数年前から、グローバル化や英語の世界共通語化の影響で、小学校段階から英語を教えるべきという意見が出てきて、詳しいことは知らないが、週に1~2時間程度英語の授業をしているらしい。
この問題の是非については、すでに何人もの英語教育の専門家があちこちで議論していることなので、あらためて指摘することもないが、いちおう取り上げておきたい。
まず、たかが週に数時間程度英語を学習した程度では、英語能力の向上と習得にはほとんど効果はない。英語を習得するということがどういうことかよくわかる一例として、英語圏の小学生の高学年が平均的に使用している語彙数が1~2万語程度だということだ。これは、英検準一級の水準に相当する語彙数であり、なんと10歳前後の平均的な子どもですら、英検準一級の水準に達しているのである。
早期英語教育に反対する人たちは、しばしばそんなことをすると日本語がおろそかになってしまうので、まず日本語をきちんと教えるべきだと言うが、これも的外れである。この程度の時間数では、英語の習得どころか日本語をおろそかにする程度の効果すらなかろう。毎日毎日一日中英語を聞き喋り、英文を読んで読んで読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくるような生活を延々と続けて、ようやくぼちぼち効果が上がるといった程度に過ぎない。毎日1時間ずつ英語の授業を受けても、バイリンガルはおろかエセバイリンガルにすらなれない。
本来語学の習得というものは、それ自体を目的として行うものではなく、生活上の必要とか、自分の関心のある分野の本を乱読したりしているうちに、いつのまにか身につくというようなものの筈である。
わが子をバイリンガルにするために、インターナショナルスクールに通わせようとする無責任な親が後を絶たないらしいが、インターナショナルスクールはバイリンガルを養成する学校ではないし、学費だけでも一年間でたしか数百万円という高額である。もし英語を母国語にするのであれば、日本語は断念しなければならないし、へたをすると、帰国子女にしばしばみられるらしい、主軸となる言語が育たないという、セミリンガル状態へ陥りかねない。この状態に陥ると、日本語も英語もどちらも十分な水準に達していないために、授業が消化できず、友達の会話にも入っていけず、不登校や引きこもりになってしまうこともまれではないらしい。こうなると、将来一定以上の知的能力を必要とする職業に就けなくなる恐れがあり、へたをすると一生を台無しにしてしまう。
宇多田ヒカルはエセバイリンガルか?
本当のバイリンガル(日本語と英語共に一級級か超級級)がいかに稀であり、その水準を維持することがいかに困難かということを示す一例を挙げてみたい。
以前レンタル店で宇多田ヒカルのCDを借りてきて聴いたことがあるが、そのとき「おや?」と思ったことがある。ある曲の歌詞で、英語の歌詞は宇多田作で、その日本語訳が別の日本人によって訳されているのだ。なぜご本人が日本語で書かなかったのだろう?
宇多田さんにについてあまり詳しくないのでこれ以上の詮索は行わないが、タレントやその他、バイリンガルと思われている人たちのかなりは、じつはエセバイリンガルなのではないかと疑っている。エセバイリンガルとは、一見英語もぺらぺらで日本語もちゃんと話せるが、じつは英語と日本語両方とも平均的な水準に達していないもので、帰国子女も含めて大部分が相当すると考えられる。
常識的に考えても、幼い子供は別の言語圏に移住しても比較的早期に「ぺらぺら」になるので、幼いうちから外国語を習えば、英語も日本語も自然に習得できそうに思えるが、よく考えると、1ヶ国の言語を完全に身につけるだけでも膨大な単語と文法が必要で、2カ国語を身に付けるためには倍もの語彙と文法その他を身に付けなければならない。これだけでも至難の業だということが容易に推測できる筈だ。
翻訳家でも、自分の専門知識がなく、語学だけ頼っている訳者は誤訳がしばしば指摘されるし、実業翻訳などはみな、それぞれの専門分野の特化した知識と連動して、結果として語学力を身に付けている筈である。
とにかく、バイリンガルを目的とした学習を続けていくためには、膨大な時間と労力と資金(と強い意志力と忍耐力と持続力)という代償を支払わなければならない。ということは、これに費やされる時間と労力の分だけ、他の教科学習や読書、その他によって得られるものを犠牲にしなければならない。しかもそれだけではなく、バイリンガルというものは、いったんその水準に到達すれば終わりというものではなく、その後も継続して両方の言語の勉強を続けていかないと、いつのまにか語学力が低下してしまうものであるらしい。宇多田ヒカルだって、音楽の才能という主幹があって、それに付随して語学力があるから羨ましがられるのであり、バイリンガルになることを第一の目標とする語学学習を続けていけば、へたをすると、英語以外に何のとりえがあるのかよくわからない、クローズアップ現代の国谷キャスターみたいなことにもなりかねない。
いずれにしても、大人であろうが子どもであろうが、外国語を習得するということは相当の覚悟を必要とするものであるということ。「早いうちから文法や単語を教え込もうとすると、子どもたちが英語嫌いになってしまうので、英語の楽しさから教えていこう。」などと甘ったれた考えを抱かないこと。これははっきりいって遊びであり、勉強ではない。こんなことでは、いつまで経っても上達しない。
最低限この程度の認識は共有してもらいたいものだ。
この問題の是非については、すでに何人もの英語教育の専門家があちこちで議論していることなので、あらためて指摘することもないが、いちおう取り上げておきたい。
まず、たかが週に数時間程度英語を学習した程度では、英語能力の向上と習得にはほとんど効果はない。英語を習得するということがどういうことかよくわかる一例として、英語圏の小学生の高学年が平均的に使用している語彙数が1~2万語程度だということだ。これは、英検準一級の水準に相当する語彙数であり、なんと10歳前後の平均的な子どもですら、英検準一級の水準に達しているのである。
早期英語教育に反対する人たちは、しばしばそんなことをすると日本語がおろそかになってしまうので、まず日本語をきちんと教えるべきだと言うが、これも的外れである。この程度の時間数では、英語の習得どころか日本語をおろそかにする程度の効果すらなかろう。毎日毎日一日中英語を聞き喋り、英文を読んで読んで読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくるような生活を延々と続けて、ようやくぼちぼち効果が上がるといった程度に過ぎない。毎日1時間ずつ英語の授業を受けても、バイリンガルはおろかエセバイリンガルにすらなれない。
本来語学の習得というものは、それ自体を目的として行うものではなく、生活上の必要とか、自分の関心のある分野の本を乱読したりしているうちに、いつのまにか身につくというようなものの筈である。
わが子をバイリンガルにするために、インターナショナルスクールに通わせようとする無責任な親が後を絶たないらしいが、インターナショナルスクールはバイリンガルを養成する学校ではないし、学費だけでも一年間でたしか数百万円という高額である。もし英語を母国語にするのであれば、日本語は断念しなければならないし、へたをすると、帰国子女にしばしばみられるらしい、主軸となる言語が育たないという、セミリンガル状態へ陥りかねない。この状態に陥ると、日本語も英語もどちらも十分な水準に達していないために、授業が消化できず、友達の会話にも入っていけず、不登校や引きこもりになってしまうこともまれではないらしい。こうなると、将来一定以上の知的能力を必要とする職業に就けなくなる恐れがあり、へたをすると一生を台無しにしてしまう。
宇多田ヒカルはエセバイリンガルか?
本当のバイリンガル(日本語と英語共に一級級か超級級)がいかに稀であり、その水準を維持することがいかに困難かということを示す一例を挙げてみたい。
以前レンタル店で宇多田ヒカルのCDを借りてきて聴いたことがあるが、そのとき「おや?」と思ったことがある。ある曲の歌詞で、英語の歌詞は宇多田作で、その日本語訳が別の日本人によって訳されているのだ。なぜご本人が日本語で書かなかったのだろう?
宇多田さんにについてあまり詳しくないのでこれ以上の詮索は行わないが、タレントやその他、バイリンガルと思われている人たちのかなりは、じつはエセバイリンガルなのではないかと疑っている。エセバイリンガルとは、一見英語もぺらぺらで日本語もちゃんと話せるが、じつは英語と日本語両方とも平均的な水準に達していないもので、帰国子女も含めて大部分が相当すると考えられる。
常識的に考えても、幼い子供は別の言語圏に移住しても比較的早期に「ぺらぺら」になるので、幼いうちから外国語を習えば、英語も日本語も自然に習得できそうに思えるが、よく考えると、1ヶ国の言語を完全に身につけるだけでも膨大な単語と文法が必要で、2カ国語を身に付けるためには倍もの語彙と文法その他を身に付けなければならない。これだけでも至難の業だということが容易に推測できる筈だ。
翻訳家でも、自分の専門知識がなく、語学だけ頼っている訳者は誤訳がしばしば指摘されるし、実業翻訳などはみな、それぞれの専門分野の特化した知識と連動して、結果として語学力を身に付けている筈である。
とにかく、バイリンガルを目的とした学習を続けていくためには、膨大な時間と労力と資金(と強い意志力と忍耐力と持続力)という代償を支払わなければならない。ということは、これに費やされる時間と労力の分だけ、他の教科学習や読書、その他によって得られるものを犠牲にしなければならない。しかもそれだけではなく、バイリンガルというものは、いったんその水準に到達すれば終わりというものではなく、その後も継続して両方の言語の勉強を続けていかないと、いつのまにか語学力が低下してしまうものであるらしい。宇多田ヒカルだって、音楽の才能という主幹があって、それに付随して語学力があるから羨ましがられるのであり、バイリンガルになることを第一の目標とする語学学習を続けていけば、へたをすると、英語以外に何のとりえがあるのかよくわからない、クローズアップ現代の国谷キャスターみたいなことにもなりかねない。
いずれにしても、大人であろうが子どもであろうが、外国語を習得するということは相当の覚悟を必要とするものであるということ。「早いうちから文法や単語を教え込もうとすると、子どもたちが英語嫌いになってしまうので、英語の楽しさから教えていこう。」などと甘ったれた考えを抱かないこと。これははっきりいって遊びであり、勉強ではない。こんなことでは、いつまで経っても上達しない。
最低限この程度の認識は共有してもらいたいものだ。