畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

呉の旅(2日目)④仁方

2018年04月06日 | べんちゃん
安浦を出て仁方に到着。
小学校、JR呉線の南から山側に向かって。


本家の本家で聞いた話。
本家の本家を通称Dというのだが、Dに嫁いでいるT子さんは、実家のH家だ。
戦時中の一時期、H家は呉にいた。
住所は仁方4区(?)で、小学校の南側あたり、川が流れていたということだ。
空襲の時に隠れた小さな橋を覚えている。
お父さんは大工の棟梁で、こちらから連れて行った20人、呉の10人ほどの大工を使っていた。
海軍施設(倉庫、宿舎と記憶している)を請けていた。
あることで憲兵と大喧嘩になったが和解してからはたいへん親しい間柄になった。
その憲兵が、これから呉が危なくなるから郷里で仕事をするように勧めてくれたという。
19年後半から20年の年明以後のことだろう。
それで戦災を免れたのだそうだ。

この仁方の家に父が何度も来たという。
T子さんがたしか6つ7つの頃だが、朝来て夕方に帰ったことも、泊まって帰ったこともある。
「おにいちゃん、おにいちゃん」とまとわりついて遊んでもらったということだ。
よく乾いた洗濯物を持って帰ったのも覚えている。


この話の時期が判明した。
父は昭和19年5月25日から大竹海兵団、9月10日から11月5日まで安浦海兵団に所属した。
呉線でいうと安浦と仁方は間二駅しかない。
一等兵となって外泊が許されるようになったこの時期に違いない。
大竹海兵団は遠いし、それ以前に外出など許されない。
11月6日以降は日向に乗っている。

呉に戻り、旧練兵場、呉海兵団跡あたりを散策。

19歳の父に会ったような気分が今もわたしの中に生まれてそしてまだ残っている。
これはこの旅の大きな発見だった。

wikiに1945年の米軍の地図があった。
埋め立てが進んだ現在と様変わりしていた。
それと駅舎の写真があったが立ち寄れなかった。
もう機会はないだろうが、もしあれば両駅を電車に揺られてみたいものだ。
蔵造の町並みも歩いてみたい。
海辺へ車を走らせてみた。
曇ってはいたが、広や阿賀と違う風景を見ることができたのはよかった。

以下wiki。
仁方(にがた)は、広島県呉市に位置する地区。新潟村・仁賀田村と呼ばれた時期があり、潟の字から湿地帯であったと考えられる。白と黒のコントラストが交叉する海鼠壁(なまこかべ)を用いた蔵作りの町並みが残る。また、瀬戸内海に近接しているため釣り人が多い。地場産業は鑢(仁方やすり)の生産であり、メーカーの集まる「やすり団地」は、やすり全国シェア95%の大産地である。

呉の旅(2日目)③ 南薫造記念館

2018年04月02日 | べんちゃん
安浦歴史民俗資料館・南薫造記念館に足を運ぶ。
「この世界の片隅に」のすずのような学芸員がいて和まされた。

資料展示室の撮影はお許しあり(絵画展示室は不可)。
南薫造居宅の設備など、当時のものを展示してあった。


別室の民具など。


A3大の絵が資料室土間に掲示、安浦の町並み、祭りと港。
タッチがどことなく薫造に似ている。
描きたいものを描くと良い絵が描ける、という実感、これってとても大切なことだと思う。
言葉で表現できないものを絵にして色彩をつける。
やってみたいなと思った。




これはイラストの部類だけれど、昔の農村風景を今の子どもたちによく伝えている、という意味で秀作。


居宅が民俗資料館になっているのだが、薫造の画業も併せて展示している。
今でいう絵手紙、画家の筆の確かさ。


戦前の表彰状や委嘱状。
こういった資料展示も、時代がわかって良いことだ。
戦時中に祖父が炭焼きでもらった表彰状があるけれど、戦前、戦中に生きた人にしかわからない感慨があるものだ。
今の人がどう評価するか、あるいは未来の人がどう評価するかに委ねていて、ていねいな展示だと思う。


アトリエ。
採光に注意したという。
学芸員さん曰く、
「薫造先生は風景画にも人物を書き込むことがよくあった、すべて完了したらサインを入れた、サインが入っていないのは未完成かも」と。
昭和21年、戦後間もなくの風の強い浜を歩いて上がってくる人物の絵、夜明けの太陽、満月などの作品が印象に残った。


薫造の画業は安浦の自然風土から生まれているのだと実感。
安浦には前日の大竹と違って戦前から戦後まもなくの昭和が残っていた。
胸打たれるものあり。