畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

質疑応答(2)

2011年09月09日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
問い
親鸞聖人はが法然上人を「よき人」として仰がれた。信心の目が開けるのには、よき人に会わなければならない。なかなか身辺によき人が見つからないのですが‥。
答え
親鸞聖人は、叡山では念仏の教えは学びましたが、生きた念仏、つまり念仏を生きている人に出会うことができなかった。それが法然上人に会うて、ここに生きた念仏があると教えられた。念仏というのは、これはキリスト教の「証し」と同じようなものだと存じます。念仏を証明する人、そういう人に出会うたので、よき人と言われたんだと思います。
しかし、そういう特定な人でなくてもよき人はございます。たとえば先ほど申したようにコップひとつ見ても、「コップは正直だなあ」というように感ずることができます。

丸山薫さんの「犬」という詩にもそのことが書かれてありました。
また吉川英治さんが好んで色紙に書かれた「自分以外のものはみな師である」と言うのも同じことであります。

先日、滋賀県でお会いした奥さんは、お姑さんがうるさい方でそれで長いこと苦しんでおられた。ところがご自分のことをふりかえってみたら、お姑さんを非難できる自分でないと気づいて楽になったということでした。うぬぼれ、下品下生に気づかせしめるものは仏である、よき人であるといえるのでないでしょうか。

そして、私は、奥さんに「お不動さん」の話を申したのです。お不動さんは、火焔をかついでいる、右手に剣を持っている、左手に網を持っている。火焔は怒っているのです、刀はきつい言葉で突き刺してくるのです。それから家から出て行かせない、つまり網をかけてくるのです。こしらえたお不動さんは拝めるけれども、生きた姑さんのお不動さんはなかなか拝めないものです。この生きているお不動さんを拝めるようになると、天地一切を拝めるようになるのですと。

よき人は、よき人という看板を上げておられない。こちらが、よき人を見つける目を持つかどうか、そういうことだろうと思います。
(米沢英雄『広き門より入れよ』73~77p)

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お不動さんのお話、言葉では簡単ですが、それは果てしなく遠いことです、少なくとも私にはできないですねえ、逃げまわりますよ。
でもこうやってじっくり読んでまとめていくと、仏法のたどりつく先を予想できます。仏法は厳しい世界ですね。

明日は、ちょっと寄り道して、話題になっていた丸山薫の「犬」を読みたいと思います。

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