こんにちは、のほせんです。
雨模様のじっとりした空気が肌にまといつく、この2,3日ですが
みなさん、いかがおすごしでしょうか?
体調管理は、ぎんなん先生の井穴刺絡療法でしっかりセルフコントロールなさってくださいね。
-- さて、今回はサカキバラセイト・元少年Aの病理についての続考ということで、ごいっしょに考えてまいりましょう。
- 1997年6月28日、14歳の容疑者のAが早朝に連行され、自供する場面から「絶歌」は書き出している。
Aはその間の警察官とのやり取りや表情をごく冷静な眼で観察・記憶し、
すこし作家気取りの文章で描いている。
そして、「-- やっと証拠が出た。終わりだ。もう終わっていいんだ --」と
もったいぶったうえに、感傷的な表現には、
「もうこれ以上、誰も傷付けずに済む。」という意味深長な理由付けが付されている。
本心だろうか? それともまだ無念さがかくされているのだろうか? ・・
-- 「リセットボタンのない命がけのゲーム。負ければ絞首刑。」・・ だが、
このコメントは殺害行為が社会的事件となった「後付け」のこれ見よがしのパフォーマンスにすぎない。
しょせんゲーム感覚の中ではバーチャルな恐怖や征服感しか得られず、
本物の恐怖や嫌悪感も、そして狂おしい快感も現実に侵犯したときしか手に入らないものだから。
ほんとうのかれは昂奮に身を震わせながら、現実に侵犯し、殺害し陵辱し、至上の快感をものにしたとき、
社会から隔絶したあとに、命がけのゲームをおもいつき挑むほか術がなくなっていたからだ。・・
筆者Aはいわゆる「直感像素質者」らしく、瞬時に記憶した他者の物言いのコピペ・フレーズの抽斗から
器用ににさまざまな比喩を駆使して文章を仕立ててゆこうとする。
しかしなぜか、流暢な言い回しであるほど読む者に空々しくおもわせるものが滲み出てくる。
フロイトや村上龍のコピペをとりだして、
「生の欲動」「死の欲動」だの、「涅槃原則」「体内回帰願望」など、
半可通をふりまわして読む者を白けさせるのには閉口する。・・
だが案外、Aは本気で作家として、じぶんのコンプレックスを解消したいと望んでいるような、
どうも、そんな気配が全体にただよっている。
-- そして、「原罪」という章で、いよいよ決定的な告白を聞くことになる。
小学5年生の春に、慕ってきた祖母が亡くなる。・・
祖母がいなくなった部屋で、マッサージ器で祖母の思い出と戯れるうちに、
ペニスに当てた感覚に昂奮してしまって、ついに射精してしまったという。
未だ皮被りのペニスに激痛が走ったという。・・
( このとき、母より慕った祖母の死に直面したAには
不安と絶望を糊塗する必要に急かされるように、
性の欲動が起きあがってきたとみとめられる。
この時点ではまだ、性欲動の対象が定まらないまま、欲動だけが過剰にあらわれだしたといえよう。
しかし、これほどAが祖母を代理母のように慕うほかなかったとすれば、その理由は
かれの母親や父親が「告白日記」から「覚えがない」と否定しているものの、
離乳や排便など、幼児期以前の母子関係のあり様が
Aには「楽しかった記憶は何もありません」と、
言わしめる「愛着の欠如」あるいは「齟齬」があったことはたしかなようである。
そして、まだ幼いAには早くに両親の過大な権威抑圧から離脱する術は、
「親を懲らしめる」ことでしか実現できないことを無意識に学習していたようだ。
こうしてAは、祖母の位牌の前で罪悪感を快感に転倒しつつ、
早すぎた、しかし切迫的な不安抑圧にもはや堪えられないために、冒涜の儀式をくりかえしてゆく。・・
-- 両親はまた、このように証言している。
(母親)「人見知りがはげしく、とりわけAは、じぶんの興味のないことは、まったく受け付けない性格でした。」(不安緊張症と葛藤能力の不全)
(父親)「勉強はまったくダメで、おとなしい目立たない子だった」(教育不在) --
-- 人は思春期の前段階に、すなわち幼児期にも性の欲動は活発にあり、このとき欲動が満足できないと「不安」に転換する。
そして満足を得るためにあらゆる前性器的体制に「退行」して、倒錯の方へ向かおうとする。(J・フロイト) --
どんどん自閉してゆくAにたいして親は鈍感に過ぎたようだ。
「この頃からマーマレードの空き瓶にナメクジを集め始めた」と、Aは次なる階段を上りだす。
さらに、祖母の死の後を追うように死んだ祖母の飼い犬サスケの
小屋の前の餌皿に顔を突っ込んでいた野良猫を見たとき、
「ー 殺そう - と閃いた」とAは語っている。・・
「 あの全身の骨を擽(くすぐ)られるような、いても立ってもいられなくなる奇妙に心地よい痺れと恍惚感・・・。
間違いない。 ” ソレ ” は性的な衝動だった。」・・・
ここに到ってAの性的な欲動は、
明確に性器的な体制を回避し、幼児期の性的対象の倒錯期に退行する。
( 幼児は生殖という目的にいたらない部分「性欲動」(口唇期、肛門期)の塊であり、
幼児においては性倒錯がむしろ「正常」な状態であって、
かえって幼児期の倒錯から「正常」な性対象にいたる道筋の方が説明を要するほどである。
フロイトは、幼児的な性倒錯を思春期において性器的な体制に統合できなかった個人は、
神経症になるか、性倒錯になるとかんがえた。)
異性を対象にできない幼い思春期前期のAが、小動物の殺戮に向かった理由は、
殺害攻撃過程が「冒涜の罪悪感」のオナニーをはるかに越える、
相手の恐怖苦痛 = 快感増幅であることを、幼児期のある時点ですでに学習済みであることがうかがえる。
-- またAが「小学校に上がる前の記憶がほとんどない」というとき、
あきらかに乳幼児期の母子愛着の欠如・齟齬とともに、
母親からの「躾け」という抑圧がつよくあったことを物語っている。
抑圧は幼児の性の欲動をも例外としない。 すると、
その抑圧による欲動の屈折や抵抗・固着が生じて、後々の思春期になって、
神経症を発症したり、性の対象倒錯などがあらわされるようになる。
乳幼児期の早い段階での何らかの固着によるフェティシズム(死体)や、
人類史の素因ともみなされる残酷さ・サディズムと性欲動の密接さが
Aの葛藤能力の閾値の低さを利して、発現されたのではないかとおもわれる。
猫を殺戮するときの描写はAが「手の施しようのない性倒錯者になった」ことをしめしている。
Aは告白する。--
「猫殺しの手口はますます残虐を極めた。」「それに反比例してエクスタシーは得られなくなった。」
「中学に上がる頃には猫殺しに飽き、次第に自分と同じ ” 人間 ” を壊してみたいという思いに囚われ寝ても覚めても、もうそのことしか考えられなくなった 」・・
( もはや、自我の抑圧(自制)や葛藤をまたいで逃亡したAは、
快感の感応度低減に我慢できず、
さらなる性の快感欲求に見合った人間破壊のイメージを大脳辺縁系に固着したことを告白している。
・・そしてついに、Aは現実への侵犯に向かう。)
1997年3月16日、ハンマーで彩花さんを殴殺し、もう一人の女の子をナイフで刺した。・・
さすがにAは離人症をていして、
「身体の重さを感じない。何を食べても味がしない。相手の声がどこか遠くから聴こえてくる」と訴える。
さらに、5月27日未明、殺害陵辱した淳くんの頭部を風呂場で洗おうとして、
「僕は殺人よりも更におぞましい行為に及んだ 」 と告白している。・・・
(次回につづきます)
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