二代目稲荷神社宮司 荷田生成 車折神社は狐の芸能学校だった。1200年前の人口の水路は今でもある。
伊奈利神社の宮司、秦伊呂具は785年3月1日に95歳で亡くなっていた。後継ぎは長男の生成(いなり)に伊呂具の生前から決まっていたが、長岡京の桓武天皇はこの伊奈利神社に従二位の位を与え、そして荷田の姓を与えられた。さらに社名を稲荷神社によせと命令していた。
従二位とは最高位の正一位、従一位、正二位の次の位になる。これで「従二位 稲荷神社」二代目宮司の荷田生成として稲荷神社創設75年目のスタートになった。生成は秦の血筋で嵯峨嵐山で土木工事を請け負っている秦酒公の技師見習いとして15歳から35歳までの20年間修業させられていた。その間に土木工事の他には造園技術も覚えて奈良から長岡京への引っ越しの際には貴族の屋敷、それに寺院の庭の造園もしてきた。そして伊奈利神社に帰ってきてからは伊奈利山の参道の整備に力を入れていた。
ある日、生成は桓武天皇から平安京造営の相談を受けている。天皇は、
「丹波の木材を嵐山まで筏で運ぶが、その後の陸路の道が悪くてどうも10年では都ができない…」生成は、
「それなら嵐山から都の中心部まで水路を掘って原木の筏を流せばいい。それに木材を水揚げした後はその水を中心地から西南に元の桂川まで戻せば壬生、西七条、唐橋、吉祥院の田畑のかんがい用水にもなります」
「ほお~さすがに伊呂具の息子じゃ!考えることが大きい!」
「はぃ、京都盆地は北と南の標高差が約55メーターもありますから、これを上手く使えばかんがい用水、それに大雨などの治水、上水に下水と人間がこの水を上手くコントロールできます」
「そうか~ほなこの河川工事は生成に任すが、神社の宮司はどうする?」
「これは私の子供もいるし、それに神官と巫女の大学の卒業生も100名を超えました。もう、ほっといても神社の運営はできます」
稲荷神社は商売上手とはいわれているが、一方では大学教育に力を入れている。さらに稲作にはかかせない天文学も教えているが、これは何も人間だけでなく夜学として狐にも門戸を広げていた。
こうして生成は嵐山左岸から水路を引く工事をして三か月目、桂川から数百メーターのところで工事用の大八車の車輪が折れる事故が続発した、それに工事人夫が怪我をしたり、はたまた食中毒で倒れたりしていた。そこで生成はこれは狐の仕業と思い、工事現場に神棚を置いてそこに油揚げを毎日10枚供えていた。
この10枚は夜の内に持っていかれてどの狐の集団かは判断ができないが、とりあえずこれを一か月続けたある夜に生成の夢の中に狐が現れて、
「生成さま、いつも美味しい油揚げをありがとうございます。私は全国の旅芸人の元締めをしている狐座の女狐で斎王女と申します。生成さまの水路の工事の真下に我々の命でもある芸能学校の能舞台があるのです。それに森全体が狐の寮になっているために全国に公演に出かけている狐の帰るところもありません。どうかもう少しだけ水路を南か北へ…」
「いゃ、あの水路は原木の丸太の筏で直線の川でないと流れない。もし流れが曲がっているとそこに原木が衝突して溜まり大渋滞を起こす。とはいっても我々が先住民の狐の生活を脅かすことはできない」
「でも…なにかいい方法は?」
「それなら水路の北側にそれなりの森と神社を造成するからそこに芸能学校と能舞台を引っ越ししていただけないか?その費用も私たちが負担いたします」
こうしてできたのが「車折神社」でもちろん今でも芸能上達の神社として有名になっている。この神社の前の道がその後の三条通でこの三条通り沿いに嵐山から市内中心部の千本三条まで一部暗渠になってはいるが今もあります。この水路は明治時代に山陰線ができて蒸気機関車で木材が運ばれるまで水路として利用されてきた、そしてこの木材の集積場にできたのが現JR二条駅になります。
ちなみに機関車が走ってからはこの水路は利用されなくなり嵐山から三条まで多くあった木材問屋は消えたがまだ○○木材という会社は三条通り沿いには点在している。そしてその広大な木材置き場の跡地にできたのが東映撮影所(東映映画村)、大映撮影所、松竹撮影所になります。1200年前の人口の水路が今も同じコースで流れているが、もう誰もこのことは知らない。
★…画像は嵐山の人工河川の水の取り入れ口、車折神社内の芸能神社・渡月橋から左岸のこの水路沿いに歩いて三条通から車折神社は歩いて行けます。
この小説「伏見稲荷大社の物語」は98話まで書けています。音川伊奈利
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