めろ! ということらしいが・・

1辺野古の移設(増設ではないかという指摘もあるが)に反対の県民が多いという結果が出たらしいが、いかなる理由で反対なのかが不明である。
2したがって、工事を中止するのと継続するのとどちらが正しいのか判断できない。
3中止してからそのあと何がどうなるのか。継続した場合と比較しなければならないが、これについての説明もない。そんなことをいちいち自分で考えたり調査したりする余裕は庶民にはない。
4それだけではなく、そもそもこの問題を判断するには防衛その他の専門知識が必要なのだから、門外漢の人間に比較検討することは不可能だ。
5沖縄だけに基地を押し付けていることについて、本土の人たちも真剣に考えなければならないといったような指摘が散見できるが、今回は辺野古の是非についてであり、無関係ではないものの論点が異なる。
6押し付けているのではなく、地政学的に沖縄は重要なので集中してしまうのだというような指摘もあるが、これについても判断できない。
7「対案(代案)を出せ」という品のない言い方は好ましくないし、たしかに自治体には代案を提出しなければならない義務も責任もないが、同時にそのことは説得力の弱さでもある。
8かりにある程度の時間と労力とお金を使って勉強したとしても、防衛や海洋土木その他の専門知識など、一朝一夕に身につくものではなかろう。一朝一夕どころか、数年くらい勉強を続けても困難だろうし、防衛には軍事機密が含まれているので、すべてを公開することはできないのではないか。

 こんなところだ。県民の怒りをぶつけられて真摯に受け止めたとしても、そこから先には進まないし進めようがない。

 NHK番組のネット配信を可能に 放送法改正案を閣議決定

 次の解散総選挙はこれだ!

 かつての郵政民営化の是非を問うた選挙のごとく、NHKの民営化の是非を問うのをマニフェストに明記すべきだろう。いつまでも受信料という上納金を徴収するという暴力団紛いの経営を続けていくわけにはいかないだろう。

 ?

 西日本の降雪 観測史上最小・・という記事が出ていた。かなり前のことだが、NHKのクローズアップ現代という番組で、温暖化が進むと降雪量が増えるという解説をしていたような記憶があるのだが・・



 まるで“キッザニア”!? お金と経済の仕組みが学べる“スチューデント・シティ”について

 これはデモトレードやシミュレーターによる売買体験みたいなもので、失敗した時の責任が問われないから恐怖感も生じないわけだから、しょせんは社会人になったつもりか、もしくは労働体験ごっこのたぐいに過ぎないだろう。こんなことをするくらいなら、条件付きでの未成年者のアルバイトの解禁のほうが効果的だろう。
 ついでに参考までにキッザニア関連のサイトを見てみたが、フライトシミュレーターでの操縦体験もあるそうで、これは「お金が好き」の項目でも触れたので重複してしまうが、事故や墜落の危険がないのでこれも同様にパイロット体験ごっこの範囲を超えられるものではないのだ。

 生理痛について

 私は男なので生理痛のつらさは分からない。そのことに怒りをぶつけられても困りますわ。分からないものをさも分かったの如く同情するというのも白々しいし、せいぜいできることといえば、しっかり働くなり資産運用をするなりして収入をがっちりと固めていくということくらいだ。すくなくとも私にできることは。妻に対してできることの・・

 パレスチナ問題について

 この問題には詳しくないし、実態は想像外に複雑なので解消には程遠いのかもしれないが、脱宗教が進めばいくらかはましになってくれるかもしれないのではないか。

 自己肯定感について

 自己肯定感を高める方法についての解説を聞いたが、ご都合主義的でいまひとつ釈然としなかった。この考えは、ある人たちにとっては納得しがたいかもしれないが、人間の諸能力の限界は決まっていて超えることはできない。という現実と現実感に立脚した納得をしていけばいい。しょっちゅう失敗ばかりして落ち込むにしても、それがあなたの能力の限度なのだから、そのような人間に生まれついたことを良い意味で嘆く。あるいは諦念を抱く。など・・現実を認めてもをあなたは何も失わないし、じっさい能力が低下することもないのだ。

 「学校では教えてくれないこと」の意味 

 「学校では教えてくれない~」というタイトルの番組や本がいろいろと出ているようだが、学校ですべてのあらゆることを教わらないからこそ良いのだ。そんなことを実現しようとすれば、それこそ学校を収容所と化させるか刑務所化させることになってしまうだろう。ついでに追加しておくが、宅間守その他による事件以降、学校に頑丈な扉を設置したりして外部からの侵入を阻止するような構造にしようとしているが、これも完全に実現させるためには、学校を刑務所のような構造にして外部から隔離させるしかないだろう。

 生活習慣病対策のひとつとして・・

 つい食べ過ぎる。甘いもの依存症などに悩んでいる人たちは、食う量を減らすことによって、その分だけ労働という苦痛を減らすこともできるのだと考えればいいだろう。つまりは、食費を稼ぐための労働量が減らせるというわけだ。生活習慣病対策にもなるのだから、一挙両得なのだ。

 
  

 



 


ドラえもん

2008-09-21 | Weblog
 ドラえもんにはいろんな道具が出てくるが、これらについて科学的社会学的にどういうことなのかについて考えてみる。発想は空想科学の柳田理科雄のようであるが、違った観点から批評していく予定だ。
 
 どこでもドア

 どこでもドアという便利な道具があり、どこか遠くに行きたいとき、このドアを開けるといきなり目的地に出られるという、シュールですごい道具だ。発想はすばらしいが、さて、じっさいに利用するとなると思いもよらないことになってきそうだ。
 どうすればこんな道具が作れるのか見当もつかない。空間を歪めて離れた2箇所をつなぐというワープというやつだろうか? これは便利な道具であり、その利用法は見当もつかないほどいろんな分野に及ぶだろう。
 ちょっと考えただけでも、これがあれば交通機関は不要ではないか? どれだけ量産できるのかわからないが、個人がひとつずつ所有できるのなら、その影響は途方もないものになるだろう。地球上どころか、他の天体にも行けるらしい。車・電車・新幹線・航空機・船舶どころかロケットも不要だ。これにより、温室効果ガスは大幅に減るだろう。需要が大幅に少なくなるので、原油、石炭、天然ガスなどの価格は暴落するだろう。地方と都市の格差も少なくなるだろう。どんな過疎地、僻地、離島でも、どこでもドアがあれば目の前に都心部があることになる。それどころか、距離や空間の概念自体が変わってしまうかもしれない。
 ドアを開けると目の前に遠く離れた場所が広がっている。どこでもドアを通るだけで遥か彼方まですぐに到着する。これは、移動するのに要する時間がゼロになるということであり、分母が0になるのだから、これはなんと速度が無限大になっていることになる!
 こんな利用も可能ではないか。巨大な水車か羽根車を設置し、この上下に巨大などこでもドアを設置するのだ。水車の下側にあるどこでもドアに落下した水は、そのまま上部にあるどこでもドアから落下する。これは永久機関を巨大化したものであり、このような装置を多数設置していけば発電所は不要になるだろう。これはエネルギー保存則に反しており、タダでエネルギーが入手できるのだ。環境問題はほぼ解消するだろう。
 これほどすごい、というか超革命的な道具であるのに、ドラえもんでは地味な扱われ方だ。多用すると便利過ぎて物語が成り立たなくなってしまうからだろう。これを使えば、のび太の遅刻も減るだろう。

 評価・ 発想がシュールで面白い。ダリが知ったら喜ぶだろう。作品に使用していたかもしれない。
 欠点・ 物理の法則にことごとく違反しているので、実現する可能性は0%だ。

 タイムマシン

 ドラえもんだけでなく、SFで多用されているようで、これもどこでもドアのように物理法則に反しており、実現する可能性はない。が、物語として描くだけでも問題が出てくるのだ。有名なのは、タイムマシンに乗って過去に行き、かつての自分を殺害したらどうなるのか? というものである。現在二十歳の自分が十歳の自分を殺したら、自分という存在は十歳で消えてしまう。それなら、誰が十歳の自分を殺したのか? 自分は十歳で死んでしまったのだから、二十歳の自分は存在しない。ということは、十歳の自分を殺した自分が存在しない。完全に矛盾である。
 「だからタイムマシンなどインチキなのだ!」と話を終わらせてしまってはつまらない。このパラドックスは難解で、哲学的である。とりあえず整理するとすれば・・未来に行くタイムマシンではとりあえず矛盾は生じない。生じないどころか、一般相対性理論を利用すれば、未来に行くことは実現可能であるらしい。ただし、未来に行ったきり帰れないのだ。
 パラドックスが生じるのは過去に行く場合で、すでに過去のものである過去を、未来の訪問者が参加することで過去を変えてしまうからだ。その時点で、それから後の世界は、過去に訪問する以前の世界とは別のものになってしまうのだ。
 このことについて私はこう指摘する。

1タイムマシンに乗って過去に行く。
      ↓
2過去の自分(十歳)を殺す。
      ↓
3二十歳の自分が消滅する。

 1→2→3という順序で、過去から未来へと時間が経過しているのではないか? ということは、タイムマシンに乗って過去に行ったつもりが、じつは過去から未来へという、われわれの日常時間の経過に沿って物事が動いているのだ。未来から過去に行ったのではなく、過去から未来へと時間が経過しているのではないのか?
 すくなくともこの場合、1が2よりも時間的に過去であることは明らかだ。
 ドラえもんのタイムマシンだとこういうことだ。

1のび太の机の引き出しからタイムマシンに乗り。
         ↓
2絨毯のようなタイムマシンに乗って、ダリの記憶の固執に出てくるような歪んだ時計のような時計がたくさん出てくるタイムトンネルを飛行し、
       ↓
3過去の世界に到着する。

 タイムマシンに乗って過去の世界に行った。時間の流れに逆行したつもりが、じつは、1(過去)→2(未来)。2(過去)→3(未来)というように、通常の時間の流れ通りに行動していたのだ。ということは、現在が過去であり、過去の世界が未来になってしまっているのだ。

 タケコプター

 これもよくドラえもんに出てくる道具で、空想科学読本で取り上げられていた。こんなに小さな羽根では頭部に風が直撃してしまい、骨格は破壊されて肺は破裂し、最後に頭皮が剥がれてタケコプターだけが飛んでいくというような解説がされていたが、そんなことになる前に回転を止めるだろう。それに、骨格が破壊されたり肺が破裂する前に頭皮が剥がれるのではないか? 頭部にジェットエンジンを取り付けたようなものだろう。それどころか、そんな強い風が下向きに吹きつけば、埃やゴミや紙切れが舞い上がってたいへんだろう。
 それよりも、羽根の幅を広くして身体に当たらないように改良すればいいだろう。あるいは、空気を噴射する装置を取り付けてもいい。じっさいそのような装置を見たことがある。ただ、どちらも安定が良くないので普及しないだろう。原理的には可能な筈だ。
 ドラえもんにけちをつけるとすれば、せっかくどこでもドアという便利な道具があるのだから、タケコプターなど使わなくてもどこでもドアでいきなり行けばいいだろう。鳥瞰するのが目的なら、小型のラジコンのヘリコプターにカメラを搭載して使用すればいいだろう。落下の危険もない。(これはドローンという装置で実現している。ドローンというと、パッシブラジエーターの別名を連想してしまいます)

 もしもボックス

 人気のある道具みたいで、これはアインシュタインも好んでいたらしい思考実験を実現させる道具みたいである。難点はやはり実現の可能性がほとんどないことだ。ただ、スーパーコンピューターによるシミュレーションなどはそうとう進んでいるみたいで、実現できなくてもかなり満足できそうだ。
 ドラえもんでは、やはり漫画という特性上、あまり科学的な厳密性を要求した内容にはしていないようだ。読者に嫌われてしまうだろう。
 たとえば、「お金のいらない世界」というのを実現してみたところ、所持しているお金の額が少ないほど良いという、「お金が不要」という本来の意図からずれたような印象の内容だったような記憶がある。お金を沢山持っているひとが貧乏人になっているわけで、なんのことはない、たんに所持する金額の評価を逆にしただけではないか!
 これは難しい。お金の不要な世界。とはどんなものか? そもそもお金とは何ぞや? ということになる。簡単に言えば、他人や社会に請求できる交換可能な権力ということになるだろうか? かなり幻想的な、たとえば、資源や作物やらが無尽蔵に収穫でき、年間を通して適度な降水もあり、自然災害もなければ、まず税金を支払わなくても良いだろうし、生活に必要な収入も少なくて済むので、この状態に近いだろう。

 金が無尽蔵に産出する世界

 もしもボックスで、金がいくらでも取れる、というよりも、石ころのようにそこらじゅうに金の塊が転がっている世界を実現するとどうなるか。これはわかりやすい。金の価格が暴落するだろう。それだけではなく、金のような色と輝くものを、むしろ嫌うようになるのではないか。工業上の利用価値はともかく、装飾上の価値はかなり減殺されてしまうだろう。だれも欲しがらなくなるかもしれない。
 比重が重いので、このことが予想外の影響を及ぼしているかもしれない。

 地球をもっと住み心地の良い環境にするには、

1陸地と海岸線の形体を変更する。
 日本列島は大陸の東岸に位置するため、低緯度のわりには冬は寒く、夏は熱帯よりも暑くなる。年較差が大きくあまり住み心地の良い場所ではない。大陸の東岸に位置するためだ。
 まず、南極大陸を削除してここを南極海にする。ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸をいくつかに分割し、その間の距離をだいたい等間隔にし、それぞれの小大陸の大きさをグリーンランド程度にする。すなわち、地球上から大陸を消してしまうのだ。こうすることにより、冬はいまよりも温暖になり、夏も今ほど暑くならない。住み心地の良い地球になる。
 こうすることにより、たんに気候が温和になるだけでなく、大陸が各島々に分割されるので、動植物が独自の進化を遂げ、特異な形体の品種が多数出現するだろう。

2地軸の傾きが常時変化し、1ヶ月間くらいで地軸の傾きが1回転する。

 こんなことは惑星の生成過程からしてありえないことだが、どうせなんでもありのもしもボックスだ。地球を住み心地の良い惑星にする大胆な方法である。
 すべての惑星は自転しており、その傾きは一定して変化しないが、地球が一日に1回転するように、地軸も宇宙空間に対して、1ヵ月間くらいで1回転すれば、地球上のあらゆる地帯にほぼ平等に日光が当たることになる。年中暑過ぎず寒過ぎず、ちょうど心地よい日照と気温が得られるだろう。冷暖房費の節約にもなる。植物にとっても理想的な環境になり、地球上のあらゆる場所での収穫量が増加するだろう。大気の流れも温和なものになり、災害も少なくなるだろう。 
 では、季節がなくなってしまうのかというと、そうでもない。実際にどうなるのかについて考えてみると、予想外に複雑であることが見えてきた。結論を言うと、1ヶ月を周期とする短い周期の季節に加えて、半年間を周期とする長い季節という、2種類の季節が生じるのである。
 
 地球が逆向きに自転していたら?

 ついでに、自転の向き以外は現在の条件とすべて同じとして、自転だけが逆向きに回転していたらどうなっているか? ということについて考えてみた。ただ、自転の向きと公転の向きには相関があるらしく、もし自転を逆にするなら、公転の向きも逆にしなければならないだろう。この程度の科学的厳密性を無視する気にはならないので、すべての惑星の公転の向きも逆とする。これ以外は現在の地球及び太陽系と同じである。
 確実なのは、日本列島の冬の気温が、すくなくとも10℃は上昇するだろう。冬の降雪量は激減し、北海道でさえ、高山地帯を除いてほとんど雪が降らなくなるかもしれない。これは、自転が逆になると、偏西風の向きが逆になり、「偏東風」になると考えられるからだ。日本が低緯度のわりに冬が寒いのは、大陸の東岸に位置しているため、大陸から冷えた大気が吹き込むからだ。自転が逆になれば、東から風が吹くため、太平洋北部の海洋の暖かい空気が吹き込み、冬が相当に温暖になるだろう。これ以上の詳しいことは、スーパーコンピューターにデータを入力してシミュレートしてみないと分からないが、太平洋側から偏東風が吹くため、極端な乾燥に襲われることもなさそうである。冬が温暖になるため、栽培可能な時期が増え、暖房なしで越冬する品種が相当増えるため、農産物の生産性が向上し、自給率が向上するだろう。東北以北でさえ、暖房は不要になるかもしれない。亜熱帯気候になるため、害虫が増え、不快だろう。東側から風が吹くため、黄砂も来なくなる。中国の大気汚染物質や、放射性物質が飛来する心配もなくなる。逆に、国内の原発が事故を起こして放射能が漏れた場合は、中国や韓国に飛来する危険があるため、原発の増設や運転に反対されるようになるかもしれない。そしてなによりも、西側から太陽が昇って東に沈むのだ(天才バカボンの世界だ)。
 不都合なことも起こるだろうが、全体としては自転が逆向きになることによってもたらさせる恩恵のほうが多そうだ。

 ソノウソホント

 もしもボックスとほぼ同じ機能で、ドラえもんの道具としては最強かつ万能だろう。科学的な整合性があまりに乏しくて、話としても辻褄が合わなくなってしまうが、しょせん漫画なのだからあまり詮索してもつまらないだろう。私なら、というかたいていの人であれば、これを使って自分が大富豪になり、長身で美男美女で才能が有って知能も高い人間になろうとするだろう。科学的な好奇心の旺盛な人であれば、もしもボックスと同じく思考実験用として利用するのではないか。
 蟻などの昆虫の怪力ぶりを分かりやすく説明する例えとして、これらの昆虫が人間くらいの大きさだとしたらどんなパワーが出るのかといったような解説があるが、知っている人は知っているように、体重は径の3乗に比例するのに対し、筋力は径の2乗くらいにしか比例しないので、そもそもそのような説明自体が疑わしい。恐竜があの巨体で動けたのは、鳥類の仲間で骨の中が空洞になっていたからで、人間があの大きさにまで巨大化すれば、立つどころか這うことすらおぼつかないらしい。
 このほかにもいろんな評論ができそうだが、森羅万象ありとあらゆることに適合できるというのはあまりにもご都合主義であり、物語が矛盾だらけになって収拾がつかなくなってしまうだろう。事実、マンガでも一度取り上げられただけだ。どこでもドア以上の万能性のある道具だが、威力があり過ぎて取り上げられないというわけだ。作者ですら扱えない道具だということなのだ。

 では、そのソノウソホントかもしもボックスでもかまわないが、仮想を現実化できるとすれば、私ならこんなことをやってみる。という案を書いてみる。

 地軸の傾きを12度ぐらいに設定する

 地軸の傾きを0にしてしまえば、季節はほぼなくなってしまい、一年中春分と秋分になる。つまり、地球上のすべての場所で一年中太陽は真東から昇って真西に沈む。と同時に、すべの場所で一年中昼夜の時間がほぼ同じになる。熱帯はいまとあまり変わらないが、温帯域は年中暑くも寒くもなく快適になる。寒冷地は年中寒いままだが、真冬ほどには冷え込まない。これがいちばん心地よさそうだが、一年間と季節という概念と現象が無くなってしまうわけで、それはつまらない。そこで妥協して、四季はあるが真夏の酷暑と真冬の厳寒をなくしてしまって今よりも温和な四季と気候にしてしまおうというわけだ。このことによって、上述のような、自転の向きを逆にしたのと似たような気候になるだろう。しかも、地球上のすべての場所がそうなるのだ。冷暖房費の節約になるし、冬の寒さが弱くなるので耕作や栽培の可能な品種が増えるだろう。降雪地帯と降雪量も減るので、除雪の負担が減り、工場も誘致しやすくなるだろう。このことによる恩恵は、緯度的には亜熱帯域に位置する日本列島よりも欧州のような高緯度地帯にもたらされるはずだ。欧州の冬は暖流の影響で高緯度のわりに暖かいが、冬は9時頃になってようやく明るくなり、午後3時くらいには暗くなってしまうらしい。このせいで冬に鬱になる人も多いらしいが、地軸の傾きが少なくなれば、冬でも国内の太平洋側のように早朝から日が昇って日没も遅くなるのだ。その代償として、白夜に近い夏の昼の長さは短くなってしまうが、冬が温暖になって日照時間が長くなることに比べればたいした問題ではないだろう。
 地球の軌道が楕円であることによる四季への影響は今はほとんどないが、ソノウソホントを使って、地軸の傾きを0にして楕円の離心率を大きくして、太陽までの距離の変化による四季というものを創出してみるとどうなるか? 太陽に近いほど公転速度は早くなり、遠いほど遅くなる。ということは、夏は短く冬は長くなることになる。このほか、北半球と南半球の四季が同じものになり、夏には地球全体が温まるために、台風による被害が大きくなるかもしれない。このことからすると、やはり上記のような地軸が12度くらいが無難だということになりそうだ。

 宇宙旅行シミュレーション

 のび太がドラえもんに宇宙旅行に行きたいといったら、「未来の世界でも宇宙旅行は危険であり、のび太くんのようなおっちょこちょいの人間には危なくて行けないんだよ」とか言って、宇宙旅行が体験できるシミュレーション機器のようなものを出してもらうという話があった。携帯用のUFOを飛ばしてそのそばの光景を宇宙空間の光景に変えてしまうというものらしく、これは、すでに実用化されているCGやテラジェンのようなものではないだろうか。機能的には、運転用や航空機用のシミュレーション機器もすでに実用化されている。この携帯のUFOに写った光景を宇宙空間に変換するというのも、CGで行うレンダリングのようなものだろう。なんと! すでに実用化されていると考えてもいいのではないか。22世紀よりもはるか前の21世紀初頭にて、すでに実現してしまった。
 気になったのは、この携帯型のUFOが衝突事故を起こすと、自宅の操縦装置も大爆発するということだ。それだけ緊張して操縦しなさいということなのかもしれないが、それなら、ぶつかったら電流が流れるというようなものにしておけばいいではないか。飛ばしている機械がぶつかっただけで自宅の機器も大爆発するのなら、自分だけではなく隣近所まで被害が及ぶだろう。こんな危険な製品は当然法に触れるだろうし、危険物として販売と所持が禁止になっているだろう。

 百苦タイマー

 ドラえもんのポケットに入っている多数の道具を定期的に検査しているところへのび太が入って百苦タイマーなる危険な装置を持ち出してしまい、このボタンを押してしまったために、1分ごとに災難に遭うという話である。
 この装置の特徴は、、

1ボタンを押した当人に、百分間に百の災難が降りかかる。
2一度ボタンを押すと、どうやっても止めることはできない。
3この装置は爆弾でも壊せない。
4弱い人は、10回目くらいで死んでしまうこともある。

 マンガでは、
1回目の災難は、ドラえもんとセワシに暴行される。
2回目は、額縁の絵がのび太の頭上に落下する。
3回目は、ジャイアンに暴行される。
4回目は、建設工事現場の上階からエ型鋼が落下してのび太にぶつかる。
5回目は、土管に隠れていたのび太に火の着いた煙草が放り込まれて服に付着してしまう。
6回目は、自動車にはね飛ばされる。

 まず、こんな危険な装置は、22世紀の未来でも、というよりも、未来であればなおさら、製造と販売は禁止になる筈だ。年少者や乳幼児が間違ってボタンを押したらどうなるのか? 本人が納得した上でボタンを押したとしても、弱い人は10回目くらいで死んでしまうような過酷な災難が百回も続くのだから、死亡や怪我をした場合の責任はどうなるのだろう。
 上記の災難ですら、1と3は傷害罪であり、4と6は業務上過失致死に当たり、5は火の着いたタバコを捨てたのだから、火事になる危険があり、やはり法に触れるだろう。こんな危険な装置を販売や所持していれば、社会的にたいへんな非難を浴びるだろう。ボタンをロックしないまま四次元ポケットに入れているドラえもんにも責任があるのではないか。



 最初に挙げた2と3は、ようするにこの装置は途方もなく頑強にできており、どんな方法によっても破壊することは不可能であり、一度始動すると止めることはできないということなのだろう。爆弾でも壊せないということだが、最強の爆弾である水素爆弾は、すでに半世紀以上も前に爆発実験に成功しており、その後も含めて爆発規模は10~50メガトンに達する。原子爆弾の1000倍かそれ以上の爆発規模だ。ギネスブックによると、水爆の中心部は3~4億度に達するということで、これは太陽の中心部よりも数十倍も高い温度である。火球の直径は数kmに達し、ビキニで行われた15メガトン級の水爆実験では、爆心地のそばの珊瑚礁のひとつは半分ほどが蒸発してしまい、もうひとつの珊瑚礁の島も蒸発して消滅してしまったらしい。爆心点から離れていてもこんなことになってしまうのだ。メガトン級の水素爆弾は円筒形の容器にたしか重水素化リチウムが内蔵されていて、そのそばに起爆剤としての原爆が内蔵されているという構造になっている。この爆弾の容器に百苦タイマーをくっつけて水爆を爆発させてもこの装置は無傷なままでタイマーも壊れないらしい。史上最大の水爆実験は50メガトンもあり、この爆発によって発生した衝撃波は地球を3周しても観測されたほど凄まじいものだったらしいが、この爆弾に百苦タイマーを付着させて爆発させても何ともないらしい。
 もちろんこの話は漫画であり、科学的な批判をするのは行き過ぎだが、今から半世紀ほど昔でさえこれほどのとてつもない破壊力を持つ爆弾が存在していたのだ。
 ドラえもんは22世紀からやってきたそうだが、あと百年間のあいだに、これほどの耐性を持つ物質やそれから作られた装置が開発される可能性は0だ。今まで発見された、あるいは開発された最も熱に強い物質でも、せいぜい数千度くらいまでしか耐えられないだろう。数億度どころか、百万度に耐える物質を作れる可能性さえも存在しない。メガトン級の水爆はおろか、1トンの通常火薬のすぐそばに置いて爆発させても装置が故障しない機械さえも実現しないだろう。
 もしも水爆の爆心地に置いても平気なほど頑丈な物質が存在するのなら、これを利用しての核融合発電所が実現する可能性がある。材料の重水素は海水から採れるので枯渇する心配がないし、放射能も出ない。中性子線は出るが、なによりも、発生するエネルギーがとてつもないものになる。

 結論。百苦タイマーの真の利用価値は、核融合発電の材料にこそある!

 ホームメイロ

 ホームメイロという器械で、自宅の間取りを変更して迷路遊びをするという話で、家の構図がエッシャーの不可能図形を連想させておもしろい。1回回すと、二階の勉強部屋から一階へと降りている筈の階段が、上りの階段へと変わっており、階段を上ってみると玄関に出られた。というシュールなものになっている。喜んだのび太は、いつものように調子に乗って器械を急回転させてしまい、家の構図が恐ろしく複雑になってしまい、引き戸を開けてみると、まるで広大なホテルのように、長い廊下にずらりと部屋が並んでいる。あちこち歩いているうちに不安になってきて、次第に疲れてきて歩けなくなり、悲鳴を上げているところへパパが帰ってきて器械を逆回転させて元の家に戻って助かるということだ。
 ドラえもんはのび太の頭の悪さをよく馬鹿にしているが、ドラえもんもあまり利口ではないようだ。こんなときこそ万能の機器であるどこでもドアを使って、勉強部屋に戻るなり屋外に出るなりすればよかったのに。
 家から脱出するつもりで窓から外へ出たのに、窓の外側も室内だったというのもシュールでおもしろい。帰ってきたパパが玄関を開けたら、勉強部屋だったというのも面白い。ということは、のび太らはどんなに歩いても外へは出られなかったということだろうか。
 評価 家の構図と発想がおもしろい。この器械を適当に回して使用すれば、都心部のように地価が高くて小さな家と狭い部屋しか建てられない場所でも、いったん中に入れば屋敷並みの広さというのが実現しそうだ。

 巨人の星について

 ドラえもんから外れてしまうが、これのために別項を設けるのは面倒なのでここに書くことにした。
 巨人の星の代名詞のような存在である大リーグボールシリーズについては、空想科学の柳田氏が分析しているので重複してしまう。大リーグボール1号と3号については取り上げていないようなので、これらを中心に批評してみる。
 まず、大リーグボール1号を考え出すきっかけであったらしい、「星飛雄馬の投げる球は、球質が軽くてかんたんに打たれてしまう。」という場面を見たとき、「おや?」と感じたものだ。そもそも、球質が軽いとは何を意味するのか不明だ。100グラムのボールは誰が投げても100グラムであり、バットで打ったときの衝撃は、速度には関係するが、投げた人の体重や身長や腕力には関係ない筈ではないか? しかも、大リーグボール1号を投げられるほどの完璧なコントロールを持っているのだから、これだけで強過ぎるほど強い投手なのではないか。
 大リーグボール1号を打倒すべく、星一徹コーチは、大リーグボール打倒ギブスをオズマに装着させ、過酷な特訓を重ねてついに大リーグボール1号をホームランにしてしまう。その方法であるが、星飛雄馬がボールを投げてから、オズマのバットはストライクゾーンに移動し、そのことを予測してど真ん中に来たボールを、いったん引っ込めたバットを再度高速で振って打ってしまったというものである。
 この前に、花形は、バットを立てらかした状態のままボールがバットに当たるまでそのままの姿勢で待機しておき、バットにボールが当たってからバットを振ってホームランにしてしまうという方法で大リーグボール1号を打っている。もちろんアニメだから可能なことであり、じっさいにこんなことをするのは不可能だ。人間はおろか、どんな強力な機械を使用しても不可能だろう。
 花形はこの前に、大リーグボール1号のことを知ったとき、ある方法で挑んでいる。星飛雄馬が大リーグボール1号を投げたあとで、バットを自分の身体の後方に隠してしまい、ボールが当たらないようにするというわけだ。ところが、ボールはど真ん中のストライクゾーンに直進してしまい、アウトを取られてしまう。驚くべきことに、星飛雄馬は、投球直前に、花形の手首の筋肉の緩みの兆候を読み取って、とっさにど真ん中の直球に変更して投げたということだ。
 もちちん花形は、ボールが手から離れてからバットを隠した筈だ。それを予知できるのなら、オズマがいったんバットを後方に戻してから再度振り下ろすということは予測できなかったのだろうか? たしかに、花形よりも動作は複雑だが、手からボールが離れた後に行われるという点では同じではないか。
 星飛雄馬は、投球後の打者の行動については、単一の動作までしか予測できない。のなら、それはそれで大リーグボール1号が当たらないようにすることは可能だ。なにも大リーグボール打倒ギブスによる過酷な特訓などしなくても、バットを立てた状態で打者は待機しておき、ボールが放たれたらどちらかの方向にかるくバットを動かし、ボールがバットに当たる直前にバットを横方向に振ればいい。バットに当たらないのでボールである。4回続けばフォアボールで出塁できる。
 逆に、もし星飛雄馬の予測能力がもっと優れているのなら、オズマがいったんバットを引っ込めて再度振り下ろすということも予測できる筈であり、それなら、大リーグボール2号という、打者の手前でボールがいったん沈んで再度浮上するという超変化球が投げられるのだから、オズマがバットをいったん引っ込めて再度振り下ろす直前にボールが急降下するような変化球を投げればいいではないか。オズマは空振りに終わる。





 大リーグボール3号についてのおかしな解説について

 大リーグボール3号の打倒策について、星一徹コーチが伴宙太に解説する場面があったが、いくらアニメとはいえ現実無視も甚だしい。というかあまりに非論理的で視聴者を馬鹿にしている。上図のように、下手投げ投手から放たれたボールは上向きに飛んでいくため、それを打つには同一線上にバットを振り下ろすような大根切り打法で臨めというような解説だったが、打者の手前からボールが上向きに飛んでくることなど起こり得ないのではないか。私は野球には詳しくないが、どんなに頑張ってもせいぜい水平近く位が限度だろう。それでも緩やかな下降曲線になる筈だ。近似的に放物線状に飛んでくるためだ。ましてや蠅が止まりそうなくらいの低速球なのだから、むしろ通常の球筋よりも下降気味になる筈ではないか。
 所詮は架空の話なのだからあまり現実的な批判をするのは良くないかもしれないが、ある程度の整合性がないと現実感が乏しくなって迫力に欠けるだろう。
 大リーグボール3号は、投げられるぎりぎりの低速で放たれたボールが浮いたような状態になり(?)、バットを速く振れば振るほどボールが逃げてしまって打てないというようなことだが、ボールどころか風船やシャボン玉が静止した状態でもこんなことは起こらないし、天井から糸で吊るしたボールを打っても逃げることはない。
 このほか、花形がこの魔球を再現するために作成した機械が、投球時のエネルギー超過に耐えられなくなって壊れて爆発するという場面もあったが、壊れるのならともかく爆発したというのは奇怪なことだ。投げる速度が遅くなればそれだけ消耗するエネルギーも少なくなる筈だ。
 投げるときの無理な力や不自然な投球姿勢から、筋肉が破断寸前になっていることを医師から告げられて警告されているにもかかわらず、父親を乗り越えるために投球を続けていくという話だが、物語なので悲劇性があったほうがおもしろいという演出なのだろうが、父親だけでなく倅にまで日本文化の悪習の象徴である不毛な精神主義に洗脳されてしまったというということだろうか。利き腕が使えなくなってしまっては野球どころか日常生活も困るだろう。愚の骨頂とはまさにこのことではないか。
 あえて大リーグボール3号に科学的な整合性を与えるとすれば、ボールを超低周波音化させているという解釈ができそうだ。音波は現象であってボールなどの実体とは存在そのものが異質であって、ボールを音波化させるというのは無理だが、あえて無視して記述してみる。
 音は周波数が高くなるほど指向性が強くなって特定の方向だけに進むようになり、障害物があると反射されやすくなってくる。逆に音が低くなるほど指向性がなくなっていき、障害物で遮音しようとしても横から回り込んでくるようになってくる。それどころか、障害物そのものを振動させて向こう側へと通り抜けるようにもなってくるのだ。追加するなら、高音になるほど粒子性が強くなり、低音になるほど波動性が強くなってくるともいえる。この性質は電磁波も似ており、可視光線よりも波長の長い赤外線は霧があっても通り越してくるので鮮明に撮影できるし、さらに波長の長い電波だと、カーテンで遮断した室内にも到達する。悪の代名詞になっている紫外線よりも波長の短いX線やガンマ線は大気圏で完全に遮断されてしまって地上にまでは到達しないが、超新星爆発が起きて強烈なX線やガンマ線が放射されると遮断しきれずに到達してしまうため、大変な被害をもたらすと考えられている。
 こうした性質は大リーグボール3号に似ており、音をバットで反射か遮断していると解釈すればいい。音は同じ音量を出すのに必要とする振幅が周波数の2乗に逆比例して増大してくるという事情も、星が大リーグボール3号を投げるときに大きなエネルギーを消耗していたという話と類似する。たとえば、高音用と中音用と低音用の3種類のスピーカーで駆動する3ウエイ型のスピーカーだと、平均して低音用スピーカーは高音用スピーカーの10倍くらいの電力を消費しているらしい。
 ボールを超低周波音化する魔球を大リーグボール4号と定義すれば、これは3号よりも凄い。3号はバットをゆっくり振るかバントのように静止していれば当てることができるが、超低周波音のように振る舞う4号はバットを静止させておいても当たらないのだ。上下の両方から回り込んでストライクゾーンに到達してしまうからだ。それどころか、ストライクゾーンを完全に覆いつくすほどの太いバットを使ってストライクゾーンを遮るようにバントの姿勢で待機していても、たとえば、10Hzの音の波長は34mもあるため、10Hzの音を遮断するには長さと太さがそれぞれ34m以上もあるバットが必要になってくるのだ。それだけではなく、バットの内部が鋼鉄か鉄筋コンクリートのような重くて厚くて頑強なものでないと、バットそのものを振動させて通り抜けてしまうのだ。まるで幽霊か化け物みたいだ。ということは、投手から打者までの距離を半径とするドーム状の半球型の巨大なバット(!?)を使ってボールを遮断しようとしたとしても、どれくらいの厚さで遮断できるのかはわからないが、シェルターくらいの頑強なバット(?)でないと通り抜けてしまうのだ。
 まさに魔球の中の魔球だ。向かうところ敵なしで、これだと勝負にならずに物語としては面白くないので作品としては採用する価値はないだろう。超低周波音は指向性がないので、どんなにコントロールの悪い投手が投げてもストライクゾーンから外れることはない。打者とは正反対の方向に投げてもかまわないのだ。大リーグボール1号が投げられるほどの卓越したコントロールを持っている星飛雄馬にとっては、宝の持ち腐れになってしまうので歯痒いだろう。

 このほかにもおかしなことがいろいろあり、肩を壊した一徹が考案したとされる魔送球もそうだ。打者が一塁に到着するのに間に合わないから、走行中の打者にぶつかるように見せかけてから急カーブして一塁に届くというものだが、打者が一塁に到着する前に打者のすぐそばにまで届くのなら、最初から一塁に向けて直球を投げればアウトにできる筈だ。「三角形の二辺の和は他の一辺よりも長い」という、小学生でも知っている程度の知識だ。魔送球が実際に実現できるかどうかまでは問わないとしても、小学生ですら疑念を感じるような非数学的な魔球というのは、視聴者を馬鹿にしている。打者の近くで急カーブするのなら、かなりの高速で回転しなければならない筈だ。それなら、一塁に直球を投げるよりも大きな力が必要な筈だ。それなら、一塁に直球を投げることは可能な筈だ。
 一徹はよく、「男と男の勝負」というものにこだわる。花形もこのセリフをよく口にするが、別項にも書いたが、皮肉なことに男好きの一徹がやっていたスパルタや過酷な訓練や養成ギブスなどは、むしろ男性ホルモンの濃度を下げてしまい。筋肉の増強効果や闘争性の亢進といった効果を低減させてしまうのだ。一徹は戦前生まれだから、そのような了見に染まっていたのは仕方ないだろうが、部活の顧問やコーチや監督といった体育会系オヤジの中には、いまだにこうした考えから抜け出せないものがおる。これらの、いわゆるスコポンものとか部活漫画や部活アニメといった類の作品は、反面教師として保存しておくべきだろう。

 追加

 機械を使用すれば可能だが、人間が投げるのは至難の業と思われる変化球というものを思いついた。
 進行方向を軸として回転しながら飛んでいくという変化球があり、投げることのできる投手もいることはいるらしいが、少数ではないかと思われる。打ち上げ花火やライフル銃が典型例で、打ち上げ花火が発射されて上昇していくとき、螺旋状に旋回しながら上昇していくのを眺めることができるが、あれほど激しく旋回しながら飛んでいく球を投げるのはやはり困難ではないかと考えられる。
 これを複雑にして、回転軸自体が回転しながら飛んでいく変化球というものを投げることができれば、やたらとややこしい変化球になりそうだ。これを人間が投げることは、文字通り至難の業、というよりもほぼ不可能だろう。機械であれば、かなり複雑な機構になってしまいそうだが、できなくはないだろう。