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4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

使徒言行録8章9節から25節

2016年03月04日 06時07分36秒 | デボーション
ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。

Now a certain man named Simon had previously practiced magic in the city and amazed the people of Samaria, saying that he was someone great.
All of them, from the least to the greatest, listened to him eagerly, saying, “This man is the power of God that is called Great.”
And they listened eagerly to him because for a long time he had amazed them with his magic.
But when they believed Philip, who was proclaiming the good news about the kingdom of God and the name of Jesus Christ, they were baptized, both men and women.
Even Simon himself believed. After being baptized, he stayed constantly with Philip and was amazed when he saw the signs and great miracles that took place.
Now when the apostles at Jerusalem heard that Samaria had accepted the word of God, they sent Peter and John to them.
The two went down and prayed for them that they might receive the Holy Spirit
(for as yet the Spirit had not come upon any of them; they had only been baptized in the name of the Lord Jesus).
Then Peter and John laid their hands on them, and they received the Holy Spirit.
Now when Simon saw that the Spirit was given through the laying on of the apostles’ hands, he offered them money, saying, “Give me also this power so that anyone on whom I lay my hands may receive the Holy Spirit.”
But Peter said to him, “May your silver perish with you, because you thought you could obtain God’s gift with money! You have no part or share in this, for your heart is not right before God. Repent therefore of this wickedness of yours, and pray to the Lord that, if possible, the intent of your heart may be forgiven you. For I see that you are in the gall of bitterness and the chains of wickedness.”
Simon answered, “Pray for me to the Lord, that nothing of what you have said may happen to me.”
Now after Peter and John had testified and spoken the word of the Lord, they returned to Jerusalem, proclaiming the good news to many villages of the Samaritans.

元魔術師のシモンは自分の富で、いわゆる按手礼のような能力を手に入れようとしました。
神の力が働くのは、金によってではなく、私たちの心が神の前に正しいかどうかということなのです。
ここでシモンのように。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」と謙虚な心になれるかどうか、問われているのは、実に私たち自身です。
私も自分のことについて、至らない点を悔い改め、赦しを祈りたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヤコブの手紙5章15節から16章

2016年03月03日 05時39分19秒 | デボーション
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

The prayer of faith will save the sick, and the Lord will raise them up; and anyone who has committed sins will be forgiven.
Therefore confess your sins to one another, and pray for one another, so that you may be healed. The prayer of the righteous is powerful and effective.

私たちが「罪」というとき、それはどのような罪でしょうか?
刑法でいうところの罪。
律法でいうところの罪。
それとも良心の呵責といったところでしょうか?
私は、神と人間、あるいは人間と人間、そういったあらゆる関係性を否定するものを罪と考えています。
私自身、そう考えると多忙な中で互いに互いの立場を理解しえなかった関係が多くあったことを後悔しています。
今日はそのことを祈りたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙二1章23節から24節

2016年03月02日 05時57分10秒 | デボーション
神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

But I call on God as witness against me: it was to spare you that I did not come again to Corinth.
I do not mean to imply that we lord it over your faith; rather, we are workers with you for your joy, because you stand firm in the faith.

私のこれまでのパウロの印象は押しつけがましい道徳観に満ちた人物というものでした。
しかし、読み込みが足りなかったのですね。
ともすれば、教会の中においては人間による人間の支配がおき、教会が裁きの場と化しかねません。
そうではなく、教会に集うすべての一人一人の喜びのために協力し合うものでありたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

歴代誌上25章7節から8節

2016年03月01日 06時55分24秒 | デボーション
主に向かって歌をうたうための訓練を受け、皆が熟練した者であったその兄弟たちも含め、彼らの数は二百八十八人であった。
彼らは年少者も年長者も、熟練した者も初心者も区別なく、くじによって務めの順番を決めた。

They and their kindred, who were trained in singing to the Lord, all of whom were skillful, numbered two hundred eighty-eight.
And they cast lots for their duties, small and great, teacher and pupil alike.

教会の礼拝を形作っていく業の一つに主への讃美歌を歌うということがあります。
そのために特別なチームを編成することもあるでしょうし、教会全体で未受洗者を含めて練習する機会を持つこともあります。
この歴代誌上でその歌を歌う務めの順番を、くじで決めたとあります。
それは、その当時の中では公平に神様のための業に奉仕する手段だったのかもしれません。
私たちも、教会の中の奉仕について、年少者か年長者かの区別なく、公平なあり方を追求していきたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

歴代誌下5章13節

2016年02月29日 06時39分01秒 | デボーション
ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。
そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、
「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、
雲が神殿、主の神殿に満ちた。

It was the duty of the trumpeters and singers to make themselves heard in unison in praise and thanksgiving to the Lord, and when the song was raised, with trumpets and cymbals and other musical instruments, in praise to the Lord,
“For he is good,
for his steadfast love endures forever,”
the house, the house of the Lord, was filled with a cloud,

歴代誌はダビデ王朝を賛美しているわけではなく、やはり主を賛美しているのです。
神の「恵み深さ」「慈しみの永遠さ」これを信じて生きることの大切さは忘れたくないものです。
心から、そう思って、声をだして主を賛美することを、私はこれまであまりしてきませんでした。
これからは、あえて自分の家で、声に出して祈り、また主を賛美しようと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

イザヤ書66章23節

2016年02月28日 06時33分30秒 | デボーション
新月ごと、安息日ごとに
すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと
主は言われる。

From new moon to new moon,
and from sabbath to sabbath,
all flesh shall come to worship before me,
says the Lord.

体調が悪くて、教会の礼拝に出席できないこともあります。
しかし、ここでイザヤ書が求めているのは、神の前にひれ伏すということです。
神はどこにいるか、という論議もありますが、イエスが指摘しているように、私たちの心の中にいるのだと思います。
それと、目に見える教会をどうしていくかということは別の論議になります。
公同の教会では、お互いに支え合うこと、お互いの価値観を認め合うこと、これらを霊的な結びつきによって学び合う場でもあるのだと思います。
価値観がぶつかって難儀しているとき、ひたすら神にひれ伏す、このことに立ち返ることが必要だと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙一9章16節

2016年02月27日 05時59分28秒 | デボーション
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

If I proclaim the gospel, this gives me no ground for boasting, for an obligation is laid on me, and woe to me if I do not proclaim the gospel!

福音とは何か?ということがわからないと、それを伝えたいということにはなりません。
パウロの場合はそれを告げ知らせないと不幸になるからという動機が述べられています。
パウロが置かれていた状況を知るならば、どうしてそういう動機になったのか理解はできるでしょう。
例えば「罪が赦される」ということが善き知らせの内容であるならば、自分に「罪」と呼ばれるものがあるという自覚が必要です。
この手紙が書かれた当時の「罪」という概念が社会的に烙印された罪だったのか、神との関係での罪なのかは識別する必要がありますが、重要なのは、人間と人間の関係においても、神と人間の関係においても、その関係性を壊す営みが「罪」なのだと私は考えます。
他人を疎外しなければ成り立たない関係性、そのしがらみから自由になることが福音なのかもしれません。
その疎外のもっとも顕著なのが戦争だと思います。
だからこそ「愛敵」の必要性があるのです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ローマの信徒への手紙13章8節から10節

2016年02月26日 05時02分30秒 | デボーション
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。
人を愛する者は、律法を全うしているのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

Owe no one anything, except to love one another; for the one who loves another has fulfilled the law.
The commandments, “You shall not commit adultery; You shall not murder; You shall not steal; You shall not covet”; and any other commandment, are summed up in this word, “Love your neighbor as yourself.”
Love does no wrong to a neighbor; therefore, love is the fulfilling of the law.

パウロは一般的に律法主義を否定したとも言われていますが、ここでは「愛は律法を全うする」とそれ自体、全否定はしていません。
人間が人間のいのちを奪うこと、これは一般的に犯罪ですが、死刑制度や戦争は許されるのでしょうか?
特に戦争というのは、相手を殺さなければ自分のいのちが奪われる状況に否応なく立たされます。
同じように、どこどこのテロリストだから殺してよい、戦闘員だから殺してよい、という例外はないのだと思います。
一方で、戦争に反対する側の人たちの一部に、為政者を「バカ」呼ばわりしたり、「精神異常者」呼ばわりする人たちもいます。
イエスは、こうした行為も人を殺すのと同じだ、という厳しい倫理基準を提示しています。
ですから、人間が人間の「いのち」や「人格」を尊重する、このことに例外はないということと、他人の「考え」を批判することとは別であることを、しっかり分別つけて判断したいと思います。
それが隣人を自分のように愛するということなのだと私は考えています。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

マタイによる福音書26章6節から13節

2016年02月25日 06時16分32秒 | デボーション
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

Now while Jesus was at Bethany in the house of Simon the leper, a woman came to him with an alabaster jar of very costly ointment, and she poured it on his head as he sat at the table.
But when the disciples saw it, they were angry and said, “Why this waste? 9 For this ointment could have been sold for a large sum, and the money given to the poor.”
But Jesus, aware of this, said to them, “Why do you trouble the woman? She has performed a good service for me. For you always have the poor with you, but you will not always have me. By pouring this ointment on my body she has prepared me for burial. Truly I tell you, wherever this good news is proclaimed in the whole world, what she has done will be told in remembrance of her.”

弟子たちの「貧しい人々に施すことができたのに」とはまるでラビ的ユダヤ教の考え方に通ずるものがあります。
見かけだけの善行にこだわることは偽善に導かれるのかもしれません。
一方で、イエスは「貧しい人々はあなたがたと一緒にいる」とも語ります。
私たちこそ貧しい人々の苦しみに声を傾け、社会制度に対しても働きかけていくべきだと私は考えます。
ところで、マルコによる福音書の並行箇所では高価な香油とだけでなく「純粋で」という形容詞がついています。
少し本題をはずれますが、調理のためにオリーブオイルを買ってきたのですが、安価なものを選んできて冷蔵庫に入れたら白く濁ってしまったのです。エキストラヴァージンのオリーブオイルの場合はそんなことはなかったのに。
製造工程のことはよくわかりませんが、搾油の過程でノルマルヘキサンなどの物質を使って抽出しているのかもしれません。
この「純粋な」あるいは混じりけのない信頼できる、という言葉は、英語訳で言うところの「Faith」であり、「神の忠実さ」というときの忠実さとも重なります。
神の忠実さが、混じりけのない信頼できるものとして、どんな時にも信じて歩みたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヨハネによる福音書5章1節から9節

2016年02月24日 06時02分52秒 | デボーション
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。


After this there was a festival of the Jews, and Jesus went up to Jerusalem.
Now in Jerusalem by the Sheep Gate there is a pool, called in Hebrew[a] Beth-zatha, which has five porticoes.
In these lay many invalids—blind, lame, and paralyzed.
One man was there who had been ill for thirty-eight years.
When Jesus saw him lying there and knew that he had been there a long time, he said to him, “Do you want to be made well?”
The sick man answered him, “Sir, I have no one to put me into the pool when the water is stirred up; and while I am making my way, someone else steps down ahead of me.”
Jesus said to him, “Stand up, take your mat and walk.”
At once the man was made well, and he took up his mat and began to walk.

ベトサダの池にはあらゆる病気の患者が来ていたのに、我先にと池に下りていって、38か年間病気で苦しんでいたその人は、足の不自由なためか、下りていくことができなかったようです。
このような社会から疎外されている人々は現代にもいます。
病気ではないけれども、自分が疎外されているような状況に置かれることもあります。
そういう人たちに向かって、イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 と言われます。
自分が疎外されているとき、私たちは大抵、下を向いて自分に立ち上がる力はないと思い込んでいることが度々あります。
しかし、呼びかけられるイエスの言葉によって起き上がることができるようになるのです。
イエスに特別な霊的な力があり、それによって起き上がるにではありません。
私たちが、その言葉を聞き、理解し、その言葉に従うことによって起き上がれるのです。
その言葉をいちいち識別せず、御言葉に従って起き上がりたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!