INSIGHT

ある化学工学系大学教員の大学とあまり関係ないブログ.twitterやFacebookに載りきらない長文の置き場.

今の職を続けるか?

2007年12月31日 | 雑感
この1週間、執筆中の論文原稿とにらめっこする日々。

グルグルと廻りだした思考はやがてその遠心力で重力を振り切り、「今、この職にいる自分」へと向けられる。本当は学位をとるまで伏せておくつもりだったけれども、この機会に自分の考えを書き留めておこうと思う。各方面からお叱りを受けることは覚悟の上で。

現時点での結論は「この仕事は将来辞めるかもしれないが、学位をとるまでは辞めるつもりはない」である。

以前の記事に書いたとおり修士課程を出てすぐに今の職についたが、9年かかってまだ学位を取れずにいる。任期制でなくパーマネントの職を最初から得た点で他の多くの同世代の研究者よりも恵まれた環境にいることは間違いない。予算や設備の面では確かに厳しいけれども、応援を申し出てくれる人が学内外に大勢いて下さるのも大変有難いことである。学位取得が遅れていることは自分自身の問題による以外の何物でもない。

自分に近い世代の研究者を見渡してみると、結婚・出産・育児などで研究を研究を中断せざるを得なかったり、何年研究室でポスドクを続けても助手・助教になれず大学を去ったりするのは珍しいことではない。特に大学や旧国研において、若手が研究職を続けようとすると、このように個人の能力だけでは如何ともしがたい壁があるのが現状だ。皆、その中で文字通り身を削る思いで業績を上げ、キャリアアップを目指している。そして少なくない人が悩んだ末に方向転換を余儀なくされている。そんな中で独身・パーマネントで大したパフォーマンスも示せずに今のポストに居続けている自分の状況は、周囲から見たら理不尽なほどに贅沢なものと映るだろう。

それならば、なぜ今の仕事を続けているのか?

一つには、今のところ他に自分に向いた仕事が見当たらないという、消極的な理由だ。以前書いたこととも関係するけれど、学生のときに「自分探し」をきちんとやってこなかったツケを今、払っている。もちろんきちんとやったからといって見つかるとは限らないけれど、気付いたらかなり狭い道に入り込んでしまったような気がする。この道を進み続けるのか、方向転換するのか、自分の将来をどちらに見出すのか決断しなくてはならない。それも、年齢を考えれば残された時間はあまりない。

しかし一方で、学位をとらずには引き下がれない気持ちがあるのも事実だ。何しろもう9年もかけている。無駄の多い時間だったことを悔やむ暇があったらまず学位をとってこの年月に落とし前をつけねばならない。それに今後大学以外の道に進むにしても、今の仕事は自分のキャリアとして生かさなくてはならない。そのためにも学位は必要だ。そしてそれは今の職場でとる以外に道はない。

もう一つの理由は、研究職へのある種の固執だ。学生時代に今の職を選んだとき、漠然と考えたことは、何をどのように追究するのかを自分の価値観に従って自分の責任で決められる仕事がやりたい、ということだった。今思えば赤面しそうなくらい青臭い考えではあるが、大学教員という仕事はそういう意味で魅力的なものと映った。

2年ほど中央省庁に研修に行った時には、研究活動をサポートしたり実用化に結びつけたりするために国や民間の様々な立場の人が活動していることを間近で学んできた。そうした場で自分の力を活かせると感じたことも度々あった。だからそこを去るときに「ここに残らないか」と言われたときは正直心が揺れた。それでも戻ってきたのは、自分自身の探究心の存在を信じたからだ。その省庁では大学や民間の様々な第一線の研究者・開発者とお話させていただく機会に恵まれたが、話をすればするほど、自分自身もこの人達のように仕事に没頭してみたい、(学問的であれ産業的であれ)新しい価値を創り出す仕事をしてみたい、と思う気持ちは強くなっていった。研究をサポート・マネジメントする側も確かにクリエイティビティは必要だけど、どちらかといえばバランス感覚を要求される仕事。今そちら側に回ったら、きっと一生研究者を羨む気持ちで眺めることになるに違いない。とりあえず今は、やり切ったといえるまで一つの研究をやり遂げてみたい。そのように考えた。

そして、話は今に戻る。

やりたいはずの研究をやっているはずなのに、なぜこんなに逡巡するのか。また贅沢を言うようだが、やり甲斐のあるテーマを見つけていないことが大きいように思える。この職に就いてからというもの、ほとんどのテーマは他の誰とも相談することなく自分で見つけてきている。大きな研究チームに入ってテーマを与えられたという経験もない。先述した「自分で決める」という自ら望んだ環境を手に入れたわけだが、それが仇となって極めて限られた知識・考察のもとに研究の方向を決めざるを得なくなり、行き当たりばったりになっているのだ。底の浅い研究を嫌いながらも、そこに落ち込んでいかざるを得ない状況を変えずにいた。そうしているうちに研究へのモチベーションを失いかけてきたのだ。

もう一つ、大学でのキャリアアップに展望を見出せないこともある。年齢的にもう助教の公募に応募できる年齢ではなくなりつつあるし、このままいけば准教授も厳しいだろう。何よりも、論文の本数やインパクトファクターで輪切りにされるこの業界では競争に勝つことにエネルギーの大部分をつぎ込まなくてはならないことを考えると、気が重くなる。何のための研究? まるで一直線のコースを倒れるまで走らされる実験用ラットのようだ。大学でこれから生き残っていくつもりであれば、とてもじゃないが「楽しんで」研究をやる暇などない。ただでさえ自分は論文数で言えば同世代の中で競争の最後尾付近にいるのは間違いないのだし。

そんなわけで、あまり悩んでいる時間はないとはいえ自分の将来像を見定めかねている現状である。いずれの道に進むにせよ、クリエイティブワーカー(クリエイティブクラスというと「階級」みたいで抵抗がある)にどうにか留まりたいという願望はある。ひょっとするとクリエイティブワークという職種があるというよりも、いろいろな職業において自分の気の持ちようでそのような要素を見出すことができる、というものかもしれないし、そういう視点で職探しをしてみたい。

エチレンプラント火災事故

2007年12月23日 | 社会・ニュース
赤字の部分は後から追記したものである。携帯など一部環境ではうまく表示されないようだがご容赦いただきたい。

国内有数のエチレンプラントで火災が発生した。
4名もの方が亡くなる惨事となった模様である。ニュースや三菱化学の発表[PDF]によれば、プラントをデコーキング(煤取り)から通常運転に復帰させるため、ナフサ分解ガスの冷却に用いるオイル(0.7MPa, 160~170℃で運転。引火点は70~90℃)の配管でオイルの流れを遮断するために挿入されていた閉止板を取り外す作業を行っていたところ、(おそらく閉止板の上流側に隣接した)バルブが何らかの原因で開いてしまい、オイルが噴出して着火、火災に至ったとのこと。

正確な原因は今後の専門的な検証を待たねばならないし、プラントの素人である私があれこれ批評する立場にないことは承知している。ただ、一応化学工学でメシを食っている者として無関心というわけにもいかず、ほんの少し、愚見を述べてみたい。

上記のソースを読んだ限りでは、

  1. バルブは簡単に開くような状態だったのだろうか

  2. オイルを減圧・冷却した状態で作業するわけにいかなかったのだろうか

という疑問が浮かんでくる。おそらくニュース等では1.の点に関心が集まるだろうが、私は2.の方が重要ではないかと感じている。というのは「危険なものはなるべく遠ざけておく」べきであり、そのために「危険な部分には二重(以上)の安全措置を講じる」のが原則だからである。今回のケースではバルブと閉止板で二重の安全装置を構成していたわけだが、閉止板を外す作業中はその条件が崩れてしまい、バルブのみに全ての安全を委ねることになってしまう。高温・高圧で引火性のオイルが目の前のバルブまで来ている。そういう状態での作業は、ある意味爆弾を抱えながらやるようなものではないだろうか。爆弾の信管がいくら信頼性が高いといっても100%ということはあり得ない。そうであるならば、爆弾から遠ざかる、あるいは爆発の威力を失わせておくのが正しいやり方というものだろう。そういう意味でオイルそのものの危険性を下げておくのは効果的な方法だと考えられる。この場合、閉止板かバルブいずれかに異常が生じてもあるいは保守等でいずれかを外す・開放する場合でも二重の安全は保たれることになる。

大学の研究室においても、小規模とはいえひとたびトラブルを起こせば人を殺傷しかねない威力を持つ物は存在する。今回の件は、未だに整理整頓も安全操作の徹底も十分とはいえない私の研究室への一つの警告として捉えたい。

因みに信州大学の危険物取扱指針には今回と似たようなケースを対象としてバルブ等の二重閉止操作を求める規定がある(第16条)。これが完全に遵守されていれば事故は防げたかもしれないが、大学でも工場でも、一時的にせよ二重になっていないケースは案外多いのではなかろうか。

【蛇足】
千葉県ではコンビナートを新たな観光資源として見学ツアーを実施するというユニークな試みを行っていて、かなり好評だったそうである。しかし今回の事故で少なからず影響を受けるのは避けられなさそうだな・・・。

【追記1(12/23)】
「オイルを減圧・冷却した状態で作業するわけにいかなかったのだろうか」と書いたが、そうしない理由はいくつか思いつく。減圧するならば系外に引き抜いたオイルを貯めておくリザーバタンクが必要になるし、冷却するならば冷却・再加熱のための低温熱源・熱源および熱交換器が必要になる。いずれにしても追加投資が必要だし定常運転前後の起動・停止に要する時間が長くなる。企業としてはおそらくこうしたコストの面のデメリットを意識せざるを得ないだろう。

【追記2(12/23)】
本文中にも書いたように私はプラント(設計・運転)や安全工学の専門ではない。上記の考察はいろいろな誤りや見当違いを含みうるものであることを念のためお断りしておく。この記事を何らかの目的に使おうとする方がもしもおられたら、各自で必要な調査をし自己責任において使っていただくようお願いしたい。

レポート未提出?! いや出したはず!

2007年12月21日 | 講義(実験)
学生実験のレポートは、提出をめぐるトラブルが絶えない。
よくある2つのケースについて書いてみる。

【ケース1】レポートを誤った場所に提出する


私の場合、実験の場で提出場所を明記したプリントを配布して口頭でも強調し、さらにプリントの当該箇所をマーカーで強調させるなどの指導をしている。そこまでやっても他のテーマのポストに入れてしまう学生がいる。そうなるともうこちらは関知できないので、発見されるまで未提出扱いになる。TAが呼び出すのだが、「指定場所に提出しました」の一点張り。

【ケース2】呼び出しに応じない


基本的に再提出は1回までにしているが、それでも内容が不十分な場合はTAが掲示で呼び出すことになる。しかし、待てど暮らせど来ないということも。


このように書くと「困った学生がいるものだ」という話になりがちだが、あげつらったり愚痴ったりする目的でここに書いているのではない。まあ、困っているのは事実だけど。

どちらのケースも一種のミスコミュニケーションだと考えられるのだ。

ケース1の場合、TAは
「指定された場所に出したか?」「○○号館のポストに出したか?」
という訊き方をしたようだ。学生としては勘違いに気づいていないから指定された場所に出したつもりでいるし、どこが何号館だか曖昧だったりもする。だから慎重に考える学生でなければ「ちゃんと出しましたよ!」という返事になってしまいやすい。上記のようにかなり丁寧に説明したにもかかわらず間違えてしまうような学生に対しては、こちらの意図が正確に伝わっているかが浮き彫りになるように、質問の仕方を工夫する必要があるのだ。つまり、
「どこのポストに出したの?」「どの建物?」
と訊くのがベターでなのである。

ケース2の場合、TAが出した掲示には
「再提出のレポートを取りに来てください」
と書かれていたようだ。この文言は当初再提出を指示した時の掲示の文面
「レポートの再提出があるので取りに来てください」
と非常に紛らわしい。正確な文面など覚えていないだろうから、当初の掲示がそのまま残っているものと勘違いすることは十分あり得る。従って、
「再提出されたレポートになお不備な点があります」
というように誤解を生まない表現にするとともに、タイトルや文面に変化を付けて違いが一目で分かるようにしておくとよい。

こうした配慮はTAにはなかなか難しい。もっと私の目が行き届いていれば防げたわけで、少々落ち込む。

聴力低下発覚

2007年12月20日 | 雑感
今日は職場の特別健診。
オプションで聴力検査があったので受けてみた。

何年か前から人との会話が部分的に聞き取れないことはあった。当初は相手の話をきちんと聞いていないがための単なる聞き漏らしだと思っていたのだが、最近は何度も聞き直したりと会話に苦労するようになり、症状として自覚せざるを得なくなったのだ。

結果は、低音の聞き取りが弱いとのことだった。やっぱりだ。
検査員の方が「これはどうですか~」とブザーを鳴らすのだが、全く聴こえない音があるのは正直言ってショックだった。結局、耳鼻科の受診を勧められてしまった。

視力も年々落ちているのだが、聴力よ、おまえもか orz

【答】ナゾの円形物体

2007年12月17日 | 雑感
前の記事の続きです。

じつはこれはカビ。
きちんと調べたわけではないけれど、以前にも蒸し暑い時期に発生したことや拭けば簡単に落ちることから考えてたぶん間違いない。
ご覧のとおり直径数センチ~10センチ程度のかなりきれいな円形をしている。

カビのような微生物がなぜこのような美しい形を作るのかと驚いたが、どうやら似たような現象は以前から知られていたらしい。『ダイナミックな現象を科学する』(中田 聡, 金田 義亮, 福永 勝則(著) 産業図書(1996))には靴下から採取したカビ(白癬菌)を培養して見事な放射状の模様をもつコロニーにした写真が載っている(p.51)。

このサイズまで育つまでには数日以上の日数がかかると思われるが、特に今回の自分の例のようにリング状のものの場合、真円に近い形状を保つのは難しいのではなかろうか。各部分が中心からの距離を一定に保つような仕組みが存在するのだろうか。

知っている方、こっそり教えてくださいませ。

大学の先生はマルチタレント?!

2007年12月15日 | 大学をめぐる状況
大学教員にはさまざまな能力が求められる。研究、教育そして管理運営。研究ひとつとってもプランニングから分析評価、論文や学会発表のプレゼンに至るまでさまざまなステージがある。スタッフの陣容にもよるけれど、研究室の管理運営では学生さんの生活指導から予算管理・会計処理、薬品管理や機器のメンテナンスまでカバーしなくてはならない。

まあこれらの能力は以前から当然のものとして必要だったわけだが、近頃はこれらに加えて研究のための外部資金獲得、大学運営や施設維持のための予算獲得などで企業・財団や政府機関など外部のさまざまな組織と交渉をしなくてはならない。受験生獲得のためには高校や受験産業へのアピールも欠かせない。現にうちの大学は高校訪問に多くの教員を動員している。これらはまさに営業活動といってよい。

う~ん、改めて書き出してみるとすごい。これだけできるなんてスーパーマンじゃないか。
もちろん1人がこれら全ての能力を持っているわけではないし職階によって役割に差異はあるけれど、かなりのマルチタレントを要求されることは間違いない。

というわけでこれを読んだ皆さん、大学人が少しくらい世情に疎くても許してやってください。少ないマンパワーで雑巾を絞るように頑張っていますので。

意外なキムタオル

2007年12月15日 | 研究室
キムタオルをカタログで探していたら、よく使われている四つ折の束になったタイプのほかにポップアップのタイプを発見。束で買うとバラバラになりやすいし無駄遣いが増えそうな気がしてポップアップタイプを注文。

ところが届いてみてびっくり。写真右のように約50cm四方のダンボールにキムタオルの束が3列入っていて(写真では左1列が取り出されている)上の3つの穴から取り出す格好になっている。カタログに写真はなかったけど、ポップアップなら箱ティッシュみたいなもんだろうと思っていた。こんなにデカイと使いにくいよ~。

というわけで、写真左のようにゴミ用のポリ袋で包んで上に切り込みを入れ、即席のポップアップキムタオルの完成。とりあえずこれでいってみよう。

クラシックコンサート

2007年12月14日 | プライベート
三晩連続で呑んだせいか頭の働きがどうにも鈍い。
卒研生S君との論文読み合わせは何とか気合で乗り切ったが、そのほかは頭を使わないこまごました仕事で誤魔化す。

よし、こんなときは普段使わない左脳モードにチェンジだ。
というわけで18時で仕事を切り上げ、近くのコンサートホールへ。
今夜は地元の交響楽団の定期演奏会だそうだ。

開演前にプレトークがあって、指揮者とゲスト奏者が演目についていろいろ解説してくれる。自分のようにクラシックのコンサートなんて○年ぶりなんていう人間には敷居を低く感じさせてくれるありがたい配慮だ。

美術もそうだけれど、音楽も自分なりの楽しみ方を見つけるまではちょっとばかり試行錯誤がいる。自分の場合、コンサートでも目を閉じることで演奏者たちの体の動きとかの視覚情報を排除してしまうのが一つのやり方である。こうやって音のみに集中することで、普通に聴いていては意識されない音が聴こえてきたり、音の中を浮遊する感覚が味わえたり、特定の楽器に意識を集中してみたりといろいろな楽しみ方ができる。しかし脳に入力される信号が減ってくると、とたんに睡魔に襲われるという両刃の剣だったりもする。

今日もプログラム中盤のゲスト奏者のマリンバが一番の見せ場だったのだが、心地よさに浸っているうちに終わってしまった。うわ~アンコールしてちょうだいよっっマジで。

これって昨晩産総研の友人と食べた△△牛のすき焼きと同じかも。肉のとろけるような柔らかさのせいで、かえってしっかり味わうことを忘れてしまうのだ。今日のマリンバもそれに近い感じ。

休憩時間にクラシック好きのK先生を発見。先生曰く、今日のマリンバはすっごく気持ちが入っていて上出来だったのに、客席の拍手が少なすぎ。アンコールをあきらめてしまうなんて・・・。とこぼすことしきり。いや~すみません。ちょっとボーっとしておりました ^^;

締めくくりはショスタコーヴィチの交響曲第9番。プレトークで指揮者曰く、第二次大戦の戦勝を記念してロシア政府から依頼されて作曲したのだが、政府の期待するスターリン賛美の荘厳な曲調ではなく、わざと皮肉っぽい曲調にしたとのこと。いいねえ、そういうの。でも暗殺されないぎりぎりのラインを狙ったんだろうな。

聴いてみると、なるほどこいつは奇妙だ。終盤に向けて徐々に盛り上がっていくのだけれど、伝わってくるのは歓喜でも威厳でも興奮でも悲壮でもない。う~ん、空虚なお祭り騒ぎとでも言うのだろうか。そしてラスト直前、不意を突くような数発のタンバリン。これを聴いたスターリンや政府関係者はさぞかし怒っただろうなあ。少なくとも権力へのリスペクトとは全く逆の方向を持った曲である。クラシックをこんな風に味わうのも初めての体験で、なかなかどうして、楽しめた。