なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

小学校の英語教育について。

2008-04-25 | Weblog
 数年前から、グローバル化や英語の世界共通語化の影響で、小学校段階から英語を教えるべきという意見が出てきて、詳しいことは知らないが、週に1~2時間程度英語の授業をしているらしい。
 この問題の是非については、すでに何人もの英語教育の専門家があちこちで議論していることなので、あらためて指摘することもないが、いちおう取り上げておきたい。
 まず、たかが週に数時間程度英語を学習した程度では、英語能力の向上と習得にはほとんど効果はない。英語を習得するということがどういうことかよくわかる一例として、英語圏の小学生の高学年が平均的に使用している語彙数が1~2万語程度だということだ。これは、英検準一級の水準に相当する語彙数であり、なんと10歳前後の平均的な子どもですら、英検準一級の水準に達しているのである。
 早期英語教育に反対する人たちは、しばしばそんなことをすると日本語がおろそかになってしまうので、まず日本語をきちんと教えるべきだと言うが、これも的外れである。この程度の時間数では、英語の習得どころか日本語をおろそかにする程度の効果すらなかろう。毎日毎日一日中英語を聞き喋り、英文を読んで読んで読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくるような生活を延々と続けて、ようやくぼちぼち効果が上がるといった程度に過ぎない。毎日1時間ずつ英語の授業を受けても、バイリンガルはおろかエセバイリンガルにすらなれない。
 本来語学の習得というものは、それ自体を目的として行うものではなく、生活上の必要とか、自分の関心のある分野の本を乱読したりしているうちに、いつのまにか身につくというようなものの筈である。
 わが子をバイリンガルにするために、インターナショナルスクールに通わせようとする無責任な親が後を絶たないらしいが、インターナショナルスクールはバイリンガルを養成する学校ではないし、学費だけでも一年間でたしか数百万円という高額である。もし英語を母国語にするのであれば、日本語は断念しなければならないし、へたをすると、帰国子女にしばしばみられるらしい、主軸となる言語が育たないという、セミリンガル状態へ陥りかねない。この状態に陥ると、日本語も英語もどちらも十分な水準に達していないために、授業が消化できず、友達の会話にも入っていけず、不登校や引きこもりになってしまうこともまれではないらしい。こうなると、将来一定以上の知的能力を必要とする職業に就けなくなる恐れがあり、へたをすると一生を台無しにしてしまう。
 
 宇多田ヒカルはエセバイリンガルか?

 本当のバイリンガル(日本語と英語共に一級級か超級級)がいかに稀であり、その水準を維持することがいかに困難かということを示す一例を挙げてみたい。
 以前レンタル店で宇多田ヒカルのCDを借りてきて聴いたことがあるが、そのとき「おや?」と思ったことがある。ある曲の歌詞で、英語の歌詞は宇多田作で、その日本語訳が別の日本人によって訳されているのだ。なぜご本人が日本語で書かなかったのだろう? 
 宇多田さんにについてあまり詳しくないのでこれ以上の詮索は行わないが、タレントやその他、バイリンガルと思われている人たちのかなりは、じつはエセバイリンガルなのではないかと疑っている。エセバイリンガルとは、一見英語もぺらぺらで日本語もちゃんと話せるが、じつは英語と日本語両方とも平均的な水準に達していないもので、帰国子女も含めて大部分が相当すると考えられる。
 常識的に考えても、幼い子供は別の言語圏に移住しても比較的早期に「ぺらぺら」になるので、幼いうちから外国語を習えば、英語も日本語も自然に習得できそうに思えるが、よく考えると、1ヶ国の言語を完全に身につけるだけでも膨大な単語と文法が必要で、2カ国語を身に付けるためには倍もの語彙と文法その他を身に付けなければならない。これだけでも至難の業だということが容易に推測できる筈だ。
 翻訳家でも、自分の専門知識がなく、語学だけ頼っている訳者は誤訳がしばしば指摘されるし、実業翻訳などはみな、それぞれの専門分野の特化した知識と連動して、結果として語学力を身に付けている筈である。
 とにかく、バイリンガルを目的とした学習を続けていくためには、膨大な時間と労力と資金(と強い意志力と忍耐力と持続力)という代償を支払わなければならない。ということは、これに費やされる時間と労力の分だけ、他の教科学習や読書、その他によって得られるものを犠牲にしなければならない。しかもそれだけではなく、バイリンガルというものは、いったんその水準に到達すれば終わりというものではなく、その後も継続して両方の言語の勉強を続けていかないと、いつのまにか語学力が低下してしまうものであるらしい。宇多田ヒカルだって、音楽の才能という主幹があって、それに付随して語学力があるから羨ましがられるのであり、バイリンガルになることを第一の目標とする語学学習を続けていけば、へたをすると、英語以外に何のとりえがあるのかよくわからない、クローズアップ現代の国谷キャスターみたいなことにもなりかねない。
 
 いずれにしても、大人であろうが子どもであろうが、外国語を習得するということは相当の覚悟を必要とするものであるということ。「早いうちから文法や単語を教え込もうとすると、子どもたちが英語嫌いになってしまうので、英語の楽しさから教えていこう。」などと甘ったれた考えを抱かないこと。これははっきりいって遊びであり、勉強ではない。こんなことでは、いつまで経っても上達しない。
 最低限この程度の認識は共有してもらいたいものだ。

2 映像と音の関係性についての疑念その他について。

2008-04-21 | Weblog
 1で、映像と音の性質の対比について考えてみましたが、ここでは、それを鑑賞している人にとって、両者がどのように影響を及ぼしているのか? ということに関して、既成の作品についての疑念と、動画作品の作成に取り組む理由についてまとめます。

 映画音楽、ドラマとBGM、歌手とダンサー、フィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング、新体操、花火、等々・・・・映像(というか動画というべきか)と音とを同時進行で鑑賞するものはいろいろありますが、よく考えてみると、音楽の完成度の高さと比較して、そもそも音と画像を合わせるというのはどういうことなのか? ということについてあまり深く研究されていないような印象があります。高画質の画面、大画面化、薄型化、デジタル録音、CG、動画サイト、光速大容量のネットなど、ハードウェアは問題ない水準に達しつつありますが、ソフトのほうが対応できていないようです。それにもかかわらず多くの音楽付き動画作品が出回っているのは、音楽の完成度の高さに依存しているからではないでしょうか。音量を0まで下げて動画だけで鑑賞に値する作品はあまりなさそうです。

 まず指摘できそうなことは、「映像と音楽が合った」ということが、たんに時間的に同期しているだけではないかと思いたくなるようなものです。たとえば、コンサートで観客は、曲に合わせて拍手をしたり、手を振り上げたり、跳びはねたりしますが、それを客観的に眺めたとき、音楽と合ってはいますが、それはリズムが合っているだけで、それがそのまま音楽に対応した恰好になっているかどうかは別問題ではないかという疑念が沸いてきます。もっとも、観客はお金を支払って鑑賞しているのですから、そのことで責任を問われることはなく、座ったままで何もしなくてもかまいません。
 ただ、歌手や演奏者やダンサーは、基本的には音楽をちゃんと演奏していればいいのですが、身体の動かし方についても無関心では済まないでしょう。こんなことを書くと振り付けを指導している人たちに批判されるかもしれませんが、曲の構成と比較すると疑問が沸いてきます。
 歌手は歌いながら、手をかざしたり頭や腰を振ったりスキップしたりといろいろと動きますが、よく考えてみると、これらの動きと曲の進行との間の対応関係が、たんに時間的に同期しているということに過ぎないとすると、これはすべての楽器が同じ音階、同じリズムで演奏するようなもので、さながら津軽三味線のようなものではなでしょうか。これは音楽としてはかなり特殊な存在であり、すくなくとも現在や未来の音楽シーンでこのようなスタイルの曲がヒットするということはなさそうです。
 典型的な曲(ポピュラーミュージックというのでしょうか?)で考えてみます。ボーカルと伴奏のピアノ・ブラス・ギター・ベース・ドラム等々の各楽器は、別々の音階とリズムで演奏している筈です。それが全体として、ある対応関係のもとに統一されています。このことから考えると、歌を歌ったり演奏しながら、必ずしもそれと動きを同期させなくてもいいのではないでしょうか。
 音楽(必ずしも音楽ではなくても、効果音のようなものでもかまいませんが)内での構成関係を、動画内での画像同士の関係性や動画と音楽の関係にそのまま当てはまるということはないでしょうが、すくなくとも、たんに音楽のリズムに同期させただけでは、作品としてあまり優れているとは評価できないでしょう。

 画像と音とはまったく異質であるということ。

 具体的に考えて見ます。まず注意しておかなくてはならないのは、当然ですが、音(聴覚)と画像(視覚)とは、完全に異質であり、だれがどうやってもこの現実は変わらないということです。それだけではなく、音楽がこれだけ普及して評価されているのは、それが文脈(物語性)を帯びているということであり、動画にはこのような性質はありません。ほかに文脈を持つものには、言語がありますが、言語について考えるとややこしくなるのでここでは除外します。
 陥りがちなのが、音楽を動画で表現しようとすることで、音楽を絵画で表現しようとしたり、風景や映画の情景を音で表現するという試みは、ある程度評価されていますし、それはそれでかまわないのですが、動画で音楽そのものを表現できないのは当然であり、このことについて悩むことも無意味です。逆に、動画でしか表現できない「動画ならでは」という言い方も、一見もっともらしく聞こえますが、最初から動画という音とは異質なものは、どう工夫しても動画そのものであり、音とは異質なものでしかありえません。
 それなら、そもそも音に動画を追加することなど、蛇足であり、邪道ではないかという批判があります。たしかに当たっており、同感です。それにもかかわらずこの試みに挑戦しようとしている理由は何なのかを説明します。

 1まず、これだけビデオ機器や薄型高画質大画面のパネル、ネットの動画配信が発達し普及してきており、音と動画が同時進行で鑑賞できる環境が整いつつあるのに、肝心の作品自体があまり研究されていないような印象があるからです。俗に言われる、ハードは発達していてもソフトが未完成だといえるでしょう。資源の無駄ではないでしょうか。
 
 2「音や音楽に動画を追加するなど邪道である」という指摘が当たっているとしても、現実問題として、音楽を聴いているときでも視覚は働いており、それが音楽の感性に何の影響も及ぼさないということはない筈です。目を瞑っていても、休符も音符の一種であるように、ある種の視覚情報を「見ている」と解釈できるでしょう。それならば、音と映像とによる、もっとも効果的な心象を呼び起こす形体が、どこかに存在する筈ではないか? その可能性を追求できないか? と考えることができるからです。

 3いまさら説明するまでもなく、音楽の完成度の高さは驚くべきものがあり、たったの12音の組み合わせだけでこれだけ多様で印象的な作品が作れるわけです。ただ、作曲技法は飽和状態に達しており、現代音楽によって未知の文脈が開拓され続けられているのかもしれませんが、一般人には理解することは困難であり、この種の曲がヒットする可能性は少ないです。
 その一方で、動画の分野はCG技術の進歩によって、複雑かつ多様な動画が作成できる可能性が拡がりつつあります。音楽と比較して、自由度が桁違いに大きいため、開発の余地が数多く残されています。



ロリコン男

2008-04-19 | Weblog
 だいぶ前から、男たち、とくに日本の男たちの弱さが話題になり、その中のひとつとして、精神的に未熟であるため、いわゆる、大人の女性とのお付き合いができず、その代償として、幼い女の子に性的関心が向かい、少女を性欲処理の対象とする「ロリコン」男が増えていると指摘されている。私は以前からこのような言い方に不自然なものを感じており、ブログを開設した記念のひとつとして、この問題について論じてみたい。

 1精神的な幼さに性欲を覚える。
 2性的に未熟な身体に性欲を覚える。
 
 1は定義があいまいであり、論ずるのは難しいので、ここでは取り上げない。
 2を特徴別に列挙すると・・
1陰毛が生えていない、俗に言うパイパンに性的刺激を感じる。
2女性ホルモンによる脂肪の増加によってぷよぷよした女性的な身体ではなく、むしろ細くて骨格が浮き出ている身体特徴に性的刺激を感じる。
3ウエストのくびれのない、思春期以前の身体特徴に性的刺激を感じる。
 3以外の上記の特徴を持つ者を、仮性小児性愛者と定義する。
 まず1についてであるが、無毛愛好者がロリコンと混同されているのではないか。有毛と無毛のどちらが性的刺激を呼び起こすか、説明するまでもあるまい。陰毛によって局所が隠れていれば、前時代の、性器部分を塗りつぶしていたエロ本と同じではないか。だいいち見た目が汚らしい。
 実際、毛深い女性と毛の薄い女性とでは、ほとんどの男は毛の薄い女性を好むだろう。どうして陰毛だけが例外なのか? そんなことはないはずだ。やはり大多数の男たちは陰毛の薄い女性を好む筈だ。また、毛深い男を嫌う女性も多数派の筈だ。ほとんどの男たちは髭を剃っているではないか。
 1が正常である理由はこうである。人間は二足歩行を行うため、陰部が直接見えない。性的刺激を感じるには、前部の恥丘から腰骨あるいはその周辺部にかけての身体部分か、おしりしかない。だからこれらの部分に性的刺激を感じるのは当然であり、むしろ刺激を感じないほうが異常である。ネットにあふれる裸体画像も、大部分は無毛である。
 なお、この恥丘部のふくらみについての医学的な説明は、出産時に備えて脂肪分を蓄えるためにふくらんでいる。ということになっているが、むしろ、恥骨による出っ張りではないか。
 2も正常である。理由は簡単である。モデルはみな痩せ過ぎくらい細いし、外国ではこのことを問題視し、痩せ過ぎのモデルを雇わないようにしようとしているところもあるくらいである。細身の女性のほうが人気があるというのは古今東西変わらないだろうし、今後も同様だろう。
 ただし、3の特徴は少数の特殊例ではないかと思われる。これを真性小児性愛者と定義しておく。ただ、デブ専とかフケ専とかいう人たちもいるみたいなので、3の男がいても不思議ではないのかもしれない。
 未成年の少女に性犯罪を犯す小児性愛者が、上述の定義とどこまで一致するのか不明である。というよりも、そもそも納得のいくような論議を読んだことがない。たとえば、女子高生や女子中学生を相手に性行為をすれば、それはロリコンなのか? よしあしや非合法性はともかく、身体特徴は、ほぼ成人女性と変わらないのではないか。それなら、精神的に幼いから、その幼さに興奮するのか? 
 あるいは逆に、成人の陰毛を剃ったパイパン女性に刺激されたり、性行為を行えば、それはロリコンなのか? 
 自慢になってしまうが、今回の論には自信を持っている。この事情は、ポルノの取り締まりを担当している職員も例外なく当てはまる筈である。身体検査して、無毛で細身の裸体に性的刺激を感じないかどうか調査してもいい。

 さらにこの問題を生物学的な知識から考えるとこうなる。多少とも科学的な知識のある人たちなら知っているだろうが、人間を人間たらしめている進化上の特性は、「幼形成熟」なのである。言ってみれば人間とは、幼児のまま生殖能力を獲得して、幼児のまま一生を送るようになったようなものなのである。
 女性はこの幼形成熟の特性が強く出ており、この点では、女性のほうが進化が進んでいると言える。このことからしても、身体の幼形性に魅力を感じることは不自然ではない。

 話題が話題であるだけに、まさか新聞紙上やテレビの討論番組でこの問題を取り上げて議論するわけにもいかないだろうが、もう少しきちんとした論を提起するべきだ。「精神的に未熟だから→幼い女の子に向かうしかない」という言い方も、発言者の思考停止を自分で披露しているようなものである。
 仮性小児性愛者という言い方は、やや挑発的で不穏当かもしれない。無毛愛好者とか恥丘愛好者とかいうほうが適切であった。

 小児ポルノの摘発に躍起になっているひとたちに問いたい、あなたが問題視している男は、真性の小児性愛者なのか? それとも仮性小児性愛者か?
 また、これらの分類と性犯罪とにどのような相関があるのか調べる気はないか?


 (追記)
 ついでに、最近ネットの性情報の氾濫による未成年者への悪影響を「懸念」する声が上り、「子供たちをこうした危険な情報から守るべきだ。」と唱えるのが報道される。
 これについてひとつ指摘しておきたい。ほんとに傷ついているのは、こうしたことを唱えている大人自身ではないのか?

 将来遺伝子のデザインが普及すると、天然パイパンの無毛化遺伝子が普及していきそうだ。