goo blog サービス終了のお知らせ 

4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

サムエル記上3章1節から9節

2016年03月14日 06時44分26秒 | デボーション
少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。
ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。
まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。
サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。
主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。


Now the boy Samuel was ministering to the Lord under Eli. The word of the Lord was rare in those days; visions were not widespread.

At that time Eli, whose eyesight had begun to grow dim so that he could not see, was lying down in his room; the lamp of God had not yet gone out, and Samuel was lying down in the temple of the Lord, where the ark of God was.
Then the Lord called, “Samuel! Samuel!” and he said, “Here I am!” and ran to Eli, and said, “Here I am, for you called me.” But he said, “I did not call; lie down again.” So he went and lay down.
The Lord called again, “Samuel!” Samuel got up and went to Eli, and said, “Here I am, for you called me.” But he said, “I did not call, my son; lie down again.”
Now Samuel did not yet know the Lord, and the word of the Lord had not yet been revealed to him.
The Lord called Samuel again, a third time. And he got up and went to Eli, and said, “Here I am, for you called me.” Then Eli perceived that the Lord was calling the boy.
Therefore Eli said to Samuel, “Go, lie down; and if he calls you, you shall say, ‘Speak, Lord, for your servant is listening.’” So Samuel went and lay down in his place.

少年サムエルは主の呼びかけを知りませんでした。
しかしエリの悟りにより、主の呼びかけに応えることを学びました。
今日、このように神が直接、私たちの人生に介入なさるということは、誰にもわかるものとしては識別できないのが現状です。
そうであるからこそ、私たちは聖書の御言葉を適切に呼んで神の御旨を知らなければならないと思うのです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヨハネの手紙一3章11節から16節

2016年03月13日 06時55分51秒 | デボーション
なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

For this is the message you have heard from the beginning, that we should love one another.
We must not be like Cain who was from the evil one and murdered his brother. And why did he murder him? Because his own deeds were evil and his brother’s righteous.
Do not be astonished, brothers and sisters, that the world hates you.
We know that we have passed from death to life because we love one another. Whoever does not love abides in death.
All who hate a brother or sister are murderers, and you know that murderers do not have eternal life abiding in them.
We know love by this, that he laid down his life for us—and we ought to lay down our lives for one another.
All who hate a brother or sister are murderers, and you know that murderers do not have eternal life abiding in them.

ここで言われている「兄弟」とは、肉親の兄弟と教会内の兄弟のことを言っていると思いますが、では今日、私たちが愛すべき兄弟とは誰と誰のことなのでしょうか?
私たちはどこかで、その範囲を狭めてはいないでしょうか?
この世界中にある様々な問題、戦争や災害、貧困から目をそらすことは、その範囲を狭めていないでしょうか?
自分一人にできることは限られています。
しかし、神に祈り、自分にできる業をなしていきたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!


コリントの信徒への手紙二8章20節から21節

2016年03月12日 08時36分50秒 | デボーション
わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。
わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。

We intend that no one should blame us about this generous gift that we are administering, for we intend to do what is right not only in the Lord’s sight but also in the sight of others.

私は今朝、献金について考えることにします。
一口に公明正大というと、大げさに聞こえますが、まずは教会会計が会衆にしっかりと定期的に公開されているかということです。
とは言え、次のような配慮も必要と考えています。
私は、財政的に課題を抱えている教会や伝道所に対して外部献金をしていますが、そのことが公開されることによって、自分の所属する教会の中で、「これならもっとうちの教会に献金できずはず」との陰口がささやかれていることは、わたしの心を痛めています。
そうすると、「匿名」にしてくださいとお願いせざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。善意でしていることなのに。
今日、小規模教会の抱えている財政の問題は急務となっています。その教会や伝道所を支援したからと言って、陰口をたたかれるような世論は作らないよう何とかしていきたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙一11章17節から34節

2016年03月11日 06時32分22秒 | デボーション
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

Now in the following instructions I do not commend you, because when you come together it is not for the better but for the worse.
For, to begin with, when you come together as a church, I hear that there are divisions among you; and to some extent I believe it.
Indeed, there have to be factions among you, for only so will it become clear who among you are genuine.
When you come together, it is not really to eat the Lord’s supper.
For when the time comes to eat, each of you goes ahead with your own supper, and one goes hungry and another becomes drunk.
What! Do you not have homes to eat and drink in? Or do you show contempt for the church of God and humiliate those who have nothing? What should I say to you? Should I commend you? In this matter I do not commend you!
For I received from the Lord what I also handed on to you, that the Lord Jesus on the night when he was betrayed took a loaf of bread, and when he had given thanks, he broke it and said, “This is my body that is for you. Do this in remembrance of me.”In the same way he took the cup also, after supper, saying, “This cup is the new covenant in my blood. Do this, as often as you drink it, in remembrance of me.”For as often as you eat this bread and drink the cup, you proclaim the Lord’s death until he comes.
Whoever, therefore, eats the bread or drinks the cup of the Lord in an unworthy manner will be answerable for the body and blood of the Lord.
Examine yourselves, and only then eat of the bread and drink of the cup. For all who eat and drink without discerning the body, eat and drink judgment against themselves. For this reason many of you are weak and ill, and some have died. But if we judged ourselves, we would not be judged. But when we are judged by the Lord, we are disciplined so that we may not be condemned along with the world.
So then, my brothers and sisters, when you come together to eat, wait for one another.
If you are hungry, eat at home, so that when you come together, it will not be for your condemnation. About the other things I will give instructions when I come.

27節でパウロは「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」と述べています。この「ふさわしくないままで」ということの意味を、この11章全体を読めば「ふさわしくないこと」の意味が21節の「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」という部分にかかっていることがわかります。30節ではこのために「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」とも記されています。
どこにもバプテスマを受けたかどうか、などとはどこにも書かれてはいないのです。
ところで、今日は東日本大震災発生から5年目に当たる日です。
決して復興などはなしえていないし、本当に避難解除された地域に戻って住めるか、と言われれば、コミュニティーが崩壊している中で生きていくことは、非常に困難です。しかも仮設住宅に住んでいる方々への支援は本当に手薄です。
このように避難生活を余儀なくされている人は14万人を超えています。
私たちは、それらのひとたちの生活が再建されるように、まずは国と東電の責任で補償がなされて、生きることができように働きかけていかなければならないと思います。
そういうことがパンを分かち合うことにつながっていくことになるのではないでしょうか?
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ローマの信徒への手紙16章17節から20節

2016年03月10日 06時19分45秒 | デボーション
兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

I urge you, brothers and sisters, to keep an eye on those who cause dissensions and offenses, in opposition to the teaching that you have learned; avoid them.
For such people do not serve our Lord Christ, but their own appetites, and by smooth talk and flattery they deceive the hearts of the simple-minded.
For while your obedience is known to all, so that I rejoice over you, I want you to be wise in what is good and guileless in what is evil.
The God of peace will shortly crush Satan under your feet. The grace of our Lord Jesus Christ be with you.

パウロの置かれていた状況を考えるならば、不和をもたらす人々を警戒するだけでなく遠ざかるという選択肢をすすめたのは理解できます。
しかし、今日において議論をせずに、ただ遠ざかるだけでよいのかどうかということは相手にもよると思います。
信仰により義とされる者と、そうでない者とを分け隔てする心が、私には不和の原因ではないかとも思えるのです。
神は「信仰により義とされない者」をも生かされています。
そのことを念頭にキリストに仕える者となりたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コロサイの信徒への手紙4章2節から4節

2016年03月09日 06時34分56秒 | デボーション
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。
わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。

Devote yourselves to prayer, keeping alert in it with thanksgiving.
At the same time pray for us as well that God will open to us a door for the word, that we may declare the mystery of Christ, for which I am in prison, so that I may reveal it clearly, as I should.

パウロは、ファリサイ派やローマ帝国からの直接の迫害というよりも、エルサレム教団の人たちとの異邦人の扱いをめぐる違いのために当局に引き渡されたようです。
このことから、パウロと考え方を同じくする人たちは決して多数派ではなかったことがわかります。
しかし、少数派であったからこそ、書物志向であり、福音を曲げずに後世に残したいということが、ルターなどによって見出され、今日日の目を見ているわけでもあるのです。
そのために牢獄につながれているパウロは、コロサイの信徒へ「祈ってください」と頼みます。
私も、獄中ではありませんが相当に苦しい状況で毎日を過ごした日々がありました。
その時に、親しい信徒に「祈ってください」とお願いしたことがあります。
その祈ってくれたことが、どれだけ心強かったか、私は今でも神とその人に感謝しています。
祈りあえる信徒を大切にしたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヨシュア記4章1節から7節

2016年03月08日 06時55分56秒 | デボーション
民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。
「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」
ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」

When the entire nation had finished crossing over the Jordan, the Lord said to Joshua:
“Select twelve men from the people, one from each tribe, and command them, ‘Take twelve stones from here out of the middle of the Jordan, from the place where the priests’ feet stood, carry them over with you, and lay them down in the place where you camp tonight.’”
Then Joshua summoned the twelve men from the Israelites, whom he had appointed, one from each tribe.
Joshua said to them, “Pass on before the ark of the Lord your God into the middle of the Jordan, and each of you take up a stone on his shoulder, one for each of the tribes of the Israelites, so that this may be a sign among you. When your children ask in time to come, ‘What do those stones mean to you?’then you shall tell them that the waters of the Jordan were cut off in front of the ark of the covenant of the Lord. When it crossed over the Jordan, the waters of the Jordan were cut off. So these stones shall be to the Israelites a memorial forever.”

次世代に対する信仰の伝え方というのは色々あるでしょうが、古代イスラエルでは今ほど書物志向ではなかったのだと思います。
ヨシュアが部族の選ばれた者たちに拾わせた石の大きさがどうであったかはわかりませんし、私はヨルダン川へ行ったことがないので、そのような石がいまでも積み上げられているのかは一切知りません。
今日の教会の中で、次世代への信仰の継承はどのようになされているでしょうか。
色々な方法があっていいと思いますが、絶えず祈る後ろ姿だけは次世代の者たちに見せていきたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ガラテヤの信徒への手紙2章11節から14節

2016年03月07日 06時13分00秒 | デボーション
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

But when Cephas came to Antioch, I opposed him to his face, because he stood self-condemned;
for until certain people came from James, he used to eat with the Gentiles. But after they came, he drew back and kept himself separate for fear of the circumcision faction.
And the other Jews joined him in this hypocrisy, so that even Barnabas was led astray by their hypocrisy.
But when I saw that they were not acting consistently with the truth of the gospel, I said to Cephas before them all, “If you, though a Jew, live like a Gentile and not like a Jew, how can you compel the Gentiles to live like Jews?”

ここで言われている「ケファ」とはペトロのことであり、「ヤコブ」というのはイエスの兄弟ヤコブのことで当時エルサレム教団の実質的なリーダーだった人物です。
このアンティオキアの教会はパウロが深くかかわっていながら、後にヤコブの指揮するユダイストの考えに陥ってしまいます。
このケファの手のひらを返したような行為にも確かに非難すべき点があるとは思いますが、ユダヤ人と異邦人とを分け隔てして共に食事をすることができないとは、今日の教会の課題にも通じるものがあります。
この箇所に先立ってパウロは6節で「神は人を分け隔てなさいません」と述べています。
私たちが人を分け隔てするのか、しないのか、問われています。
私は律法そのものは全否定していませんが、律法主義は少なくともキリスト教では否定されるべきです。
ところが、今日の教会の中にも「これをしないといけない」という「律法主義」があるのは事実です。
心の中から、人を分け隔てする心を吟味して生きたいものです。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

使徒言行録15章1節から11節

2016年03月06日 07時49分39秒 | デボーション
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

Then certain individuals came down from Judea and were teaching the brothers, “Unless you are circumcised according to the custom of Moses, you cannot be saved.”
And after Paul and Barnabas had no small dissension and debate with them, Paul and Barnabas and some of the others were appointed to go up to Jerusalem to discuss this question with the apostles and the elders.
So they were sent on their way by the church, and as they passed through both Phoenicia and Samaria, they reported the conversion of the Gentiles, and brought great joy to all the believers.
When they came to Jerusalem, they were welcomed by the church and the apostles and the elders, and they reported all that God had done with them.
But some believers who belonged to the sect of the Pharisees stood up and said, “It is necessary for them to be circumcised and ordered to keep the law of Moses.”
The apostles and the elders met together to consider this matter.
After there had been much debate, Peter stood up and said to them, “My brothers, you know that in the early days God made a choice among you, that I should be the one through whom the Gentiles would hear the message of the good news and become believers. And God, who knows the human heart, testified to them by giving them the Holy Spirit, just as he did to us; and in cleansing their hearts by faith he has made no distinction between them and us. Now therefore why are you putting God to the test by placing on the neck of the disciples a yoke that neither our ancestors nor we have been able to bear? On the contrary, we believe that we will be saved through the grace of the Lord Jesus, just as they will.”

1世紀のエルサレム教団やパウロやヘレニストなどとの関係性がこの使徒言行録に100パーセント正確に書かれているとは思いませんが、それでも今日の箇所からは多くの示唆を与えられます。
特に今日の箇所でペテロの言説の中にある「神は(中略)わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」という言葉は、現在のキリスト教会諸派の中にある多くの問題を指摘してはいないでしょうか?
1世紀から3世紀にかけて、キリスト教の共同体が、ローマ帝国からの迫害を受けている状況で、「ユダヤ教」と袂を分かち、「キリスト教会」として形成する中でサクラメントを定めなければならなかった事情は理解できます。しかし、現代の人権感覚から教会内にある多くの差別は取り除かなければならないのではないでしょうか?
バプテスマを受けているか否かで聖餐にあずかれるかどうか分け隔てする差別。
二重教職制のもとで待遇や職制が分け隔てされている差別。
性役割を固定化しようとする差別。
存在する差別を取り上げたらきりがありません。
しかし、制度がどうあれ、自分が教会内外で一人一人とどう接していくかということは自分で決定し行動できるはずです。
もう一度言いますが、神は分け隔てなさる方ではない。
このことを念頭に、教会内にある課題を解決していきませんか?それぞれの場所で。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

申命記17章2節から5節

2016年03月05日 08時29分40秒 | デボーション
あなたの神、主が与えられるどこかの町で、あなたの中に、男にせよ女にせよ、あなたの神、主が悪と見なされることを行って、契約を破り、他の神々に仕え、その神々や太陽、月、天の万象などわたしが命じたことのないものにひれ伏す者がいるならば、その知らせを受け、それを聞いたときには、よく調べなさい。もし、それが確かな事実であり、イスラエルの中でこうした、いとうべきことが行われたのであれば、この悪事を行った当の男ないし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。

If there is found among you, in one of your towns that the Lord your God is giving you, a man or woman who does what is evil in the sight of the Lord your God, and transgresses his covenant by going to serve other gods and worshiping them whether the sun or the moon or any of the host of heaven, which I have forbidden and if it is reported to you or you hear of it, and you make a thorough inquiry, and the charge is proved true that such an abhorrent thing has occurred in Israel, then you shall bring out to your gates that man or that woman who has committed this crime and you shall stone the man or woman to death.

ラビ的ユダヤ教から見れば、この国のほとんどの人々は私たちクリスチャンも含めて異教徒になります。
神が「You shall not murder」と、人間が人間を殺すことを期待されてはいないのに、この死刑に関する律法は何なのだ、と思いたくもなります。
違う見方をすれば、その罪のためにイエスが十字架にかかって贖ってくださった、ということは贖罪論から言えるかもしれませんが、マルキオンのように「旧約」は不要であるとか、律法がイエスの説く「信仰による義」によってすべて無効になったとか、そこまで飛躍する気にはなりません。
 1938年6月30日、平壌の教会では私服警官臨席のもと、日本基督教会大会議長・富田満が来て、神社参拝を拒否する朝鮮の長老教会牧師・長老たちに「神社は宗教でなく、国民儀礼であって罪ではない」と講演しました。この言葉に憤激した朱基徹牧師は「神社参拝は第一戒を破っているのに、どうして罪にならないのか」と富田と抗弁しますが、結果的に神社参拝受容が決議されてしまったのです
 しかも、富田満は1941年6月の日本キリスト教団設立にあたり、「君が代斉唱」「宮城遥拝」「皇軍兵士のための黙祷」「皇国臣民の誓い」の国民儀礼をもって大会が開始されているのです。なお、伊勢神宮も参拝しています。その他ホーリネス弾圧など、枚挙にいとまがありませんが、自分だったらその時、どう抗しえたのかと問われると、自分の生活も守りたいというのが本音です。生活と信仰が両立できるのが信教の自由だと思います。
 今、私たちがこの御言葉に臨むとき、自分のいのちを今日も生かされている真実なる神のみを礼拝することが、神から期待されていることなのではないでしょうか?
 イエスは罪なき者からまず石で打て、と語られました。その罪なきイエスが私たちの偶像崇拝の罪を赦された以上、もうこれ以上言い訳をやめて、神社参拝などの偶像崇拝を拒絶するべきではありませんか?
 イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!