なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

4 Perfumeから動画と音楽の関係について考えてみました。(3の続き)

2008-05-24 | Weblog
 パフュームのことは最近知ったばかりで、あまり詳しくありませんが、動画を見ていてこの問題を考える上でよい参考になりそうなので、とりあげてみます。
 まずパフュームの魅力ですが、すでに指摘されているとおり、ダンスの質が高い。楽曲の質が高い等がありますが、私が好感を感じたことが2つあります。
 
1一つ前の世代の、歌謡曲と言われていた時代の歌手やアイドルは、声をひっぱるときに、音程を震わす歌い方をしていたが、パフュームは声が震えないので違和感がない。

2別の項目で指摘した、「音楽のリズムと必ずしも振り付けが同期していなくてもいいのではないか?」ということの兆候が伺えるものを見つけた。

 1はここで論ずる題目とは関係ないので省略します。
 振り付けをしている指導者がこのことを意識しているのかどうか不明ですが、質が高いだけでなく、「SWEET DONUT」という曲の振り付けの中に、ところどころ曲の進行と若干ずれている、あるいは食い違っている箇所があり、このことがもともと質の高い踊りと振り付けをさらに印象的なものにしているように感じられました。まだ兆候に過ぎませんが、この要素がさらに発展することを期待しています。こちらの勝手な解釈である可能性も否定できませんが。この曲以外の曲では、このような、音楽と振り付けとのずれは見つけることはできませんでした。
 パフュームに限らずライブその他の動画を見て感じるのは、やはり人間のダンスのもつ印象と完成度の高さはたいへんなものがあり、いくらCGが進歩したといっても、何度もオーディションに合格したエリートたちの、しかも、たいへんな資金と時間と労力を投資して獲得された技能ですから、比較にならないのは当然といえば当然でしょう。それだけでなく、もともと人間の視覚というのは、生物の持つ動きに反応しやすいということも指摘できそうです。
 
 パフュームを取り上げたついでに、動画とは離れますが、パフューム関連とその他のことについても書きます。
 これはメンバー3人に対してではなく、サウンドプロデューサーなる中田ヤスタカさんに言いたいのですが、動画サイトでいろいろ見たところ、ライブの演奏もスタジオ版のも演奏のアレンジと音色が同じです。演奏者がいないため、おそらくカラオケを使用しているのでしょうが、今後全国各地でのツアーを希望しているのでしたら、音色とアレンジを変えた演奏をしてもらいたいものです。カラオケを使用しているのは経費削減のためかもしれませんが、電子楽器のつまみをあちこちいじるだけで音色は変わるでしょう。これを自動演奏させて記録するなどすれば手間をかけずに別物が作れる筈です。 
 これはパフュームに限らず他のアーティスト(アーティストとは画家の意味ではないのか?)についてもしばしば見られることですが、演奏中に歌うのを中止して、観客に向かって「もっと元気を出してとか何だの」何かしゃべるのを見かけますが、これについて異論があります。
1本当にいい演奏と上手い歌と踊りなら、わざわざ言われなくても口ずさんだり踊ったり拍手するのではないか? もし盛り上げたいのなら、演奏と歌とおどりで観客をのせていくべきではないか。
2基本的に観客は代金を支払って入場しているのだから、どのような鑑賞をしようとそれは観客の自由である筈ではないか。周囲の客に迷惑をかけたり演奏を妨害するとか、演奏中にいびきをかいて寝ているというのでもない限り。それに、ひとりだけ座ったままじっとしている客を安易に叱ることもできない筈だ。調子が悪くて休んでいるかもしれないからだ。
3盛り上がって観客が総立ちになると、後方にいる背の低い人たちは前が見えなくなってしまうことはないのか。それと、演奏中にリズムに合わせて手を上げて振っている場面も見かけるが、こんなことをされるとますます見えにくくなるではないか。
4演奏に合わせて掛け声ややたらとキャーキャー叫ぶ客がたくさんいるが、それぞれの観客はあくまで演奏と歌と踊りを見るために来場しているのではないのか。度を過ぎると鑑賞者の邪魔になる。
5筆者のように、たとえ会場にいても歌ったり踊ったりする気にならない気質の人間に、まるでじっとしていることが悪いかのような言い方をするのは失礼ではないか。
6上述の内容と異なるが、音が大き過ぎないか? 難聴になりそうなほどの大音量が本当に必要なのか。電力の無駄遣いでもある。

 「歌手とかミュージシャンとか称される人たちは、上記の事柄についてよく考えてもらい、自重することを勧告する。」とまでは言わない。が、このように感じている人間もいるということを、すくなくとも頭の片隅に入れておいてもらいたい。

動画の可能性と問題点と限界について。

2008-05-24 | Weblog
 少し以前にたしかMTVとかいって、曲に合わせてやたらと画面をかちゃかちゃ切り替えるかなり粗悪なビデオ作品がはびこっていたように記憶しています。さすがに最近ではこの手のものはあまり見かけなくなりましたが、依然として、音楽の完成度の高さに比較して、映像や動画の質の低さは際立っています。ためしに、音量を0にして画面だけを眺めてみるといいでしょう。映像だけで鑑賞に値する作品がどれだけあるでしょうか。
 このテーマはかなり難解かつ広大かつ深遠なので、この項目だけで書ききれるものではなく、いくつもの論点に分けて時間をかけて考えていきます。

 ではとりあえず列挙します・・・

 ①視覚は空間的な知覚であり、聴覚は時間的な知覚であるということ。
 ②よく、「いやあ、音楽と映像が見事に合っていましたねえ」といったようなことがいわれるが、そもそも音と映像が合うとは何を意味するのか?
 ③何を目指すべきか?
 ④作成するさいの問題点。
 ⑤その可能性と限界はいかなるものか?
 
 等々・・・・・

 「絶妙ハーモニーを視覚化 グーグルデザイナーの試み」を視聴しましたが、やはり作品と呼べるような代物ではありません。音量を0、ようするにミュートして視聴してみれば一目瞭然でしょう。何を表現したいのかはそれなにりに伝わってはきます。すくなくとも、動画そのもので一定以上の自律的な影響力と価値がないといけません。

 音楽動画を作成するときの注意点としては・・・・・

 音楽に動画を合わせるということにこだわり過ぎないこと。
 
 これは書いていくときりがないほどいろいろありますが、そもそも視覚と聴覚は別次元の知覚であり、誰がどう工夫しようとも動画を音楽に合わせることは不可能であり、そのことを障害として捉えるのではなく、むしろ動画の利点だと考えるべきでしょう。音楽にできることは音楽で表現すればいいわけで、もしも動画でも音による音楽性が表現できるのなら、音楽と重複してしまい、むしろ動画の欠点になってしまうでしょう。そのうえ、もしそんなことが可能なら、とうの昔に誰かがその方法を発見・整理・発展させて完成させているでしょう。私などよりはるかに優秀な頭脳を持っている人たちが多数いる(いた)わけですから。そしてこの逆の、音楽を使って視覚による動画を再現することも不可能です。ということは、音楽による表現とは別の次元で、動画は圧倒的な優位性を持っているのであり、このことはたとえば、花火大会の初めから終了に至るまで、ずっと目を閉じたままで観賞するとどうなのか考えてみるとわかるでしょう。

 必ずしも音声は音楽(曲)でなくてもかまいませんが・・・

 では、音楽に動画を追加する。あるいは逆に動画に音を追加することの意味(意義か?)ですが、強引な考えですが、数学に虚数が導入されたことによって数の世界が二次元へと拡張したように、音だけの世界よりも多様性が比較にならないほど拡大するということが期待できそうです。音声はもちろん文脈を有する曲がすべてではありませんが、その影響力という点からして無視することは困難です。動画サイトがこれだけ普及して、たいていの人たちは日常的に動画を観賞しているわけですが、音声と動画の心理的な相互作用の法則については、納得できそうな作品や理論を見たことがありません。
 

世界最大の花火。

2008-05-24 | Weblog
 以前民放のテレビ番組で、片貝町の四尺玉よりも大きな花火玉を作成して、タイだったかどうか記憶はあいまいですが、どこかの熱帯アジアの国に運んで打ち上げたものの、玉が上昇せずに落下して水中で爆発したというのが放映されていたのを記憶している。打ち上げまでは出演者は盛りあがっていたが、失敗したのを見てがっかりしていた。機会があれば再度挑戦すると言っていたような気もするが、記憶が定かでない。
 
 「花火というものは、大きければ大きいほど良いというものではない」などという、どこかで聞いたような台詞を持ち出す気はない。打ち上げ花火は大きければ大きいほど良いというのは事実であり、尺玉以上の大玉の迫力にはすさまじいものがある。ただし、花火玉の大きさとこのことが比例するのは二尺玉までである(この記事を書いた後に、片貝で玉殻の観客への落下事故が起こり、それ以前にも別の打ち上げ場所で二尺玉の殻の落下による死亡事故が起きているので、二尺玉の保安距離も遠くなっているかもしれない)。
 玉の内容積は径の3乗に比例して増えるうえ、玉が大きくなるほど上昇高度も高くなる。このため、大玉の発射時の衝撃は大変なものになり、三尺玉の殻の重量は140kgもあるのである。これは、玉の全重量の半分に相当し、爆発時に殻が20等分したとしても、1個の破片の重量は7kgもあるのである。こんなものが600mの上空から落下してくるのであり、観客に当たれば大事故になる。当然ながら、保安距離はとても長くなり、三尺以上の大玉の開花時の見かけ上の大きさは、尺玉よりも小さいくらいである。おまけに、三尺以上では、発射時の衝撃で玉の内部の火薬に引火して地上で爆発するという事故が起きやすい。
 
 ついでに、ギネスブックに載っている、洞爺湖で打ち上げられた、直径が1200mに広がった世界最大の花火についても触れておく。この本には、「打ち上げられた」と書いてあるがこれは嘘であり、打ち上げたのではなく、花火玉をイカダに載せたまま爆発させたのである。

 打ち上げ花火は、どこまで大きな玉を打ち上げることが可能なのか?

 よく知られているように、世界最大の打ち上げ花火は四尺玉である(最近これを超える玉が打ち上げられたらしいので、おそらく「毎年定期的に打ち上がる花火としては・・」というのに変更されるべきだろう)。では、さらに大きな五尺玉や六尺玉も打ち上げることが可能なのかどうかということについて思案してみた。

 論点を列挙しておく。

1技術的にどこまで可能なのか?
2どのような問題が生じ、何が障害になってくるのか?
3どのような諸条件の中で可能なのか?

 たんにできるだけ大きな玉を上げて爆発させればいいというのであれば、六尺どころか十尺玉でも不可能というわけではない。しかし、それにはさまざまな問題が発生するのだ。まず、玉が大きくなれば重量も重くなり、発射時の衝撃も大きくなる。現在のような、紙を糊で張り合わせた殻を使うのであれば、一定の大きさ以上では硬性上限界に達するだろう。もしあえてそれでもできるだけ大きな玉を打ち上げるとすれば、殻を厚くするしかないが、そうするとその分だけ内容積が狭くなり、火薬が少量になってしまって、大きな玉を打ち上げたけど、花火の開花が小さなものになってしまうだろう。これでは意味がないのではないか。このほかに、殻を厚くすると、爆発後落下してくる殻の破片が大きくなり、その分だけ保安距離が長くなってしまってえらく遠くからでないと眺めることができなくなってしまうのだ。三尺玉の重量が約280kgあり、殻の重量は約140kgに達し、なんと玉の重量の半分ほどが殻で占められているのだ。爆発後殻が十等分して落下するとすると、1個の破片は14kgにも達する、こんなものが頭上に落下したら大事故になる。かりに事故防止のために、強化ガラス製のシェルターのような見学施設を設置して観覧するというのなら、保安距離を縮めることは可能だろう。この条件下であれば、五尺か、ひょっとすると六尺玉くらいでも打ち上げる価値があるかもしれない。ただし、火薬取締り法に抵触しないで五尺玉を作るとすると、中に入れる火薬が制限されてしまうので、その不足分を殻の厚みによる強度で補完することになり、六尺くらいになると玉を大きくする意味が無くなってくるかもしれない。





 諸外国については知らないが、日本の打ち上げ花火には、開花直径と同じくらいの高度にまで打ち上げるという暗黙の法則があり、もしこれを踏襲して五尺以上の大玉を打ち上げるとすると、かりに火薬取締り法を無視したとしても、発射時の衝撃が大きくなるので玉が暴発する危険が増大するため、玉に入れる火薬を弱いものにしなければならなくなる。もしこの法則を無視してもよいのなら、もう少し低空で爆発させることになるので、五尺以上の大玉も上げやすくなるだろう。防護シェルターを使って観覧するのなら、殻の素材に頑強なものも使えるので、その分内容積も大きく確保でき、さらに大きな玉を打ち上げることも可能かもしれない。

 そもそも「世界最大の花火」とは、何が世界最大なのか?

 定義をはっきりさせないと決めようがないのだ。

1打ち上げる玉の直径のことか?
2爆発してから最大の大きさに達した時の直径のことか?

 1について、極端な話が、例の洞爺湖で筏に乗せてそのまま爆発させた花火ですらギネス記録として認定されているくらいだから、打ち上げなくてもできるだけ大きければいいというのなら、煙火協会の会長であった武藤氏が指摘していたように、十尺以上の、いくらでも大きな花火玉を作成して爆発させることが可能でしょう。打ち上げた玉という条件付きですと、すでに説明したとおりです。
 2についてですが、打ち上げなくてもかまわないのなら1の説明通りですが、さらに条件を緩くして、そもそも爆発などさせずに、放射状に飛んでいく星自体を多数の筒からそれぞれ別方向に発射させれば、直径が数千メートルくらいに達する「花」を夜空に描くことも可能でしょう。このほか、通常の打ち上げ花火の開花直径をわざと小さくして、それをひとつの星として利用するという方法も考えられます。観客席が円の中心位置に来るようにぐるりと筒を円形に配置しておき、一斉に発射させて爆発させれば、直径が5000mくらいある花を開花あるいは演出することすら可能になってくるでしょう。打ち上げる玉の直径を小さくすれば、3000mくらいの高さまで打ち上げることは可能でしょうから。

 打ち上げ花火はどこから眺めても同じ形に見えるのか?

 この質問はよく見かけるが、打ち上げ花火にもいろんな種類があり、それによって異なるだろう。「上から眺めても丸く見えるのか?」と訊くひとがよくいるが、球形に広がる花火にも種類があり、広がってからすぐに消える「牡丹」や「菊」型の花火ならどの方向から眺めてもだいたい同じだろう。球形に広がる花火でも、火が消えずに垂れ下がる「冠」であれば、横から眺めるのと真下から眺めるのと真上からとではだいぶ違うだろう。この花火は真下くらいから眺めるのが最高だ。

 「なんで花火には丸いのばかりで四角や三角のがないんですか?」

 だいぶ前にテレビでたまたまこの種の質問を聞いたことがある。この質問自体がかなり思考停止気味であり、設問自体をもう少し高級にしたほうがいいが、ようするに、そうしたほうが何かと都合がよいので球形のものを主に作っているのだ。たとえば、立方体状の花火のために、打ち上げる玉も立方体状に作成すると強度が低下して一定以上の大きさと打ち上げ高度のものが作成できなくなるだろうし、充填する火薬の威力が十全に反映されず、無駄が多くなるし、見た目の迫力も低減する。書いていくと面倒なのでこれ以上の説明は省略する。





 最新の世界最大の打ち上げ花火について

 最近たまたま知ったのですが、米国の会社が直径約四尺七寸で、重量が1tくらいあるらしい花火玉を製造して打ち上げたらしい。詳細は不明ですが、動画で見た限りでは、米国製にしてはうまく開花しており、さすがに小割浮模様は入っていませんし、開花の直径がどれくらいなのかも不明ですが、上昇高度は1000mくらいには達しているようです。アラブの石油成金が資金力にものを言わせて打ち上げたみたいですが、保安距離は2kmかそれ以上もありそうで、なにしろ花火の外観上の大きさと音の大きさは距離の2乗に逆比例してしまいますから、至近距離での尺の打ち上げのほうが迫力がありそうです。アラブの富豪など見たこともないのでしょう。だいぶ前に読んだ記事ですが、米国の花火職人が三尺玉を製造している煙火会社に入社して三尺の製造法を習得してから帰国し、どこかの州で三尺玉を打ち上げていたとかいうのがありましたが、このひとがチームリーダーになって製造したのかもしれません。たぶん国内よりも規制は緩いでしょうし、広大な国土と軍事と経済の超大国ですから、その気になって取り組めば打ち上げ花火の大型化には最適かもしれません。これに対抗して五尺玉を製造して打ち上げようという国内の会社はたぶん出てこないでしょうが、そのような計画があれば応援しますし、やる以上は成功してほしいものですが、むしろどちらかといえば、いかにして保安距離を短くできるか? という技術を優先してほしいです。
 三尺玉ですら火薬取締法の限界に近い、というよりも、むしろ三尺が違法にならないように事後的に作られたという感じもします。上記と重複してしまいますが、あえて五尺玉を打ち上げるなら、四尺玉の玉皮を厚くして打ち上げ火薬を増量するということになるでしょう。発射時の衝撃が大きくなりますから、割火薬はさらに弱くして巣割れが起きにくいようにしなければならなくなってきそうです。



 これがその玉らしいです。四尺玉とあまり変わりませんが、米国人は体がでかいからでしょうか??



 ついでに、玉皮を貼り付ける装置も添付します。さすがに合理的な米国ならではという感じです。

 動画で尺の打ち上げコンテストを見ましたが、予想以上に素晴らしかったのでびっくりしました。ここまで高品質になってくると審査員も悩むでしょう。これだけ手の込んだ玉を作成するのは出品用だからこそで、もしもあえて値段を付けるとすれば、すくなくとも数十万円くらいにはなるのではないかという気がします。尺一発の相場が六万円くらいですから、いかに手間暇がかかるかということです。一般の人は尺が六万円もすると知ってびっくりするかもしれませんが、手間だけでなく火薬の量だけでも玩具花火とは比較になりませんから。

 相次ぐ花火大会の中止 花火の価格や運営費の高騰が深刻 打開策は「有料席の導入」

 なるほど、いずれこういう流れになってくるとは予想していた。要するに、片貝まつり化していきそうだということだ。「どこどこの誰さん。厄年満願。尺でございます。」とアナウンスがあり、ドーンと打ち上がるというやつで、あの単発打ちは素晴らしいのだ。良い意味での時間稼ぎにもなっているのだ。
 やはり何事も、只で手に入るというのはいずれ行き詰まるものなのだ。ヤフコメもついもながら優秀で、夏でなくても良いのではないかという書き込みも散見された。これはほんとにそのとおりで、煙火会社は夏の間はほぼ毎日のように打ち上げが続くので、疲労が蓄積しやすいし、他の季節に分散するというのは良いことなのだ。