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4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

マルコによる福音書14章32節から38節

2017年03月17日 05時53分31秒 | デボーション
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

They went to a place called Gethsemane; and he said to his disciples, “Sit here while I pray.”
He took with him Peter and James and John, and began to be distressed and agitated.
And he said to them, “I am deeply grieved, even to death; remain here, and keep awake.”
And going a little farther, he threw himself on the ground and prayed that, if it were possible, the hour might pass from him.
He said, “Abba, Father, for you all things are possible; remove this cup from me; yet, not what I want, but what you want.”
He came and found them sleeping; and he said to Peter, “Simon, are you asleep? Could you not keep awake one hour?
Keep awake and pray that you may not come into the time of trial; the spirit indeed is willing, but the flesh is weak.”

目を覚ましている、ということの難しさを最近痛感するようになりました。
心は燃えていても肉体は弱い、とありますが、その心が燃えてなくて萎えています。
それほど毎日の長時間労働は私の心と体を蝕んでいるようです。
しかし、だからこそ、この朝だけでも祈る時間を確保し、祈る対象である主のことを思い、共にいてください、と願うばかりです。
このゲッセマネの祈りに学ぶのは、主イエスが自分の願うことではなく神の御心に適うことが行われるように、と祈られたことです。
自分を創られたのが誰であるのかしっかり祈りの対象を見極め、目を覚ましていられるよう、祈り求めていきたいと思います。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヤコブの手紙1章22節から25節

2017年03月16日 05時43分44秒 | デボーション
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

But be doers of the word, and not merely hearers who deceive themselves.
For if any are hearers of the word and not doers, they are like those who look at themselves in a mirror;
for they look at themselves and, on going away, immediately forget what they were like.
But those who look into the perfect law, the law of liberty, and persevere, being not hearers who forget but doers who act—they will be blessed in their doing.

例えば、敵を愛する、という御言葉について、それを聞くだけで行わないとすれば、その大切さを忘れてしまう、そのようなことを指しているのだと思います。
けれでも、どうすることが敵を愛することなのかどうか、私の悩みは深いものがあります。
争いのある者と和解をしたい、そう思っていても事実を捻じ曲げることとは違う。それゆえに和解できないこともあります。
しかし、相手の人格を貶めることはせず、一人の人間として尊重し、和解の糸口を探り続ける、そのことは続けていきたいと思います。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

マルコによる福音書14章66節から72節

2017年03月15日 05時48分03秒 | デボーション
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

While Peter was below in the courtyard, one of the servant-girls of the high priest came by.
When she saw Peter warming himself, she stared at him and said, “You also were with Jesus, the man from Nazareth.”
But he denied it, saying, “I do not know or understand what you are talking about.” And he went out into the forecourt.
Then the cock crowed.
And the servant-girl, on seeing him, began again to say to the bystanders, “This man is one of them.”
But again he denied it. Then after a little while the bystanders again said to Peter, “Certainly you are one of them; for you are a Galilean.”
But he began to curse, and he swore an oath, “I do not know this man you are talking about.”
At that moment the cock crowed for the second time. Then Peter remembered that Jesus had said to him, “Before the cock crows twice, you will deny me three times.” And he broke down and wept.

イエスの否認という場面です。
私たちは、どんな時に主イエスを否認するでしょうか。
映画版のものはまだ見ていないのですが、作家の遠藤周作さんの小説『沈黙』には考えさせられるところがあります。
『沈黙』ではある時代の特殊な状況を設定していますが、信教の自由が保障されている現代でも、この日本では同調圧力というものが身近に存在します。
イエスを救い主と告白することは、同時にそれを否定しないということをも意味するはずですが、はかならずも私たちはそれに背いてしまうことがあります。
イエスを救い主であると公に言い表すことは、同時にそれを否定する力にどう対応するか問われているのです。
自分の力だけではどうしようもない時、現在では人権擁護委員に相談するとか、色々ありますが、まずは、何が神様の御旨にかなうことなのか、神様にその解決策が示されるよう祈り求めていきたいと思います。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

ヘブライ人への手紙12章11節

2017年03月14日 06時42分07秒 | デボーション
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

Now, discipline always seems painful rather than pleasant at the time, but later it yields the peaceful fruit of righteousness to those who have been trained by it.

鍛錬とは聞こえがよいものですが、私の場合その悲しみと痛みはいまだに続いています。
ですから、義いう平和に満ちた実を結んだのかどうか、今の段階ではわかりません。
頑なに信仰を守り通そうとして、人とぶつかって不和をもたらしてきたような気がします。
あくまでも人と人との関係では。
でもそのように考えてくると、当座は喜ばしいものではないことは合っています。
二つの神に仕えることはできない、その良心から、出来ぬものは出来ぬ、孤立しながらも主との信頼関係は第一にすべきだと貫いてきたことは、いつか義という平和に満ちた実を結ぶと信じています。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

イザヤ書59章12節から13節

2017年03月13日 05時41分19秒 | デボーション
御前に、わたしたちの背きの罪は重く
わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり
わたしたちは自分の咎を知っている。
主に対して偽り背き
わたしたちの神から離れ去り
  虐げと裏切りを謀り
   偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。

For our transgressions before you are many,
and our sins testify against us.
Our transgressions indeed are with us,
and we know our iniquities:
transgressing, and denying the Lord,
and turning away from following our God,
talking oppression and revolt,
conceiving lying words and uttering them from the heart.

人間の本性は我が身可愛さなのでしょうか?
「天にまします我らの父よ」と祈る時、「地」にいる自分と「天」におられる神様との距離感があまりに遠く、また自らの罪が本当にやましくて、その主の祈りさえ最初の部分で祈れなくて挫折する時があります。
自分の咎を知っている、ということは大変なエネルギーを使うことではありますが、その意識なしに罪の赦しとは簡単には言えないものだ、と私は考えています。
英訳を見ると二人称で語られています(our)。罪という名詞も複数形です(sins)。一つの罪なのではありません。
ですから、少なくともキリスト教会という共同体の枠組みで、この罪に対する本性を理解しあっておくことも、必要なのではないでしょうか。ただし、教会が裁きの場とならないように留意しながら。
その上で、主イエスによって神に祈ることが赦されている、ということをも覚えたいと思います。
罪と向き合うことは本当に大変なことですが、その分、いま許されていることの恵みも大きくなるのだと思います。
レントの期間、私たちはこのイザヤ書の言葉から学びたいと思います。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

マタイによる福音書14章25節から31節

2017年03月12日 06時05分57秒 | デボーション
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

And early in the morning he came walking toward them on the sea.
But when the disciples saw him walking on the sea, they were terrified, saying, “It is a ghost!” And they cried out in fear.
But immediately Jesus spoke to them and said, “Take heart, it is I; do not be afraid.”
Peter answered him, “Lord, if it is you, command me to come to you on the water.”
He said, “Come.” So Peter got out of the boat, started walking on the water, and came toward Jesus.
But when he noticed the strong wind, he became frightened, and beginning to sink, he cried out, “Lord, save me!”
Jesus immediately reached out his hand and caught him, saying to him, “You of little faith, why did you doubt?”

ペトロの水上歩行の箇所ですが、最初、ペトロはイスエのことをそれと気付かず「幽霊」だと叫んでいます。
英訳では「ghost」と訳されていますが、当時のガリラヤでもそういう概念があったのかもしれません。
仮に携挙が起こってラッパのような声が聞こえたとき、私たちは果たしてその声を聞き分けられるでしょうか。
私は霊の存在については信じていますが、霊が目に見えたり、生きている人間に対して何らかの所業をもたらすとは考えていません。
そのためにも、主の再臨を待ち望むということを毎日毎日していかなくては、とも考えています。
それはそれとして、ペテロの水上歩行のことですが、これは現代の私たちにとって何に例えたらよいのでしょうか。
私の個人的な味方ですが、目に見える教会というものの持続的な運営を考えた場合、思い当たることがあるのではないでしょうか。
例えば、建物というものは経年劣化していきます。
教会堂の資産価値が経年により減価償却される一方で、建物やエアコン、クーラー、暖房設備、エレベーターなど修繕に係る費用が必ずかかってきます。
そのランニングコストと、労働組合で言えば専従に相当する牧師への謝儀も無視できない要素です。簿記の概念上は。
そこでなのですが、教会堂は宗教施設でもありますが、資産でもあります。
では、その資産は1日24時間、1週間で168時間のうち、どれだけ活用されているでしょうか?
もし、宗教的な行事に用いない時間を、開かれた教会としてその資産を地域のために活用しているでしょうか?
昨今の都市部の教会では治安の悪化を理由に施錠するところもあろうかと思います。
ペトロが水上歩行をするのと同様に、開かれた教会であろうとすることには強い風がつきまといます。
しかし、福音を世の人々に伝えていく手段として、開かれた教会としての資産の有効活用はあり得るのではないかと思います。
もちろん週報ボックスなどのプライバシーの保護にも留意しつつではありますが。
そのことを牧師の家庭にだけ負担をさせるのではなく、協会員全員の負担として受け入れいていく覚悟が必要です。
私は携挙を信じていますが、一方で現実的な感性も持っています。主の再臨を信じるからこの世の課題はどうでもいいというわけではないのです。
教会の財政問題は、私にとっては強い風です。
強い風が吹くときも、主イエスがともにいてくださることを確信していきたいと思います。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

コリントの信徒への手紙二4章7節から12節

2017年03月11日 06時12分14秒 | デボーション
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

But we have this treasure in clay jars, so that it may be made clear that this extraordinary power belongs to God and does not come from us.
We are afflicted in every way, but not crushed; perplexed, but not driven to despair; persecuted, but not forsaken; struck down, but not destroyed; always carrying in the body the death of Jesus, so that the life of Jesus may also be made visible in our bodies.
For while we live, we are always being given up to death for Jesus’ sake, so that the life of Jesus may be made visible in our mortal flesh.
So death is at work in us, but life in you.

「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています」というみことばは、本当にその通りだと思うようになりました。
昨今は「屈託」というものを覚えてしまったようで、何をするにも考えるにも慎重になってしまいがちなのですが、それでもイエスに従う生き方の中で、受けてきたどんな艱難も、決して神様との関係を絶えさせなかった。
このことは無論、神様の側からでたものであって、私の頑なさに起因するものではないことは、自分が一番よく知っています。
艱難の中でもがき苦しんでいるときにこそ、イエスの命が働く時なのです。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう

創世記39章7節から9節

2017年03月10日 06時21分43秒 | デボーション
これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」
しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。
この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」

And after a time his master’s wife cast her eyes on Joseph and said, “Lie with me.” But he refused and said to his master’s wife, “Look, with me here, my master has no concern about anything in the house, and he has put everything that he has in my hand.
He is not greater in this house than I am, nor has he kept back anything from me except yourself, because you are his wife. How then could I do this great wickedness, and sin against God?”

このヨセフと主人であるポティファルの妻とのやり取りの後、ヨセフはポティファルの妻のハニートラップによって監獄につながれてしまうのですが、ヨセフの毅然とした態度は監獄の中でも続くことになります。
ヨセフにしてみれば、兄たちの計略で奴隷として売られ、今こうしてハニートラップでひどい目にあい、踏んだり蹴ったりとはこのようなことを言うのではないでしょうか?
2007年に発表された映画『それでもボクはやってない』では痴漢冤罪を題材にした代用監獄の恐ろしさが話題になりましたが、この国の司法や検察の在り方は今でも改められるべき点がいくつもあります。
まず、その意識において、性別による差別、差別意識による言動は両性の平等とはかい離したものです。
昨今、ネット上の記事を見ていて思うのは司法だけでなく、女性団体やシングルマザーの権利を擁護する団体の代表者による、性別による差別発言です。特に選択的注意という手法を用いた世論誘導の差別発言には気を付けなければならないと思っています。
そもそも、憲法第24条では両性が相互の協力により、その権利が維持されなければならないことが書かれています。
しかし、今日の創世記の箇所をあげるまでもなく、世の中はこの協力関係を分断する力のいかに大きいことか?
主がヨセフと共におられたので、ヨセフはこの艱難を乗り切ることができたのだと思いますが、艱難の時も主の恵みが共にあることを確信したいと思います。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!


イザヤ書66章2節

2017年03月09日 06時12分42秒 | デボーション
主は言われる。わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。

says the Lord.
But this is the one to whom I will look,
to the humble and contrite in spirit,
who trembles at my word.

現代の異邦人たる私たちにとって、律法とはどのような意味を持つのでしょうか?
ユダヤ教改革派の人たちは、祭殿の儀式よりも、罪の悔い改めに重点を置いているようです。
申命記に書いてある一字一句の父祖の戒めを守るということではありませんが、
十戒に込められているようなことに対しても、私はその戒めを守ることができていません。
そうした罪の意識はますます強まるばかりです。
今日の聖句では、そのような罪の意識化の奴隷となっていても、
それゆえに苦しみ、例が砕かれ、主の言葉におののく者であっても、
そういう者だからこそ、主は顧みてくださるのです。
その主の忠実さを持っていきたいものです。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!

出エジプト記33章18節から19節

2017年03月08日 05時53分07秒 | デボーション
モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、
主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」

Moses said, “Show me your glory, I pray.”
And he said, “I will make all my goodness pass before you, and will proclaim before you the name, ‘The Lord’; and I will be gracious to whom I will be gracious, and will show mercy on whom I will show mercy.

この箇所はモーセがエジプトからカナンに上る前の主とモーセのやりとりの場面です。
私たちも主の栄光というものが、目に見える形で示されることを望むことがありますが、しかしすでに、主は恵み、憐れんでくださっている、そう確信することが主の栄光が私たちに示されることに通じるのだと私は考えます。
この箇所の少し前に、モーセが民に向かって身に着けている飾り物を取るように告げ知らせる部分がありますが、まず何よりも主の栄光を知るために不要なものをそぎ落とす、そういうことも応答として必要なのではないかと考えます。
主イエスに希望があります。今日も頑張りましょう!