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4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

ローマの信徒への手紙2章1節から4節

2016年03月24日 06時14分45秒 | デボーション
だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

Therefore you have no excuse, whoever you are, when you judge others; for in passing judgment on another you condemn yourself, because you, the judge, are doing the very same things.
You say,“We know that God’s judgment on those who do such things is in accordance with truth.”
Do you imagine, whoever you are, that when you judge those who do such things and yet do them yourself, you will escape the judgment of God?
Or do you despise the riches of his kindness and forbearance and patience? Do you not realize that God’s kindness is meant to lead you to repentance?

昨年の11月にある基地反対関連の国際連帯集会に参加した時、発言者の中に為政者のことを「精神分裂病者」として批判する人がいました。その場では障がいを持つ方から発言があり討論することになったのですが、実はその集会だけではなく、他の学習会などでも為政者のことを「バカ」呼ばわりして人格を否定する差別発言が非常に多いのです。
以前にも書いたかもしれませんが、誰が悪いかに焦点をあてて論じても「人が人を殺す」という問題は解決しないのです。
PKO法の改定等が、例えば「駆けつけ警護」では実際には何が起こるのかを、人々に知らせなければならないと思うのです
パウロの場合はユダヤ人を前提に書いているとは思いますが、神が為政者のいのちをも造られていることを忘れてはならないのです。
為政者が敵であり、迫害者であるならば、その者のために、そのいのちが善きことに用いられるように祈るべきと私は考えます。
神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を思い起こしつつ、私たちの心の中にある「人を裁く心」を見つめ直しましょう。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙一7章29節から35節

2016年03月23日 06時16分21秒 | デボーション
兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

I mean, brothers and sisters, the appointed time has grown short; from now on, let even those who have wives be as though they had none, and those who mourn as though they were not mourning, and those who rejoice as though they were not rejoicing, and those who buy as though they had no possessions, and those who deal with the world as though they had no dealings with it. For the present form of this world is passing away.
I want you to be free from anxieties. The unmarried man is anxious about the affairs of the Lord, how to please the Lord; but the married man is anxious about the affairs of the world, how to please his wife, and his interests are divided. And the unmarried woman and the virgin are anxious about the affairs of the Lord, so that they may be holy in body and spirit; but the married woman is anxious about the affairs of the world, how to please her husband.
I say this for your own benefit, not to put any restraint upon you, but to promote good order and unhindered devotion to the Lord.

私はLGBTの人たちの人権を大切にしようと思っています、
一方で、なおかつ両性が、それぞれ協力し合う必要性も理想として持っています。
ところで、今日の聖書の箇所でパウロが指摘していることは、今日でも当てはまることだと思います。
しかし、日本においては、単純に言い切れるものではありません。
結婚した後、子どもが生まれると、育児という問題にぶつかります。
専業主婦であれば、育児ストレスという問題もありますし、女性も税法上の扶養親族とならずに仕事をして社会に貢献したい、そう思っている現役の女性も多く存在します。
しかし、昨今問題となっている「介護離職」や「待機児童問題」は喫緊の課題ではないでしょうか?
要するに、日本ではデイケアが充実していないのです。
もちろん、その一因には東京一極集中というものもあるでしょう。
保育所に子どもを預けてから通勤すると所定の労働時間に間に合わないから短時間勤務制度や育児休業の部分休業という制度もあるぐらいですから。
長時間労働の問題も、相互扶助を難しくしている一因でしょう。
このように、世の現状は課題に満ちておりますが、パウロのように、この世の有様は過ぎ去るというのは、手放しで言えるものではないと、私は考えています。
しかし、そのような課題山積の中にあっても、主のことに心を遣うことは不可能ではない、私はそのように思います。
それは、一日のうち、たった1時間でもいいから祈りの時間を確保し、主との交わりを持つということです。
その1時間から出発し、世の荒波の中にある時も、心の中で主に依り頼むという姿勢が祈りの訓練によって養われるのだと私は思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

申命記18章15節から22節

2016年03月22日 06時15分58秒 | デボーション
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。
主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」
あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

The Lord your God will raise up for you a prophet like me from among your own people; you shall heed such a prophet. This is what you requested of the Lord your God at Horeb on the day of the assembly when you said: “If I hear the voice of the Lord my God any more, or ever again see this great fire, I will die.”
Then the Lord replied to me: “They are right in what they have said. I will raise up for them a prophet like you from among their own people; I will put my words in the mouth of the prophet, who shall speak to them everything that I command. Anyone who does not heed the words that the prophet shall speak in my name, I myself will hold accountable. But any prophet who speaks in the name of other gods, or who presumes to speak in my name a word that I have not commanded the prophet to speak—that prophet shall die.”
You may say to yourself, “How can we recognize a word that the Lord has not spoken?”
If a prophet speaks in the name of the Lord but the thing does not take place or prove true, it is a word that the Lord has not spoken. The prophet has spoken it presumptuously; do not be frightened by it.

この申命記の「預言者を立てる約束」は今日では、特にキリスト教ではどういう意味を持つのでしょうか。
もちろんキリスト教には預言者という役職は、少なくとも私は見たことがありません。
この記述に従えば、ホレブでイスラエルの民が神の性質と一つとして、神を直接見たり、神の声を直接聞いたりすると、死ぬものだという前提があります。
しかし、預言者だけは神の声を聞いても死なない、というもう一つの前提もあります。
すると、預言者というものがいない今日において、神の声を聞く者はいないということになります。
ですから、今日でも「そのことが起こらず、実現しなければ、それは主の語られたものではない」という態度は肯定すべきかどうかというのは、今日でも預言者の言葉があるという前提がなければならないことになります。申命記的には。
とは言え、私たちの手元にある聖書には多くの神の言葉が記されています。
それをどう受け取るかは、非神話化という作業を行わなければ、今日の人権規範からは有害なものがあります。
聖書によって主の声を聞く、このことは否定されるべきものではありませんし、そこから始めなければ何もならないはずです。
一方、申命記的な因果応報の呪縛から解放するためにバプテスマのヨハネやイエスが言葉を残しています。
私たちは、福音書や手紙類からもメッセージを受け取ることができます。
基本的に、私は主の御旨が何であるのか知りたいという欲求を持っています。
そのために教会や礼拝、説教、聖書研究というものが設けられています。
そうした中で私たちは、神が何を求めておられるか、その手助けとなるでしょう。
「米軍等行動関連措置法」「平和維持活動協力法」「自衛隊法」の改定が何を意味しているのかというのは、そのことによって何が起こるのかを見なければなりません。それは人間が人間を殺すことが不可避であるということです。
人間が人間を殺すことが、死刑制度に続いて合法化されようとしているこの時、私たちは祈り求めたことが実現しなかったからと言って、その合法化を肯定すべきではないかもしれません。
何が神の御旨であるかが示されるよう、イエスの歩まれた苦難の道を思い起こしつつ祈り求めましょう。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

歴代誌下15章1節から7節

2016年03月21日 08時20分06秒 | デボーション
オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。
彼はアサの前に進み出て言った。「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。
長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。
しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。
そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。
神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。
しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」

The spirit of God came upon Azariah son of Oded.
He went out to meet Asa and said to him, “Hear me, Asa, and all Judah and Benjamin: The Lord is with you, while you are with him. If you seek him, he will be found by you, but if you abandon him, he will abandon you. For a long time Israel was without the true God, and without a teaching priest, and without law; but when in their distress they turned to the Lord, the God of Israel, and sought him, he was found by them. In those times it was not safe for anyone to go or come, for great disturbances afflicted all the inhabitants of the lands. They were broken in pieces, nation against nation and city against city, for God troubled them with every sort of distress. But you, take courage! Do not let your hands be weak, for your work shall be rewarded.”

私たちが神を愛するより前に、神がまず私たちを愛された、このことを信じるなら、主がいつでもどこでも私たちと共にいてくださるということを示した聖句であると、私は理解しています。
この歴代誌の記述に従えば、イスラエルには長い間、まことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった、とあります。
それでもイスラエルの民は苦悩の中で主に立ち帰り、主を求めたのです。
私たちの住んでいるこの国だけでなく、世界中が破壊と困窮の中にあるのはご存じとは思いますが、為政者がどんな偽りの政治を行おうと、主は必ず報いて下さいます。
いつでも、どこでも、主が共におられることを信じて、その報いが意図しない結果であっても、勇気を出して、落胆せずに祈りましょう。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

サムエル記上15章7節から11節

2016年03月20日 07時14分54秒 | デボーション
サウルはハビラからエジプト国境のシュルに至る地域でアマレク人を討った。
アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼした。
しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。
主の言葉がサムエルに臨んだ。
「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。

Saul defeated the Amalekites, from Havilah as far as Shur, which is east of Egypt.
He took King Agag of the Amalekites alive, but utterly destroyed all the people with the edge of the sword.
Saul and the people spared Agag, and the best of the sheep and of the cattle and of the fatlings, and the lambs, and all that was valuable, and would not utterly destroy them; all that was despised and worthless they utterly destroyed.
The word of the Lord came to Samuel:
“I regret that I made Saul king, for he has turned back from following me, and has not carried out my commands.” Samuel was angry; and he cried out to the Lord all night.

今日的な価値観で言えば、サムエル記に書いてある「滅ぼしつくす」を実際に行うと犯罪行為です。
神話であるものを、神話としてでなくリアルな物語として読めばとんでもないことです。
そこに暗喩されているメッセージを受け取らなけば、百害あって一利なし、ではないでしょうか。
ここで暗喩されているアマレクという存在を、人間の心の中に棲む、神様との関係を蔑ろにする働きと位置付けるとすれば、ここでサウルが行ったことの意味が少しは理解できるでしょう。
サウロが判断したように、私たち人間の心の中には、私利私欲のために「上等なもの」を惜しんで、「つまらないもの」「値打ちのないもの」を分け隔てする考えが潜んでいます。
少し話がそれますが、私は一時期、特別養子縁組について考えたことがありました。しかし、実務的な部分で0歳児を引き取るのは現状では難しいということがあるのですが、2歳児ぐらいまで障がいの有無を確かめてからという現状に幻滅したのが、その計画をあきらめた理由です。
障がいを持って生まれてきた子がどういう人生を送るかについては、半分ぐらいは理解しているつもりですが、障がいを理由とした差別を公然と認めてしまっていいのだろうかという疑問は消えません。
しかし、これは特別養子縁組を受け入れる側の家庭の側に、そういう差別しない覚悟がないと克服できない課題でもあります。
分け隔てする心を滅ぼすということは、分け隔てをなさらない神の忠実さを持つということではないでしょうか?
神の慈しみと忠実さに生きるということを、祈り求めたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!


イザヤ書45章9節

2016年03月19日 08時48分43秒 | デボーション
災いだ、土の器のかけらにすぎないのに
自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか
「何をしているのか
あなたの作ったものに取っ手がない」などと。

Woe to you who strive with your Maker,
earthen vessels with the potter!
Does the clay say to the one who fashions it, “What are you making”?
or “Your work has no handles”?

時に神を畏れる者であっても、神が創造者で、私たち人間は被造物であるということをわすれがちです。
自分のとりくんでいることがうまくいかない時、神に対して争ってしまいがちです。
またある時は、神が作られた自分に対して「なんで自分はこんなにダメなんだ」と自己肯定感をも持つことがあります。
そこで、もう一度神が私たちに忠実で慈しみ深い方であることを思い起こしたいと思います。
揺さぶられるとき、まじ第一に創造者である神に祈り求めたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

列王記上11章28節から33節

2016年03月18日 06時30分15秒 | デボーション
このヤロブアムは有能な人物だったので、ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフ族の労役全体の監督に任命した。
そのころ、ヤロブアムがエルサレムを出ると、シロの預言者アヒヤが道で彼に出会った。預言者は真新しい外套を着ていた。野には二人のほかだれもいなかった。
アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。
ただ一部族だけは、わが僕ダビデのゆえに、またわたしが全部族の中から選んだ都エルサレムのゆえにソロモンのものとする。
わたしがこうするのは、彼がわたしを捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムを伏し拝み、わたしの道を歩まず、わたしの目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのようには、掟と法を守らなかったからである。

The man Jeroboam was very able, and when Solomon saw that the young man was industrious he gave him charge over all the forced labor of the house of Joseph.
About that time, when Jeroboam was leaving Jerusalem, the prophet Ahijah the Shilonite found him on the road. Ahijah had clothed himself with a new garment. The two of them were alone in the open country
when Ahijah laid hold of the new garment he was wearing and tore it into twelve pieces.
He then said to Jeroboam: Take for yourself ten pieces; for thus says the Lord, the God of Israel, “See, I am about to tear the kingdom from the hand of Solomon, and will give you ten tribes.
One tribe will remain his, for the sake of my servant David and for the sake of Jerusalem, the city that I have chosen out of all the tribes of Israel.
This is because he has forsaken me, worshiped Astarte the goddess of the Sidonians, Chemosh the god of Moab, and Milcom the god of the Ammonites, and has not walked in my ways, doing what is right in my sight and keeping my statutes and my ordinances, as his father David did.

私の中のキリスト教に関する課題の最も大きなものは偶像崇拝です。
以前にも神社参拝のことは書きましたが、日本の1860年代以降の家制度の中で作り上げられてきた「慣習」で、仏壇で先祖を拝まないのは「非常識」だとの批判を何度も受けてきたことが、神との関係で、私が譲れない部分でもあったのです。
ただ、キリスト教のバプテスマを受けられている方の中には、特にご婦人方に、ご主人はノンクリスチャンであって、なかなかそうはならない、という方もいらっしゃるので、私はそういう方々を責めることはしたくありません。
ただ、これだけは知っておいてもらいたいのです。
祖先崇拝というのは、出自の異なる家を差別してきた歴史があり、なおかつ先祖の霊が人を呪ったり守ったりするものと考えられているということです。これは、神との信頼関係を壊し、神の忠実さを手放すことにならないでしょうか?
イエスは、それらの罪をも贖ってくださるかもしれませんが、もう一度、偶像崇拝を避けるについて自分にできることを考えてみませんか?
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

イザヤ書66章1節から4節

2016年03月17日 06時55分56秒 | デボーション
主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに
わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに
わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。

これらはすべて、わたしの手が造り
これらはすべて、それゆえに存在すると
主は言われる。わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。

牛を殺してささげ、人を打ち倒す者
羊をいけにえとし、犬の首を折る者
穀物をささげ、豚の血をささげる者
乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者
これらの者が自分たちの道を選び
その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。

わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び
彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず
わたしの目に悪とされることを行い
わたしの喜ばないことを選ぶのだから。


Thus says the Lord:
Heaven is my throne
and the earth is my footstool;
what is the house that you would build for me,
and what is my resting place?

All these things my hand has made,
and so all these things are mine,
says the Lord.
But this is the one to whom I will look,
to the humble and contrite in spirit,
who trembles at my word.

Whoever slaughters an ox is like one who kills a human being;
whoever sacrifices a lamb, like one who breaks a dog’s neck;
whoever presents a grain offering, like one who offers swine’s blood;
whoever makes a memorial offering of frankincense, like one who blesses an idol.
These have chosen their own ways,
and in their abominations they take delight;

I also will choose to mock them,
and bring upon them what they fear;
because, when I called, no one answered,
when I spoke, they did not listen;
but they did what was evil in my sight,
and chose what did not please me.

私は今苦しんでいます。
その苦しみは言葉に出ないくらい呻きとともに。
しかし、主は苦しむ人を顧みてくださる。
このことを信じて、今日も生きたいと思います。
このいのちが今朝もこうしてあることに感謝します。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙一12章

2016年03月16日 06時44分16秒 | デボーション
兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。

Now concerning spiritual gifts, brothers and sisters, I do not want you to be uninformed.
You know that when you were pagans, you were enticed and led astray to idols that could not speak.
Therefore I want you to understand that no one speaking by the Spirit of God ever says “Let Jesus be cursed!” and no one can say “Jesus is Lord” except by the Holy Spirit.
Now there are varieties of gifts, but the same Spirit;
and there are varieties of services, but the same Lord;
and there are varieties of activities, but it is the same God who activates all of them in everyone.

私が異教徒だった頃、私はキリスト教のことを、嫌悪感ではないけれども、信者の言動を見て違和感を覚えていたことを思い出しました。
それは、キリスト教徒となった今でも違和感はあります。
しかし、私は信者を礼拝しているわけではありません。
唯一なる主なる神です。
その神がイエスを通して示された救いは、真実なるものと信じています。
そう信じさせるのは、私の直感ではなく、祈りの中で聖霊から与えられた賜物であると思います。
教会の中が裁きの座と化そうとしている今日、私たちが、もう一度この原点に立ち帰るべきではないでしょうか。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

申命記12章13節

2016年03月15日 06時38分59秒 | デボーション
あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。

Take care that you do not offer your burnt offerings at any place you happen to see.

私も教会の中の人間関係が嫌で、一時期、教会から離れたことがありました。
その頃、思っていたことは、自分で聖書を読んでキリスト教に関する知識を深めていた方が自分にとって有益であると、そう思い込んでいたのです。
もちろん祈ることは、別に教会の中だけでなく、いつでもどこでもできるわけですが、万人に開かれた公の礼拝を作り上げていくことは、どんなに小さな働きであっても尊いものだということに気付いたのです。
これからも、開かれた教会のために、忍耐強く礼拝に関わる者でありたいと思います。
イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!