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古代の倭と高句麗と百済と新羅1

2014-03-30 13:08:07 | 極東古史考

今週は疲れた 

雨だし 出かける気が起きないので 歴史で暇つぶし
でも 近所の桜はきれいだ

岩波の日本書紀など読み返す

継体天皇から 天智天武天皇まで 半島との外交は
任那加羅の所属をめぐる 倭 高句麗 百済 新羅の外交戦争であったようだ

高句麗は扶余の流れで 高氏を名のり

自分の勝手な推定だが 高句麗は 高氏の呉 「こうくれ」 が 語ではないかと
高句麗語 百済語は 日本にも残る 現在の韓語とは異なる言語と推定している
百済は百残 つまり百の亡人諸国の国 或いは 百の諸地方の国の意味ではないかと

現韓国では 百済は ペクチェ 高句麗は コグリョと発音すると言う
日本では 百済は クダラ 高句麗は コウクリと発音する

現代韓国の発音は 多分 中国の宋音に基づく読みだろう
古代の 高句麗 百済の 原音ではない
日本語に 古代の音が残っている

日本語は開音節 母音で終わる
ハングル朝鮮語は閉音節 子音で終わる
世界の大多数の国は閉音節である
開音節は 少数派である

高句麗 百済は どうも開音節に近かったらしい
つまり 日本語に近い言語構造を持ってたらしい

例えば 泉蓋蘇文と言う人が高句麗にいた

韓国語では ゲソムン
日本書紀では イリ・カスミである
イリは別として 蓋蘇文をカスミとは読める
カスミの発音は 開音節である

その人の名の カスミが原音で 漢字で表記すれば 蓋蘇文
そして 蓋蘇文を宋音読みしたのが現代韓国
書紀の方が 原音を忠実に記してるように思う

やはり推定するに YAP遺伝子の結果のとおり 現半島人は 漢族が主体であろう
新しい中国音を すぐ取り入れている

新羅は 三韓の末裔と漢族の末裔の混合集団である
高句麗 百済は朝鮮半島に南下した扶余族 別族である

百済は古代満州中北部で現地の東湖種を束ねた扶余氏が祖先である
共に 古代 満州の紫蒙の大平原で 一時隆盛を極めた扶余国の流れを汲む

扶余王は自らを亡人(国を失い逃れ来たもの)と言う

「廣韻」の「餘」の解説によれば

「風俗通義に謂う 呉の公子 夫概は楚に出奔
時を経て 夫概の子に 国あり 扶余を氏と称す
今の百済王 扶余氏である」

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三國志
魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十

夫餘本屬玄菟

漢末 公孫度雄張海東 威服外夷 夫餘王尉仇台更屬遼東
時句麗 鮮卑強 度以夫餘在二虜之間 妻以宗女

尉仇台死 簡位居立 無適子 有孽子麻餘 位居死 諸加共立麻餘
牛加兄子名位居 爲大使 輕財善施 國人附之 歲歲遣使詣京都貢獻

正始中 幽州刺史毌丘儉討句麗 遣玄菟太守王頎詣夫餘 位居遣大加郊迎 供軍糧
季父牛加有二心 位居殺季父父子 籍沒財物 遣使簿斂送官

舊夫餘俗 水旱不調 五穀不熟 輒歸咎於王 或言當易 或言當殺
麻餘死 其子依慮年六歲 立以爲王

漢時 夫餘王葬用玉匣 常豫以付玄菟郡 王死則迎取以葬
公孫淵伏誅 玄菟庫猶有玉匣一具
今夫餘庫有玉璧 珪 瓚數代之物 傳世以爲寶 耆老言先代之所賜也

魏略曰
其國殷富 自先世以來 未嘗破壞
其印文言「濊王之印」 國有故城名濊城 蓋本濊貊之地
而夫餘王其中 自謂「亡人」 抑有似也


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『三国志』卷三十 東夷伝 倭人条

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者,今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 曆韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海 千餘里至對馬國

『三国志』卷三十 東夷伝 
韓条韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里
有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓
辰韓者 古之辰國也
馬韓在西

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どちらにしても 
三韓の南にあった倭の北限である狗耶韓国は
[その中心は金官国(現在の慶尚南道 金海)である]
後に 倭 百済 新羅の争奪戦の場となり 
やがて倭は経営から手を引き 
百済は唐新羅連合軍によって滅んだ

 

男大迹(おほど)すめらみこと 継体天皇2年12月
耽羅国(現 済州島)初めて百済と通交する
百済の属国になる以前 独立王国であった

****************************************************************************ウィキペディア 済州島神話

済州島には、「三姓神話」という、朝鮮半島とは違った耽羅民族の独自の建国神話があり、
高麗史や世宗実録におよそ次のような内容で表されている。

瀛州(ヨンジュ)と呼ばれ、未だ人の住まない太古の濟州に
「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人(3神が高乙那・良乙那・夫乙那と描かれるものも)が、
漢拏山の北山麓の地の穴(三姓穴)から現れたのが現在の済州の人々の先祖であるという。
ある日、漢拏山から遠くの海を眺めていた彼らは、日本海の方から流れてくる木の箱を発見した。
開けてみると、
箱の中には東国の碧浪国(日本と取る学者もいる。)から来たという
紅帯紫衣の使者と美しい3人の姫と駒と馬と五穀が入っており、
神人は、彼女達を妻として迎え、年齢順に住処を定めて暮らすようになった。
その後神人の子孫達は、産業と五穀の栽培を始めて集落を作るようになり、
約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされる。

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『高麗史』巻57地理志2 耽羅縣に言う

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初無人 三神人從地聳出其主山北麓 有穴曰毛興是其地也
長曰良乙那、次曰高乙那、三曰夫乙那 三人遊獵荒僻 皮衣肉食

一日 見紫泥封蔵木函 浮至東海濱、就而開之、函內又有石函 有一紅帶紫衣使者 隨來開函
衣處女三人及諸駒犢五穀種

乃曰

「我是日本國使也 吾王生此三女 云西海中嶽降神子三人 將欲開國而無配匹
於是命臣侍三女而來 宜作配以成大業」

使者忽乘雲而去 三人以年次分娶之 就泉甘土肥處射矢卜地
良乙那所居曰第一都 高乙那所居曰第二都 夫乙那所居曰第三都 
始播五穀且牧駒犢 日就富庶

十五代孫高厚 高 高季昆弟三人 造船渡海 泊于耽津 蓋新羅盛時也

于時客星見南方 太史奏曰
「異國人來朝之象也」及厚等至 王嘉之 稱厚曰星主 以其動星象也
令出袴下 愛如己子 稱曰王子
又稱其季曰都內 邑號曰耽羅 以初來泊耽津而朝新羅也 各賜寶蓋衣帶而遣之 自此子孫蕃盛 敬事新羅
以高爲星主 良爲王子 夫爲徒上
其後服事百濟 除星主王子之號 以其爲佐平使者 爲恩率 
及羅濟亡 耽羅國主見太子未老 朝高麗太祖 因賜星主王子爵瑞山

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「徐福伝承」の一つにこんなのがある

航海途中 徐福の一団は済州島を見つけた
徐福は 高氏 粱氏 夫氏の3人の男をその島に残し 東へ航海を続けた

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『魏書』巻30烏丸鮮卑東夷伝
又有州胡在馬韓之西海中大島上 其人差短小 言語不與韓同 皆髡頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬
其衣有上無下 略如裸勢 乘船往來 市買韓中

『三国史記』百済本紀4(文周王2年4月条)476年 首都熊津城(現在忠清南道 広州)
耽羅國獻方物 王喜拜使者爲恩率

『三国史記』百済本紀4(東城王20年8月条)498年 
王以耽羅不修貢賦親征至武珍州 耽羅聞之遣使乞罪乃止 耽羅即耽牟羅

『三国史記』新羅本紀6(文武王2年2月6日条)
耽羅國主佐平徒冬音律【一作津】來降 耽羅自武以來臣屬百濟 故以佐平爲官號 至是降爲屬國

『日本書紀』継体天皇2年12月 508年
南海中耽羅人初通百済国

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25代百済王 武寧王(斯麻王)9年 王姓は扶余 名は隆 百済は首都を扶余(忠清南道 扶余)移す

その島は加唐島

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8A%A0%E5%94%90%E5%B3%B6/@33.6343747,129.5408525,10z/data=!4m2!3m1!1s0x356a73d535ba7773:0xdfeebd6570db03e4?hl=ja

 

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『日本書紀』斉明天皇7年5月丁己条
耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。

『日本書紀』天智天皇4年8月条
耽羅遣使来朝

『日本書紀』天智天皇5年春正月戊寅条
是日耽羅遣王子始如等貢獻

『日本書紀』天智天皇6年7月己巳条 秋七月己未朔己巳
耽羅遣佐平椽磨等貢獻

『日本書紀』天智天皇8年条 己卯朔
己丑 耽羅遣王子久麻伎等貢獻 丙申 賜耽羅王五穀種 是日王子久麻伎等罷歸

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わざわざ五穀の種を与えている?
済州島では この頃五穀は失われていたのだろうか?
それとも この時初めて 済州島に伝わったのだろうか?

わざわざ書いてはいないが
友好の証しとして 王子に自国の女を娶わせるのは当時の政治習慣である

日本でも戦国時代 家康が人質になったり 織田信長の徳姫が徳川家に嫁いだり
よくある事である

魏書によると
言葉は三韓と異なり 鮮卑の風俗に似ていると言う
普通は 穀物の記述があるものだが
単に牛や豚を飼うとのみある 牧畜が主だったのだろう

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『日本書紀』天武天皇2年5月壬辰条
耽羅遣王子久麻藝都羅宇麻等朝貢

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韓国北朝鮮は 漢字文化を失って久しい
漢字文化圏では 同音異義語を 漢字によって識別している
最初からアルファベットの言語圏と 言葉の成り立ちが違う

例えば 日本の同音異義語

期間 ・帰還 ・機関 ・器官 ・気管 ・基幹 ・既刊

青果・生家・生花・成果・聖火・盛夏・声価・聖歌・精華

性交・精巧・成功・性行・製鋼 

など 数えてゆけば 音読み訓読みで 何万と言う語彙があるだろう

漢字文化圏で漢字を失えば 漢文で書かれた自国の古代文献すら読めない
自国民の学習能力を奪い 愚民化を促進する
当然 文化の発展は望めないし 感情の表現である詩の世界は広がるだろうが
論理構造を失ったため 精密な科学的記述も出来ない
古代の語り部の世界へと戻って行くだろう

困ったもんだなぁ

 


 

 

 

 


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