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4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

出エジプト記23章1節から8節

2016年02月23日 05時57分53秒 | デボーション
あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。
あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。
もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。
偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。
あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

You shall not spread a false report. You shall not join hands with the wicked to act as a malicious witness.
You shall not follow a majority in wrongdoing; when you bear witness in a lawsuit, you shall not side with the majority so as to pervert justice;
nor shall you be partial to the poor in a lawsuit.
When you come upon your enemy’s ox or donkey going astray, you shall bring it back.
When you see the donkey of one who hates you lying under its burden and you would hold back from setting it free, you must help to set it free.
You shall not pervert the justice due to your poor in their lawsuits.
Keep far from a false charge, and do not kill the innocent and those in the right, for I will not acquit the guilty.
You shall take no bribe, for a bribe blinds the officials, and subverts the cause of those who are in the right.

いつの時代も争いというのは絶えないもので、裁判というのは「有形力を使っての争いはやめましょう」という程度のことなのだと私は思っています。映画の中の裁判シーンも、現実の法廷でも、裁判官や代理人の質の悪さはひどいのに、実質的にこれを止める術が国民審査しかないというのは問題だと思います。
マスコミやSNSを使っての情報操作、憲法に沿った形での公平な司法判断をしない裁判官、訴訟物の事実判断を吟味するのではなく、「市民的感覚」を持っているとされる裁判員の多数決による裁判員制度、どれをとっても、公正な判断からは程遠いものと思います。
そして政治家の政治資金にかかわる問題は、いま国会でも取り上げられていますが、この聖句にある通りだと思います。
とりわけ首相と会食した大手の新聞社の者たちは、新聞の情報の信頼性を損なわないために今すぐその新聞社をやめるべきだと思うし、放送法第4条に言及した一政治家である総務相は辞職すべきだと思います。一政党に属する者が、公平な判断に関わってはならないと思うのです。
さらに言えば、冤罪の問題もあります。今なお囚われている死刑囚をはじめとして、痴漢冤罪、DV冤罪などいろいろありますが、補助金をもらうために事実を隠蔽してでっち上げのDVにより被害者とされる人を匿う支援者が、キリスト教関係団体にもいることは悲しいことです。自分たちの生計のために補助金をもらうためなら事実をごまかしてもいいのでしょうか?今からでも襟を正し、神の前に真実に生きる、神の忠実さがあるように祈ります。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

エレミヤ書7章30節から31節

2016年02月22日 06時17分46秒 | デボーション
まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。
彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。

For the people of Judah have done evil in my sight, says the Lord; they have set their abominations in the house that is called by my name, defiling it.
And they go on building the high place of Topheth, which is in the valley of the son of Hinnom, to burn their sons and their daughters in the fire—which I did not command, nor did it come into my mind.

この人身御供の伝説は本当にあったようで、ベンヒムの谷だけではなく、人間の子どもを生贄にするという言い伝えは世界中にあるようです。
もっとも根本的な問いは、神は供え物を求めておられるのだろうか?あるいは、神とつながるのに祭壇が必要なのだろうか?ということです。現代に生きる私たちにとって。
神が期待されているのは、「あなたは殺さないであろう You shall not murder」〈Deuteronomy 5:17〉ということです。この神の言葉からすれば、たとえどんな言い訳を考えようと、例外なく人間が人間のいのちを奪うことはあってはならない、と私は考えます。
私は律法主義に生きるものではありませんが、律法そのものを全否定しているわけではありません。心を尽くして主なる神を礼拝することと、隣人を分け隔てなく愛すること、この2つは今でも有効だと思っています。
ですから、人間が人間のいのちを奪う全てのことに私は反対します。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

創世記26章22節から32節

2016年02月21日 08時00分47秒 | デボーション
その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

So the men turned from there, and went toward Sodom, while Abraham remained standing before the Lord. Then Abraham came near and said, “Will you indeed sweep away the righteous with the wicked? Suppose there are fifty righteous within the city; will you then sweep away the place and not forgive it for the fifty righteous who are in it? Far be it from you to do such a thing, to slay the righteous with the wicked, so that the righteous fare as the wicked! Far be that from you! Shall not the Judge of all the earth do what is just?”And the Lord said, “If I find at Sodom fifty righteous in the city, I will forgive the whole place for their sake.”Abraham answered, “Let me take it upon myself to speak to the Lord, I who am but dust and ashes. Suppose five of the fifty righteous are lacking? Will you destroy the whole city for lack of five?” And he said, “I will not destroy it if I find forty-five there.” Again he spoke to him, “Suppose forty are found there.” He answered, “For the sake of forty I will not do it.”Then he said, “Oh do not let the Lord be angry if I speak. Suppose thirty are found there.” He answered, “I will not do it, if I find thirty there.”He said, “Let me take it upon myself to speak to the Lord. Suppose twenty are found there.” He answered, “For the sake of twenty I will not destroy it.”Then he said, “Oh do not let the Lord be angry if I speak just once more. Suppose ten are found there.” He answered, “For the sake of ten I will not destroy it.”

創世記は神話でありながら、考古学的には実際に起こったであろう天変地異についての示唆を含んでいるという学説があります。
ソドムとゴモラの地理的位置については学術的に詳細な場所までは特定されていませんが、隕石あるいは小惑星の衝突による影響らしい、という説なのです。
そう考えると小惑星の衝突から今日も逃れて、神に生かされているこのいのちがあることに感謝したいと思います。
ここでは「滅ぼす神」ということが背景になっていますが、結論から言うと正しい者は一人もいなかった、ということになります。
「義とされる者」と「義とされない者」この分け隔てが、イエスの生きた時代にも社会的差別へとつながっていくのです。
しかし、ここで注目するべきなのは、アブラハムの神への執り成しです。
「正しくない者」「義とされない者」のいのちのために執り成す、このことは、争いの時代に生きる現代の私たちが祈るべき課題の一つといえます。
言いかえれば、神とのつながりの中に生きようとする、そのひたむきさが重要なのであって、今日はそれを学びつつ祈りたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ルカによる福音書6章27節から28節

2016年02月20日 07時07分41秒 | デボーション
しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

But I say to you that listen, Love your enemies, do good to those who hate you, bless those who curse you, pray for those who abuse you.

この聖句は、私にとっては毎日自分に問いかけているもので、どうしても心の底から赦せない人をどうしたら赦せるのか、神に問いかけながら和解できるように祈っています。
プライベートな課題だけでなく、政治家の方たちや武器商人に対しても祈っています。とりわけ、与党のキリスト者である議員に対しては神がその方の良心が生かされるよう祈っています。
ふと、ここで気付くのは祈ることだけではなく。親切にするということが求められています。
そこの部分ができていないことを反省しつつ、祈り求めていきたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙一14章10節から12節

2016年02月19日 06時23分13秒 | デボーション
世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。

There are doubtless many different kinds of sounds in the world, and nothing is without sound. If then I do not know the meaning of a sound, I will be a foreigner to the speaker and the speaker a foreigner to me. So with yourselves; since you are eager for spiritual gifts, strive to excel in them for building up the church.

聖書の言葉といっても、そこに書かれているのは、ある部分では聖絶といった虐殺の神話であったり、不平等な倫理観を強要する教えだったりするわけです。それを書かれた背景を理解することなしに現代の価値観を無視して語ることは、教会で語られる御言葉が聴いている者たちに誤ったメッセージを伝える可能性があります。
このコリントの信徒への手紙一は、パウロの置かれていた状況、すなわち当時のユダヤ教の壮絶なセクト抗争を理解しなければなりませんし、その抗争の結果、ユダヤ人税などのローマの圧政の影響からユダヤ教から袂を分かつ必要があったことなどを理解することです。
ブルトマン以降の神学ではもちろん非神話化ということが常識になってきてはいますが、一方で原理主義的に語る人たちがいることも事実です。
では、非神話化された言葉が、聞く万人にとってどう聴かれるのか、そこが重要だと思います。
今日はあえて教会という小さな世界の中の課題を取り上げますが、どこの教会でも少なからず世代間のギャップ、特に年金世代と現役世代のギャップというものがあるはずです。
しかし、このことだけはどの世代にも共有なはずです。
神がわたしたち一人一人を生かしているということです。
教会の中こそ、疎外感を感じている人は意外と多いのかもしれません。それは人間が人間に配慮するのではなく、人間が人間を支配しようとするとことから生じる者であって、もっとお互いにコミュニケーションをとって互いの立場を理解しあう努力が必要です。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙二1章4節から5節

2016年02月18日 06時29分57秒 | デボーション
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

who consoles us in all our affliction, so that we may be able to console those who are in any affliction with the consolation with which we ourselves are consoled by God.
For just as the sufferings of Christ are abundant for us, so also our consolation is abundant through Christ.

苦しみというものは、できれば避けたい、遠ざけたい、というのが人間の欲求の一つだと思います。
しかし、そこにとどまっているのではなく、苦しみの中にあって神からいただく御言葉一つ一つによって慰められることの経験の場へと身を置くとき、苦しみの意味を理解し、自分の苦しみだけでなく苦難の中にあるひとを慰められるようになれるのだと思います。
私にとって、今の苦しみの一つは、実はその苦難から言い訳を考えて去っていく人たちの存在なのです。そうやって去っていく人がいることによって私に与えられた重責が輪番で回ることなく固定化されてしまう、そんな危機感を私は今抱いています。
ある団体に所属する一人一人のために配慮することが、損な役回りとなってしまっているのです。
そういう人間的な損得勘定(感情)の支配から解放され、なすべきことを神とのつながりの中に生きるものでありたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

歴代誌下26章16節

2016年02月17日 06時29分22秒 | デボーション
ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした。

But when he had become strong he grew proud, to his destruction. For he was false to the Lord his God, and entered the temple of the Lord to make offering on the altar of incense.

歴代誌下においてウジヤ王は、16歳で王となり、52年間王であったことが知られています。
その治世のうち、神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、ウジヤ王も主を求めるように努めたし、ウジヤ王が主を求めている間は神はウジヤ王を繁栄させられた、と記されています。
ところが神を畏れ敬うことを忘れるということがこの16節が起点となりウジヤ王は変わるのです。
結果、ウジヤ王は重い皮膚病に死ぬまで苦しむことになるのですが、因果応報的な考え方は別として、客観的に見れば、王という存在は神の絶対性からみれば、相対的なものに過ぎない存在であるということです。
それは私も同じです。
物事がトントン拍子にいき、富がはびこるとき、どうしたら神を畏れ敬うことを忘れないようにできるでしょうか。
もし、せめて1日のうち1時間でも、光や音の刺激を遮断することができ、神に祈り、御言葉に触れる時間が確保できるなら、自分が何者なのかを思い起こす機会ぐらいは与えられるでしょう。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

テモテへの手紙一5章3節から8節

2016年02月16日 06時27分07秒 | デボーション
身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。
やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。
身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。
やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。
自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。

Honor widows who are really widows.
If a widow has children or grandchildren, they should first learn their religious duty to their own family and make some repayment to their parents; for this is pleasing in God’s sight.
The real widow, left alone, has set her hope on God and continues in supplications and prayers night and day; but the widow who lives for pleasure is dead even while she lives. Give these commands as well, so that they may be above reproach.
And whoever does not provide for relatives, and especially for family members, has denied the faith and is worse than an unbeliever.

死別によって片親になった父子あるいは母子の児童扶養手当の増額や支給回数について論議が始まっていますが、改正案についても不十分であると私は思っています。
この国もベーシックインカムというものを真剣に考えなければならないときに来ていると思います。
死別家庭と同時に離別家庭も同時に考えなければならないと思います。
この国は民法第819条で単独親権制度が採用されています。しかし、親権の喪失で親族であることまでが喪失するわけではありません。
子どもたちが離れて暮らすもう一人の親とアクセスでき、養育費だけでなくその親の愛情を受ける権利はどうなったのでしょうか。
改正民法第766条で、離婚届に養育費と面会交流の取り決めをする欄ができていますが、さまざまな断片的な統計を見ますとあまり活用されていない感があります。
自分の親族を世話するということは、何も生活費を渡せばそれで世話をしたことになるわけではありません。
離れて暮らす親と子が、神がなさったように、互いに愛し合う関係へと導かれるべきです。
この点につき、同居者側の代理人や司法関係者は、意図的に高葛藤・婚姻関係の破綻状態を作出し、この尊い愛を阻害し続けていると思います。
死別した親、離れて暮らす親が、その子どもたちに世話ができるように、社会的給付のシステムを改め、また代理人や司法関係者の不当な扱いがなくなるように働きかけていきたいとおもいます。それが神の御旨にかなうことなのです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙二9章6節から7節

2016年02月15日 06時38分00秒 | デボーション
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

The point is this: the one who sows sparingly will also reap sparingly, and the one who sows bountifully will also reap bountifully. Each of you must give as you have made up your mind, not reluctantly or under compulsion, for God loves a cheerful giver.

パウロは何と戦っていたのでしょうか?
惜しんでわずかしか種を蒔かないということは、どういうことなのでしょうか?
単純に教会の中の献金や奉仕のこととは置き換えるつもりはありません。
自己肯定感が低くされているものは、自分には種という賜物がないか、蒔いても無駄と思いこんでいる場合があります。
今の私にもそういう部分があると思います。
子どもの頃、親兄弟から何度もダメ出しの言葉を反復されて、自分には大勢の人前で話すことはできないものと思わされてきました。
その責任のすべてを家族のせいにするつもりはありません。
しかし、自分という存在が神から愛されている存在であり、なにも卑下することはないんだと気付いてから、私は教会の中だけでなく、大勢の人前で原稿もなしに自分の言葉で話すことができるようになってきています。
この聖句をとらえなおせば、神は人を愛してくださるので、その人は喜んで与えることができるのです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ローマの信徒への手紙12章15節

2016年02月14日 07時25分14秒 | デボーション
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

Rejoice with those who rejoice, weep with those who weep.

本当にそうありたいと思います。
シリア難民や不衛生な水のために命を落とす人たちのことも考えなければならないのはわかっていますが、
今、自分が生活をしている、今、ここで、目の前にいる人の喜びを知り、共感し素直に喜べる者でもありたいと思います。
そうできていない自分がいることは自覚しています。
しかし、自分の力に頼るのでなく、主に祈り、依り頼みたいと思っています。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!