多胡碑
ともひのつかさ ふ す(みことのり す)
かみつけのくにの かたのこほり みとのこほり からのこほり ならびに こほりのうち みほのへを こほりとなし
よふ(羊) に たまひ たごのこほり と なす
わどう よつのとせ やよいここのつのひ きのえとら (711年)
みことのりをまうすは ひだりのなかのともひ しょういつつのくらいのしも たじひのまひと
で 合ってるかな? 古代和訓は難しい
多治比 真人三宅麻呂は東山道巡察使にもなっているので東国に縁深い
符は太政官符であるので
太政官二品穂積親王はそのままでいいとして
石上 麻呂は左太臣正二位石上尊と 藤原 不比等は右太臣正二位藤原尊と
二人に「みこと」の尊号をつけて神様扱いしているのも興味深い
弁官符
上野国 片野郡 緑野郡 甘良郡并三郡内三百戸郡成
給羊 成多胡郡 和銅四年三月九日甲寅
宣 左中弁正五位下多治比真人
宣 左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王
左太臣正二位石上尊
右太臣正二位藤原尊
662年 大倭に人質として居た百済王子「扶余豊」を王位につかせたが
663年 百済王豊璋は鬼室福信と不仲になり彼を殺害 百済は更に弱体化
白村江で大倭・百済軍は大敗し 百済は滅亡
大倭軍は残兵と共に 百済人数千人を引き連れて帰還した
666年
五年春正月戊辰朔戊寅、高麗遣前部能婁等進調。是日、耽羅遣王子姑如等貢獻。三月、皇太子親往於佐伯子麻呂連家、問其所患、慨歎元從之功。夏六月乙未朔戊戌、高麗前部能婁等罷歸。秋七月、大水。是秋、復租調。冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄ス等進調。大使臣乙相奄ス・副使達相遁・二位玄武若光等。是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。
高麗遣使と共に
百済に属していた耽羅(済州島)の王子(せしむ)「姑如」(こにょ)等も大倭朝廷に貢獻してるようだ
この冬10月の高麗使者の一員である若光は
続日本記に「大宝3年(703年)従五位下高麗若光に王姓を賜う」とある
日高市の高麗王若光と同じ人物だろうか?
帰化した百済人達には 高位高官も多く
僧侶 尼 医者 築城技術者
紙漉きや金工や建築土木などの多種多様な技術者も沢山含まれていた
さて 東の国に植民された この羊氏一族だが
古来から
中国大陸からの亡命民は 所謂渡来民だが
列島の大倭(ヤマト)でもそうであるが
朝鮮半島の高句麗や百済や新羅政権のもとで仕えた人々は多い
勿論 名もなく埋もれていった人々もいるが
高位高官 豪族 大商人 知識人になった人々も沢山いる
この羊氏は漢人とは呼べない 漢以前から大陸に居るからだ
中国大陸は当時から雑多な民族集団であった
中国大陸由来の人々の総称である支那人を使えば
おおまかに支那系百済人であったようだ
高麗郡は高句麗人への割当植民地域 新座郡は新羅人への割当植民地域であるように
多胡郡と名付けられたのは
多分 羊一族はソグド的な胡人の特徴を備えた人々だったのだろうか
羊氏の由来を調べてみる
元々は羊舌氏で
春秋末 趙・魏・韓によって晋国が滅び 国外へ逃げた人々が羊氏を名乗ったと言う
周官羊人之後 以官為氏
周代有官職為羊人 其子孫以官職為姓 遂為羊氏。
出自姬姓 春秋時 晉武公的兒子公子伯僑有孫子名突
晉獻公時封為羊舌大夫 子孫稱羊舌氏
羊舌突有五個兒子 其中大兒子羊舌赤 字伯華
二兒子羊舌肸 字叔向 都是晉國賢臣
春秋後期 羊舌氏被其他晉卿攻滅 有子孫逃在國外 改姓羊 稱羊氏
歷史上 南方零陵族也有羊姓 為羊姓的一支 為姞氏所改
武蔵の国に土地を与えられ苦労して土地を開拓したのだろう
45年後
異国の地で 努力の甲斐があって はれて朝廷から多胡郡の大領に任命された
彼らの嬉しさが伝わる
一族の名誉なのでこの様な石碑に記録したのだろう
当時の一戸は 今の家族と違って正丁兵士一人を出せる集団が一戸
大倭政権にとって 各郡での戸数を把握できれば 徴発出来る兵士が簡単に計算できる
一戸は20人から25人程だから 一族は6,000人以上に増えていたようだ
羊氏一族が 石碑を刻んでくれたおかげで
我々は群馬の歴史の一部を垣間見る事が出来る
今日の集計
GWで 皆 外出行楽を楽しんでいるようだ
反動が出ないといいな
韓国は3人に一人が感染者らしい
家族に必ず一人は感染者がいる事になる
相変わらず韓国政府は回復した人の統計すら取れない状態にある
検査だけして 後は放置無対策 これが集団免疫に繋がるのだろうか?
国民を使った壮大な人体実験だな 興味深い