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4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

歴代誌下18章12節から16節

2016年02月13日 08時43分26秒 | デボーション
ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤに言い含めた。
「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」
ミカヤは、「主は生きておられる。わたしの神が言われる事をわたしは告げる」と言って、王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それともわたしは控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を勝ち取ってください。敵はあなたたちの手に渡されます」と答えた。
そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」

The messenger who had gone to summon Micaiah said to him, “Look, the words of the prophets with one accord are favorable to the king; let your word be like the word of one of them, and speak favorably.” But Micaiah said, “As the Lord lives, whatever my God says, that I will speak.”
When he had come to the king, the king said to him, “Micaiah, shall we go to Ramoth-gilead to battle, or shall I refrain?” He answered, “Go up and triumph; they will be given into your hand.”But the king said to him, “How many times must I make you swear to tell me nothing but the truth in the name of the Lord?”Then Micaiah[a] said, “I saw all Israel scattered on the mountains, like sheep without a shepherd; and the Lord said, ‘These have no master; let each one go home in peace.’”


今日の聖書の箇所ですが、王にとって不幸なことを告げる預言者ミカヤは、呼びに行った使いの者から言い含められます。
この物語を読んでいて頭に浮かんできたのが、放送法第4条に関する最近の総務相の発言です。
政治的に公平であること、という判断を誰がするのかということが問題だと思うのですが、
一政党に属し、所轄の大臣である者がこれを口にした場合、その政党に有利な無言の圧力になります。
表現の自由を脅かすこの総務相の発言に対して私は発言の撤回を求めます。
賛否両論ある中で、放送した時間換算でその比率が厳密にフィフティー・フィフティでなければならないというものでもないでしょう。
むしろ、この総務相の発言によって、政府与党に不都合な情報が隠ぺいされることが心配です。
私も生活の場で、その選択が自分に不幸になると思えるような時でも、生きておらえる主が望まれることに従っていきたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヨシュア記1章17節

2016年02月12日 06時12分19秒 | デボーション
我々はモーセに従ったように、あなたに従います。
どうか、あなたの神、主がモーセと共におられたように、
あなたと共におられますように。

Just as we obeyed Moses in all things, so we will obey you. Only may the Lord your God be with you, as he was with Moses!

モーセが死に、これからヨルダン川を渡ろうとしていこうとしている場面の物語です。
ヨシュア記には聖絶など、現代の人権的な価値観からは容認しがたい記述が含まれています。
その当時では、生きるか死ぬかの選択を迫られていた事情があったのかもしれませんが、
ブルトマン以降の「非神話化」という神学の在り方によって、読み手の方も訓練が求められています。
それでも、神が共におられる、インマヌエル、という考え方は、現代にも聞くべき価値のある言葉だと思います。
困難が予想される不安に襲われるとき、本当にこの道でいいのかと迷うとき、自分の生きている価値観が見いだせないとき。
それでも確かに神は、神に祈り求める者と共におられます。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

イザヤ書57章16節

2016年02月11日 07時33分58秒 | デボーション
わたしは、とこしえに責めるものではない。
永遠に怒りを燃やすものでもない。
霊がわたしの前で弱り果てることがないように
わたしの造った命ある者が。

For I will not continually accuse,
nor will I always be angry;
for then the spirits would grow faint before me,
even the souls that I have made.

神という存在が、聖書で語られる裁きの側面でしか感じられない時、律法が律法主義となっていくのだと思います。
そこには、人間の作った掟にとらわれ、神との交わりを持とうとしない態度が生まれます。
自分が神様からいのちを与えられ、生かされている現実を実感できているなら良いのですが、この世の現実はあまりにも冷酷だと感じるときがあります。
私は昨晩、貧困の問題、教育とりわけ義務教育が終わった後の教育制度の問題、雇用の問題、そして民法第819条の問題について考えました。
「もし」という議論は無意味だという意見もあるかもしれません。
しかし、この社会で、生計を立てる術を剥奪され、レッテルを貼られ、なにもかも奪われることの苦しみに共感できるなら、なぜそういう人たちが薬物中毒や殺人に及ぶのかに目を向けることができるでしょう。
犯罪を犯してしまった彼らを、同じ尊厳ある人間として見るとき、社会制度として変えていかなくてはならないことがあることに気づかされます。
子どもの貧困対策の予算を増やすことや、高校教育の所得制限なき無償化と授業料以外の諸費用の保護者負担軽減、生計が成り立たない非正規労働者を増やさないための自律的労使関係による労働法の整備、親が離婚してもその子どもが両方の親の愛情を直接受けて成長できるための法改正と親教育プログラムなどの社会的支援システムなどです。
昨日の国会予算委員会の中でのやり取りでも、今日一日の生計をどう立てるか喫緊に支援を必要としている児童扶養手当の受給者よりも、支給回数が増えることによって市町村職員の支給事務の多忙化の事情を優先してしまう、この冷淡さに問題があると私は考えます。
神が私たちを愛されていることを感じるならば、人間が人間を支配するのではなく、人間が人間に配慮していくことが期待されているのではないでしょうか?
ところで、今日は「信教の自由を守る日」でもあります。2月11日は国民の祝日に関する法律の条文に明記された国民の祝日ではなく、政令で定めることとされている国民の祝日です。少なくとも現時点では。
神話に由来する紀元節による建国という説を受け入れるということは、一方で敗戦後、「日本国」として新しく生まれ変わったという事実を無視することにもつながります。日本国憲法という法治ではなく、神話によって治められる国になることを私は危惧しています。
戦前、日本基督教団の富田満らによって行われた伊勢神宮参拝や各地で行われた宮城遥拝などの行為は、信教の自由を手放す行為として問題視しなければならないと思っています。しかも、そのことに対する日本基督教団からの正式な反省の宣言なり声明はいまだに出されていません。
戦時中、この偶像崇拝を拒否したがために奪われたいのちがあることを思う時、二度と信教の自由を手放してはならないと思うのです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

エフェソの信徒への手紙2章14節から16節

2016年02月10日 06時22分42秒 | デボーション
実にキリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
For he is our peace; in his flesh he has made both groups into one and has broken down the dividing wall, that is, the hostility between us. He has abolished the law with its commandments and ordinances, that he might create in himself one new humanity in place of the two, thus making peace, and might reconcile both groups to God in one body through the cross, thus putting to death that hostility through it.

今日から2016年のレントに入りました。今日はいわゆる「灰の水曜日」ですね。
今日からまたイースターまで、御言葉にそって思いを書き綴っていきたいと思います。

さて、今日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙2章14節から16節です。
高等批評によれば「エフェソの信徒への手紙」はパウロ第二書簡、または偽パウロ書簡として位置付けられているもので、実際にパウロが書いたというよりは、その支持者たちがパウロの権威を使って書いたものという説が有力です。
ところで、今日の聖書の箇所では「敵意」ということがテーマになっています。
当時のラビ的ユダヤ教、ユダイスト、ヘレニスト、その他様々なセクト抗争があった中で、敵意を滅ぼすことの重要性が語られていたのだとすれば、十分に今日にも聞くに値する言葉です。
イエスが律法主義を批判したからといって、規則と戒律づくめの律法を廃棄された、と律法そのものの廃棄の宣言を断定するのはどうかとは思いますが、「双方」「両者」というのは何を指しているのか、異邦人とキリストに近い者なのか、あるいはユダイストとヘレニストなのか、私は断定できません。
ただ、今日的な課題にこの御言葉を生かすのだとすれば、何に目を向けるべきでしょうか?
ある方々は、意外と教会の中にある敵意というものに目を向けるかもしれません。
ただ私は、社会のことに目を向けます。
昨年の初夏のあたりから問題になってきた、当時の安保法案、いわゆる戦争法案に対する働きかけについて今も思いをはせています。
私は、イエスが律法そのものを全否定されたものではなく、神の慈しみと忠実さとの応答の中に生きるということが律法のもつ側面であるとも考えています。例えばいわゆる十戒の「殺してはならない」という命令形の言葉が、「あなたは人を殺さないであろう」という未来形の言葉であったとするなら、神様から人を殺さないことを、神は人間に期待されているのだと受け取れます。
人を殺すことは一般的には犯罪です。しかし、死刑制度そして戦争や武力行使で人を殺すことが人間の都合によって合法化され、例外を作ることはイエスの求めた厳しい倫理観とは相いれないものです。
昨年の戦争法案の審議の過程で、11本の法案のうち、米軍等行動関連措置法案について、首相や防衛相は自衛隊員の安全確保が担保されていると明言しましたが、法案のどこを読んでも担保されていない、この矛盾を野党側は追求しましたが、答えになっていません。
こうした肩透かしをする首相に対し、「やめろ」とか「バカの壁」とかいう反対の声を聞くたび、私はずっと心を痛めていました。
例え、首相が敵であっても、否、敵であるがゆえにこそ、迫害する者の「人格」に対して否定的な価値判断をしてはならないと考えるからです。「人格」ではなく問題となっている「考え方」に対して反対の声をあげていくべきなのです。
「誰が悪いのか」を論じても問題は解決しません。「何が問題なのか」そこに焦点を当てて論議がなされるように、繰り返し繰り返し声をあげていくべきなのだと思います。それが今日の「敵意を滅ぼす」ということなのだと私は思います。
「人が人を殺す」「人が人に殺される」このことに例外はあってはならないし、これからも私は戦争と差別に反対し続けます。

イエスは私たちの希望です。今日も頑張りましょう!

歴代誌下 10章6節から7節

2015年04月05日 06時50分07秒 | デボーション
レハブアム王は、存命中の父ソロモンに仕えていた長老たちに相談した。「この民にどう答えたらよいと思うか。」
彼らは答えた。「もしあなたがこの民に優しい態度を示し、好意を示し、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」
Then King Rehoboam took counsel with the older men who had attended his father Solomon while he was still alive, saying, “How do you advise me to answer this people?”
They answered him, “If you will be kind to this people and please them, and speak good words to them, then they will be your servants forever.”
[2 Chronicles 10:6-7]

レハブアム王は、長老たちの進言を聞くどころか、かえって思い荷役を民に課そうとします。
それゆえに、レハブアム王は民から見放されてしまいます。
もし、現政権の官房長官が沖縄の民と生き物と自然に対しに優しい態度を示し、好意を示し、優しい言葉をかけるなら、と願わずにはいられません。
しかし、これまでの言動を見る限り「粛々と」という言葉を連発するだけのスピーカーと化してしまっている現状では、民の支持は到底得られないでしょう。
軍事力や経済対策をもっても人々の心は変えることはできない、そのことをイエス様はご自分の生き方をもって示してくださいました。
それゆえに、十字架にかかり、神から離れて死なれました。
そして、神はイエス様を復活させられ、どんな状況でも失望せずに祈ることの大切さを教えてくださいました。
今日はイースターですね。
いつでも、どこでも、イエス様の教えてくださった神の忠実さがあるように、これからも祈っていきましょう。
次回の投稿は、来年のレントからになりますが、皆さんの心の中に、神に忠実さがあるようお祈りします。
イエス様に希望があります。今日も頑張りましょう!

使徒言行録 11章25節から30節

2015年04月04日 05時48分04秒 | デボーション
それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。
その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。
そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。
そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。
Then Barnabas went to Tarsus to look for Saul, and when he had found him, he brought him to Antioch.
So it was that for an entire year they met with the church and taught a great many people, and it was in Antioch that the disciples were first called “Christians.”
At that time prophets came down from Jerusalem to Antioch.
One of them named Agabus stood up and predicted by the Spirit that there would be a severe famine over all the world; and this took place during the reign of Claudius.
The disciples determined that according to their ability, each would send relief to the believers living in Judea; this they did, sending it to the elders by Barnabas and Saul.

アンティオキアのキリスト者たちは、それぞれの力に応じてユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決め、実行しバルナバとサウロに託して届けたのです。
私たちもこうありたいと思いますが、世界中の戦闘地域や干ばつ地帯でで苦しんでいる人たちのこともそうですが、国内で福島第一の被害で避難してきている人たちの生活を思いやることが必要であると思います。
特に、子どもたちは避難先の学校や地域で、文化との違いに溶け込めないことが多くあります。
そのために、危険を承知で戻ってきてしまうケースが報告されています。
援助をすることの難しさ、課題を浮き彫りにしながらも、福島の避難民と共にあるために私たちができることを示してください。
イエス様に希望があります。今日も頑張りましょう!

ユダの手紙 9節

2015年04月03日 06時44分16秒 | デボーション
大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
But when the archangel Michael contended with the devil and disputed about the body of Moses, he did not dare to bring a condemnation of slander against him, but said, “The Lord rebuke you!”

相手と言い争っているとき、私たちの心の中にある言葉は、裁きに満ちているでしょうか。
たとえそうであっても、裁きは主に委ね、ののしることを私から遠ざけてください。
イエス様に希望があります。今日も頑張りましょう!

フィレモンへの手紙 1章12節から17節

2015年04月02日 06時38分09秒 | デボーション
わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。
本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。
恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。
I am sending him, that is, my own heart, back to you.
I wanted to keep him with me, so that he might be of service to me in your place during my imprisonment for the gospel;but I preferred to do nothing without your consent, in order that your good deed might be voluntary and not something forced.
Perhaps this is the reason he was separated from you for a while, so that you might have him back forever,no longer as a slave but more than a slave, a beloved brother—especially to me but how much more to you, both in the flesh and in the Lord.
So if you consider me your partner, welcome him as you would welcome me.

パウロは、信仰と友であるフィレモンの元から逃げ出した奴隷オネシモがイエス様の名のゆえに福音を信じるものとされ、主人フィレモンの元へ帰るときにこの手紙を書いたといわれています。
当時、奴隷が逃げ出すことは許されないことだったでしょうし、パウロ自身は規範に厳しい人であったと思います。
しかし、パウロは許しとチャンスを与える神様の忠実さを体得していたのでしょう。
私も失敗した人を赦し、チャンスを与え、奴隷としてではなく同じ人間として迎え入れる心を与えてください。
イエス様に希望があります。今日も頑張りましょう!

イザヤ書 58章6節から7節

2015年04月01日 06時32分16秒 | デボーション
わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
Is not this the fast that I choose:
to loose the bonds of injustice,
to undo the thongs of the yoke,
to let the oppressed go free,
and to break every yoke?
Is it not to share your bread with the hungry,
and bring the homeless poor into your house;
when you see the naked, to cover them,
and not to hide yourself from your own kin?
[Isaiah 58:6-7]

イザヤは、神様が喜ばれる断食とは、「葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけ」ではないといいます。
悪しき慣習からの解放ということがまずテーマとなっています。
そして社会的弱者のためにアクションを起こすこと。
それらが一体的に語られています。
イエス様の時代、社会的に「罪人」とされた人々が多くあり、イエス様はそれらの人々の罪を赦し、病を癒されました。
聖書で罪という時に、律法の規定によるこの社会的「罪」ということが問題になっていますが、ハンセン病に対するこれまでの差別感にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。
私たちにできることを示してください。
イエス様に希望があります。今日も頑張りましょう!

ルカによる福音書 6章34節から36節

2015年03月31日 05時53分07秒 | デボーション
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
If you lend to those from whom you hope to receive, what credit is that to you? Even sinners lend to sinners, to receive as much again.
But love your enemies, do good, and lend, expecting nothing in return. Your reward will be great, and you will be children of the Most High; for he is kind to the ungrateful and the wicked.
Be merciful, just as your Father is merciful.
[Luke 6:34-36]

ここでも愛敵というテーマがイエス様の言葉で語られています。
返してもらうことを当てにせず貸す、ということは私にとってどういう意味があるのか考えてみました。
私はお金持ちではないから、現実のお金を貸してあげられる余裕はありません。
奪われるだけ奪われた挙句に現在の私があるのだから、奪った相手を赦すということになるのかもしれません。
残念ながら、その相手とはまだ和解できておらず、私の心の内に「謝ってほしい」という気持ちが先立つ限り、私の方から和解を切り出すのも心の中を偽るような気がして、また、次の言葉が出てこないこともあり、実行できていません。
私にとって大切な存在を奪取した相手、その相手だけでなく、その背後にある偽善者たる利権集団をも憎んでいるからです。
しかし、ここでイエス様は「神は恩を知らない悪人にも情け深い」と語っています。
私のうちに神の憐れみ深さがあるようにお願いします。
イエス様に希望があります。今日も頑張りましょう!