INSIGHT

ある化学工学系大学教員の大学とあまり関係ないブログ.twitterやFacebookに載りきらない長文の置き場.

Google翻訳に文章校正させてみた

2016年11月14日 | 研究室

Google翻訳の精度が飛躍的に上がったらしい。これを利用して英訳した文章を和訳すると,原文よりも読みやすくなるという話を見つけて,試してみた。題材はウチの研究室の修士論文の草稿。まだ僕がチェックする前の段階のもの。参考文献表示などは省いてある。

 


(原文)

 近年,地球温暖化や化石燃料の枯渇といった問題を解決するための新エネルギーとして,トウモロコシやイモ,サトウキビなどの植物資源を発酵・蒸留することにより得られるバイオエタノールが注目されている。バイオエタノールを燃焼した際に発生するCO2は原料植物が成長過程で光合成により大気中から取りこんだものとみなすことができるため,カーボンニュートラルの概念に則る。よってCO2の排出量としてはカウントされず,地球温暖化の抑制に大きく貢献することが期待できる。

 原料植物を発酵させた時点でのバイオエタノールは大部分を水が占めており,エタノールは10~15 wt%程度しか含まれない。そのため工業利用の際には脱水・濃縮操作が必要となり,現在は一般に蒸留法による濃縮が一般的である。水/エタノール混合物に対する蒸留においては気液平衡の理論上96 wt%以上への濃縮を行うことが不可能であり,より高濃度への濃縮には共沸蒸留または膜分離を行う必要がある。共沸蒸留は2成分の混合液に任意の第3成分を加えることで共沸点を変動させる手法で,これを行うことによりエタノールのさらなる高濃度化が可能になるが消費エネルーギーコストが大きいという問題がある。対する膜分離法は水分子とエタノール分子の分子径が異なることを利用した分離法で,両者の分子径の中間に位置する細孔径を有した分離膜としてゼオライトが注目されている。ゼオライト膜を用いた膜分離を行うことでエタノールを99.5 wt%以上へ濃縮することが可能であり,この際の消費エネルギーは共沸蒸留で同程度の濃縮を行う際の半分以下に抑えられると考えられる。


(英訳)

    In recent years, bioethanol obtained by fermentation / distillation of plant resources such as corn, potatoes and sugar cane has attracted attention as new energy for solving the problem such as global warming and depletion of fossil fuel. CO2 generated when bioethanol is burned can be regarded as taken from the atmosphere by photosynthesis in the growth process of the raw material plants, so it follows the concept of carbon neutral. Therefore, it is not counted as CO2 emissions, and it can be expected to greatly contribute to the suppression of global warming.

    Most of the bioethanol at the time of fermentation of the raw material plant is occupied by water, and ethanol is contained only about 10 to 15 wt%. For this reason, dehydration and concentration operations are required for industrial use, and generally, concentration by distillation method is generally common. It is impossible to concentrate the gas / liquid equilibrium theoretically to 96 wt% or more in the distillation to the water / ethanol mixture, and it is necessary to perform azeotropic distillation or membrane separation for concentration to a higher concentration. Azeotropic distillation is a technique of varying the azeotropic point by adding optional third component to a mixed solution of two components. By doing this, it is possible to further increase the concentration of ethanol, but the problem of large consumption energy cost There is. Zeolite has attracted attention as a separation membrane having a pore size located between the molecular diameters of both molecules by a separation method utilizing the fact that the molecular diameters of water molecules and ethanol molecules are different. It is possible to concentrate ethanol to 99.5 wt% or more by carrying out membrane separation using a zeolite membrane, and the consumption energy at this time can be suppressed to less than half of that at the same degree of concentration by azeotropic distillation Conceivable.


(和訳)

 近年、トウモロコシ、ジャガイモ、サトウキビなどの植物資源の発酵・蒸留により得られるバイオエタノールは、地球温暖化や化石燃料の枯渇などの問題を解決するための新たなエネルギーとして注目されている。バイオエタノールの燃焼時に発生するCO2は、原料植物の生育過程で光合成によって大気から奪われたものとみなすことができるので、カーボンニュートラルの概念に従う。したがって、CO2排出量としてはカウントされず、地球温暖化の抑制に大きく貢献することが期待されます。
 原料植物の発酵時のバイオエタノールの大部分は水で占められており、エタノールは約10〜15重量%しか含まれていない。このため、工業的には脱水濃縮操作が必要であり、一般的に蒸留法による濃縮が一般的である。理論的には水/エタノール混合物への蒸留で96wt%以上に気液平衡を集中させることは不可能であり、より高濃度に濃縮するためには共沸蒸留や膜分離を行う必要がある。共沸蒸留は、2つの成分の混合溶液に任意の第3の成分を添加することによって共沸点を変化させる技術である。こうすることで、エタノールの濃度をさらに高めることができますが、エネルギー消費量が大きいという問題があります。ゼオライトは、水分子とエタノール分子の分子径が異なることを利用した分離法により、両分子の分子間に孔径を有する分離膜として注目されている。ゼオライト膜を用いて膜分離を行うことによりエタノールを99.5重量%以上に濃縮することができ、この時の消費エネルギーは共沸蒸留により同濃度の半分以下に抑えることができると考えられる。


 

この文章の出来栄えを5段階評価してみよう。

 

読みやすさ:★★★★☆

原文:「消費エネルーギーコストが大きいという問題

和訳:「エネルギー消費量が大きいという問題

→ 文脈を適切に汲んで簡潔に言い直せている。蛇足ながら原文の「エネルーギー」をいう誤表記も適切に修正されている。

原文:「対する膜分離法は水分子とエタノール分子の分子径が異なることを利用した分離法で,両者の分子径の中間に位置する細孔径を有した分離膜としてゼオライトが注目されている。

和訳:「ゼオライトは、水分子とエタノール分子の分子径が異なることを利用した分離法により、両分子の分子間に孔径を有する分離膜として注目されている。

→ 冒頭の「対する」は対比関係がすでに明らかになっていない場合は分かりにくい。和訳のようにカットするか「それに対して,」「一方で,」のように対比関係であることを宣言するような語の方が好ましい。また,主語である「ゼオライトは」を前に持ってくることで読みやすくしている。一方でこの和訳は誤訳があるのだが,それは後述する。

 

正確さ:  ★★★☆☆

原文:「水/エタノール混合物に対する蒸留においては気液平衡の理論上96 wt%以上への濃縮を行うことが不可能であり

和訳:「理論的には水/エタノール混合物への蒸留で96wt%以上に気液平衡を集中させることは不可能であり

→ 「濃縮」が「集中」に誤訳されている。これは専門分野の語彙を強化しないと難しいだろう。

原文:「両者の分子径の中間に位置する細孔径を有した分離膜

和訳:「両分子の分子間に孔径を有する分離膜

→ 両者(エタノール分子と水分子)の中間のサイズの細孔を持つ,という意味が崩れてしまっている。これは原文の書き方にも問題があって,「位置」という言葉を不用意に使っていることが影響しているだろう。

 

言葉遣い: ★★☆☆☆

  • 「wt%」が「重量%」に訳されているところとそのままの箇所がある。
  • 文体が一部敬体に変わっている。

 

総じて,読みやすさについては表現を簡潔にしたり語順を変えたりすることで改善される見込みが大きい。一方で正確さについては原文の良し悪し次第のように思われる。むしろ不正確な訳文になったら,原文の構文に問題がないか見直すという使い方がいいのではなかろうか。言葉遣いについてはGoogleのやる気次第かな(笑)。

 

学生たちには「Googleにも読める文章を書け!」とでも言ってみるか。かくしてGoogle丸投げ教員の出来上がりである。

 


論文執筆上のアドバイスをメールしてみた

2012年01月10日 | 研究室
今年も卒論や修論の季節になってきた.

文章を自分で考えるのが面倒なためか,どこかの本や論文の記述を自分の論文にそのまま写してしまう人がいたりする.毎年言ってることだけど厳に慎んでほしいことなので繰り返す.ということで研究室内に以下のメールをば.

卒論・修論執筆上のアドバイスです.
今回は引用する際の基本的な考え方についてです.

他の論文や本から記述を引用するときは「」でくくり,引用箇所がはっきりわかるようにすること.文献番号を示しただけでは,元となるデータやアイデアが引用元にあることを示しただけであり,論述している主体はあくまで自分自身であるということになりますから,事実と異なります.剽窃(ひょうせつ)として著作権法上の問題になります。

当然のことですが論文は自分自身の表現で書くべきものです.他人の表現が自分が言いたいことを的確に表している場合などには引用することが許されますが,それは,どこまでが自分自身のオリジナルな記述で,どこからが引用なのか,範囲と「誰が言ったのか」が明確に示されていることが前提です.

これまでに提出されてきた卒論・修論原稿の中には,本の記述をほぼ丸写ししていながら引用範囲を示さず,あたかも自分の記述であるかのようにしているものがありました.こうしたものは引用範囲を示すか,オリジナルな表現に書き換えてください.

実際,博士論文や学術論文の審査等ではこうした行為は非常に厳しく扱われます.

筑波大で中国人留学生が論文盗用…学位取り消し
http://www.acs.yomiuri.co.jp/national/news/20111217-OYT1T00417.htm

東京大学社会科学研究所助教に係る論文等の不正行為及び博士の学
位授与の取消しについて
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_231209_j.html

たかが卒論・修論と考えず,十分注意して執筆してください.


まあ,これまでの勉強の度合いが試されますわな.

発表要旨の書き方アドバイスをしてみる

2011年01月26日 | 研究室
今年も卒論発表会と修論公聴会の時季に.
研究室の学生さんの発表要旨の原稿をチェックするのだけど,毎年言っていることが多いのでメールで前もって周知しておくことに.果たして効果のほどは如何に.


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要旨執筆に際しては下記の点に留意し,私に提出する前に各自でチェックして下さい.


■論文では詳細に記述することでも,要旨では簡潔に.

- 個々の実験器具名は,その器具以外では代用できない本質的な役割がその器具にある場合は書くべきだが,そうでない場合は不要.実験条件のみを書く.
《例》「ガラスシャーレに溶液を入れパラフィルムで密閉し,これをインキュベータに入れ40℃で5h保存」
⇒「密閉容器中で40℃,5h保存」で十分.

- 分析・測定方法については一般的なものであれば不要.
《例》実験結果でSEM写真が提示されていればSEM観察したことは自明なので実験方法の記述では省略.


■実験者の都合や主観を排し,結論を客観的に.

- 試行錯誤の過程に沿って書くのではなく,成否にかかわらず各条件と結果を並列的に書く.
《例》「従来は○○したが今回は△△した」「○○したら亀裂が出たので△△した」
⇒「○○の条件では●となったのに対し△△の条件では▲となった」

- 結果について「○○が確認できる/見られた/観察された」等の多用を避ける.誰が見ても普通に確認できるのならそれは客観的事実として断定表現する.実験者の認識や主観の問題ではない.
《例》「Fig.Xの顕微鏡画像からは(a)ではマクロ孔構造の形成が確認できる」
⇒「顕微鏡画像をFig.Xに示す.(a)ではマクロ孔構造が形成された」
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質問すべきか,せざるべきか

2010年08月12日 | 研究室
質問しすぎも,しなさすぎも困る,というお話.

年度が変わって新メンバーを迎えた頃は,僕自身できるだけオープンな姿勢で「まずは訊きに来い」という態度でいる.しかしそのうち「ここは自分で調べてごらん」と言うことが増えてくる.僕が答えた方が手っ取り早いとわかっていてもだ.

そうすると不思議なもので,明らかに僕でないとわからないようなことでも訊きに来なくなったりする.まずいケースになると調べても考えてもわからないことが放置されたり,勝手な判断で行動されてトラブルの元になったりもする.

こうしたことを避けるには,問われていることの答えを求めることだけにがむしゃらになるのではなく,その性格を考えてみてほしいと思う.

例えば,溶液の相平衡を議論しているときに「自由エネルギーの濃度依存性を調べてごらん」という課題と出したとする.ここで,「自由エネルギーって何ですか?」と訊かれたら,僕は即座に自分で調べろと言うだろう.そんなもの参考書等にいくらでも解説が載っているし,その場の会話でコンパクトに説明するほうが難しい.何より自由エネルギーについての基本理解を前提に議論しているのだから,その場でいちいち教えてもらうようなことではないことを知るべきだ.

一方で「濃度依存性とはどの成分の濃度を指しているのですか?」という疑問は,僕自身に尋ねなくてはいけない.どの成分を意図しているのか,あるいは特に意図していないのかはコメント主の僕しかわからないのだから,周囲の院生に訊いたりしてあれこれ類推するのは時間の無駄なだけでなく間違いの元ですらある.

つまり,「議論の前提として知っておくべきこと」で「僕に訊かなくても調べる手段が十分にあること」が自分で調べるべきことの基準になる.質問する前にこれらに当てはまるかを一度考えてもらえればと思う.逆に僕の意図を知る必要があるときは質問をためらうべきではない.

これらに対し,「自由エネルギーと濃度の関係式を教えてください」という質問は両者の中間といえるかもしれない.僕としては一応各自可能な範囲で調べてほしいとは思うが,どういう分野の参考書や論文がいいか,いろいろある式の中のどれがよいかなどは僕とよく相談した方がいい.

もちろん自由エネルギーそのものについても,手も足も出ないのであれば積極的に僕にアドバイスを求めていい.こう書くと上で「自分で調べろ」と書いたことと矛盾するじゃないかと思われるかもしれない.ここで僕が言いたいのは学んで理解するためのアドバイスは求めるべきということだ.どう勉強すれば理解できるか,僕なりの経験から教えられることはいろいろある.これは答えを訊くこととは本質的に違うことだ.

こうしたことが考えられるようになれば僕とのコミュニケーションももっとスムーズになるだろうと思っている.

モノを扱う感覚を磨くには

2010年05月19日 | 研究室
モノを上手に扱う感覚をどうやって育んでいくか,という話.
かくいう自分の感覚も心許ないところではあるのだけれど.

学生さんが帰り際にドラフト内に臭気のする正体不明の液体が入った容器を見つけ,どうしましょうかと訊いてきた.ヨシヨシ,ほったらかしはマズいかもと思ってくれるところは上出来だ.自分のものではないからといって放置しない姿勢は大切だ.

じゃあ明日までデシケーターにでも入れておこうということにしたのだが,ここからが本題.蓋をゆっくりと開けるようにと指示してちょっとその場を離れたところで,ガターンという音.幸い破損はしなかったものの,蓋が勢いよく滑って落下してしまったのだ.

「ゆっくり開けよ」という指示が何への注意を促しているのか,これまでデシケーターを扱ったことのない者にはわかりにくい.そのことを僕はその時気づけずにいたし,もし気づいても詳しく説明するのが面倒に感じるのも正直なところだ.

扱ったことのある人ならわかると思うが,古いグリースが蓋と本体の擦り合わせ面に固着しているような場合,ゆっくり蓋をずらそうと徐々に力を込めていくとある時点で固着面が一気に剥離して蓋が急に滑りだしてしまうことがある.本人はゆっくり開けるつもりでいても,それは蓋が固いことを前提とした力の入れ方であって,急に抵抗がなくなることは想定していない.強く押し続けてもゆっくりとしか動かないはずと考え,急に滑り出した時の対応が取れない.だから,アドバイスすべきは「急に滑りだすことがあるから動かしすぎないように」ということだったわけだ.腕全体に力を入れると可動範囲が大きくなってしまうから,例えば親指を使って少しずつ押していけばいい.

さてともかく蓋を開けたわけだがここでまた,危険ではないが不適切な取り扱いがあった.学生さんはその蓋を裏返しにせずにドラフトに置こうとした.つまり,グリースが塗られた擦り合わせ面がドラフトの床面に触れるようにしたわけだ.どうもデシケーターを扱うのは初めてらしいく,慌てていたり,転がらないようにと考えてのことだったのかもしれない.結局,なぜ裏返しに置かないといけないのかを,グリースの役割から一通り説明した.

この学生さんを槍玉に挙げる格好になってしまって大変恐縮なのだが,決して特殊なケースというわけではないので検討を加えるためにここで敢えて取り上げてみた.学生さんの行動を見越してトラブルを未然に防ぐようなアドバイスをすることは,もちろん必要なことではあるのだが,我々スタッフ側からいちいち全てにアドバイスするわけにもいかない.次に何が起きうるか学生自身が予測して適切な行動をとれるように仕向けていかないと,この手のトラブルは減っていかない.

個別の器具の扱い方の注意は極めて多岐に亘るから,それらについて前もって一つひとつ説明するわけにもいかない.一般論として,学生自身が使い慣れていない器具を前にしてまず警戒心を持つことだ.何が起きうるのか分からないとき,アクションを起こす前に少々の時間を惜しまずよく観察するべきだ.一人で手を出しても大丈夫そうか,経験者を呼ぶべきか.先程の例であれば僕がそばにいるのだから,今まで使ったことがないのでとアドバイスを求めるのもいい.僕の側もなるべく使ったことがあるか訊くようにしているけれども,今回はすでに研究室に1年以上いた院生だったからデシケーターくらいわかるだろうと油断していた面もあった.

研究室に入るまでは扱う器具の種類が少ないために器具ごとに扱い方を覚えていくだけで大体は対応できた.しかし研究室ではそれに加えてこれまでの知識を動員して危険性を予測し適切な扱い方(扱わないという判断も含めて)を見出していくことが必要になる.例えば「実験台の端付近にピペットを置いてはいけない」という個別の知識から「転がりやすい物や倒れやすい物は不用意に触れない位置に置くか固定する」という一般則へ昇華させていくことだ.それから,今やろうとしているアクションから起こりうる事故を,上述したような観察を通じてシミュレーションしてみることだ.その際,「こうなるはず」という思い込みにいかに気づくかが大切で,デシケーターの話でいえば「蓋がグリースで密着しているからゆっくりしか動かないはず」という思い込みの存在に気づいて,「万一急に滑った時に備え,一定以上には滑らず止められるやり方にしよう」と対策を講じることになる.

考えながら扱い,扱った結果からまた考える.調べる.訊く.書いてみると当たり前のことに思えるが,これらの実践がモノの扱い方の感覚を磨いていくためにはどうしても必要だ.

文章作成技術の形式知化

2010年02月06日 | 研究室
前の記事を書いていてふと思ったこと.

そう,毎年この時季になると学生さんの文章の手直しで同じことを繰り返しているような気がして,進歩がないというかもっとマシなやり方にできないか・・・要するにもっとラクしたい(笑)と思うわけである.

前の記事で挙げたポイントが教員の暗黙知になっていて,学生に伝わっていないことが一因だと思う.我々教員自身,自分で考えながら時間をかけて身につけてきたものなので,あまり形式知化することを意識してこなかった.

研究発表・論文作成技法の形式知化.研究室内でもぼちぼち始めてみようか.まあ普段の実験でも意識しておくべきことも含まれてはいるが.


ぼやき:
理科系の作文技術」とかが多くの学生に読まれている状況ならこんなことで苦労はしないのですが^^;

文章をまとめることは本質をつかむこと

2010年02月06日 | 研究室
超久々の書き込み(苦笑).
ブログとしては破綻してるよな.

ま,コンスタントな読者がほしいわけじゃなくてたま~に通りすがりさんに見てもらえればそれで十分.

てなわけで,今後もボソボソつぶやく場として継続予定.


で,本題.

「おまいら,文章書く前によ~く考えや~」

何の話かというと,職場の学生の話.

只今卒論,修論の追い込みの時期で,学生さんは発表の要旨やらプレゼンやら論文やらをそれこそ昼夜ぶっ通しで書いている.

ご苦労さんです.本当に.

でもね,ガンガン書いてボリュームを稼いでも,俺はOKしないよ.

文章力の問題もあるけれど,それ以前に自分が何をやってきたのかがわかっていないとダメ.

その「自分が何をやってきたのか」というのがミソで,やってきた実験を羅列するしかないようでは困るのです.(あ,もちろんそれ自体は必要なことですよ.念のため.)

今までは,やってきたことを列記すれば,読み手(聞き手)は理解してくれた.それは,読み手(≒学校の先生)が全体のストーリーを把握していて,学生はその中で仕事をしてきたにすぎないから.だから学生がどんなに目茶苦茶なことを書いても,大体どのことを言っているのか見当がついたわけだ.でも,これからは違う.全体のストーリーを学生自身が描いて見せないといけないのだ.そのストーリーを知らない他人が読んで理解できるように.

  • それぞれの実験はどんな目的でやったのか?
  • その実験の結果はどんな一般的事実を示唆しているか? (つまり溶液が赤くなったとか青くなったとかいう結果から化学反応のどういう仕組みや性質が分かるのか?)
  • 結果を並べ替えてみる・整理してみることで新たにわかる傾向はないか?
  • それぞれの実験・結果の全体の中での位置づけは? どれがメインで,どれが補助的な役割のものか? 他人に説明する上でどこを押し出すべきか?
  • それらを総合して,研究の目的に照らし合わせてどこまで達成・解明できたのか?


書き出してみれば凡庸なことだけれど,必ず考えておいてほしいことだ.本来なら普段から,と言いたいところだけれど,せめて今研究をまとめる過程でぜひ考えてほしい.

研究の中身を簡潔にまとめるという作業は,枝葉末節を捨て本質をつかむという大切な要素を含んでいる.

こうした作業を積んでいけば,文章力なんて自然についてくるはず(楽観).

土足禁止

2008年05月01日 | 研究室
実験室の床をモップ掛けしてキレイにし、土足禁止にした。

それなのに。

戸締り・消灯の際に土足で入っていくヤツがいる。それも三晩連続で。

・・・それは自分。学生さんからしっかりツッコミを頂戴した。スミマセン。
言いだしっぺがこれではどうしようもない。

それにしても長年のクセは直らないもんだな~。これも老化現象か。

大学卒業=勉強からの卒業ですか?

2008年03月11日 | 研究室
この時期になると卒業・修了する学生さんたちは引越し準備で忙しい。大きくて運びにくい物などは後輩に譲ったりもしているようだ。

前から疑問に思っていたのだが、教科書・参考書の類をきれいさっぱり処分してしまう学生さんは結構多いようだ。修士論文の製本も、どうせ二度と見ないからという考えでペラペラの表紙で済ませてしまう人もいる。

確かに就職してしまえば教科書も論文も振り返る機会は少ないだろうけど。

でもさ、

その本、バイト代貯めて買ったんじゃないの?

その論文、一所懸命実験して書いたんじゃないの?

私自身が大学に勤めているので余計にそう感じる分は割り引いて考えなければいけないけれど、こういうのを見るとちょっと虚しい気持ちになる。

今は大して思い入れを持てないかもしれないけれど、あなた方がここで積み上げてきたことの証は、何年かの時を経てその意味と重みが出てくるものだと思うよ。

捨てるのはもう暫く手元に置いておいてからでも遅くはないと思うのだが、どうだろうか。

その記述、あなたのですか?

2008年03月08日 | 研究室
巡回先のブログでちょっとした問題を発見。
この間経過を眺めていたのだけれど、議論は概ね収束したようなので紹介する次第。ただし当事者間での解決には至っていないようだけど。

簡単に言うと、あるブログの記事を他のブログの作者が引用する際に、元記事のタイトルをそのまま引用先のタイトルに使ってしまうことで、オリジナルがどこに(誰に)あるのかあいまいになってしまう、ということだ。今回引用された側の人は、ソーシャルブックマークに登録された場合に、元記事と引用先が全く同じタイトルで並んでしまう(あるいは引用先のみが紹介される)ために、引用先がそもそもの元記事であるかのような誤解を生みかねない問題を指摘している。

卒業論文や修士論文でも成書や論文の記述を借用してくるケースはまま見られる。学生さんたちにしてみれば、自分の拙い文章力や少ない知識で一から文章を書くよりも楽だし、内容的に正しければそれでいいじゃないか、ということなのかもしれない。

私としては2つのことを言っておきたい。

第一に、借用してくるのであれば他人の記述であることをきちんと明示することだ。やり方はいろいろある。


【ケース1】(一般的なやり方)

パスカルが「パンセ」の中で「人間は考える葦である」と述べたように、一人の人間は貧弱な存在であるが、思考する力を持っていることが他の生物と決定的に異なるところである。


【ケース2】(論文でよく使われるやり方)

人間は考える葦である[1]と言われるように、一人の人間は貧弱な存在であるが、思考する力を持っていることが他の生物と決定的に異なるところである。
・・・(中略)・・・
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[1] パスカル「パンセ」


【ケース3】(ブログでよく見るやり方)

一人の人間は貧弱な存在である。
人間は考える葦である
パスカル「パンセ」

しかしこの名言が示すように、思考する力を持っていることが他の生物と決定的に異なるところである。

挙げた例はあまりに有名なので明示しなくても引用だとわかるかもしれないが、一般的にはこれをやらないと自分のオリジナルの記述であるような誤解を与える。それは他人の記述の剽窃になり得るし、場合によっては著作権を侵すことにもなりかねない。

このようにきちんと引用元を示していくと自分のオリジナルの記述がほとんどなくなってしまうとぼやく人もいるだろう。そこで第二に言いたいことは、オリジナルの記述すなわち自分自身の見解や主張をもっとひねり出せ、ということだ。そうでなければ従来の知見を整理した以上の価値はその論文には無いことになってしまう。

卒論・修論だからといって甘えることなく、社会人として通用する文章力を磨くための訓練としてしっかり書いてほしい。