森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

1月20日の憂鬱

2013年01月20日 | 空色の休日 2013 

‥‥こんな日は川越を巡ろう。
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クレアモールの人ごみを避けるように川越八幡宮
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中院の静けさが心にしみる。

市指定・史跡  中 院
 中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長七年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺のなかに北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。
 当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永一〇年(1633年)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
 喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安三年(1301)勅願所たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元候の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
  平成四年三月 川越市教育委員会

【無量寿(むりょうじゅ)】〔阿弥陀仏は限りない寿命を保つところから〕阿弥陀仏の異名。無量寿仏。(Resource:大辞林 app)
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南院遺跡に涙。

【廃仏毀釈・排仏棄釈】はいぶつきしゃく 〔仏法を廃し,釈迦の教えを棄却する意〕 明治初年,祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によってひきおこされた仏教排斥運動。各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された。(Resource:大辞林 app)

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仙波東照宮を遠巻きに、
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喜多院では....


第六十小吉。
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ここまで来たらお不動さま
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うきしま様にもお願い。

川越城の七不思議  三、片葉の葦
 浮島稲荷社の裏側一帯は、萱や葦が密生した湿地帯で、別名「七ツ釜(ななつかま)」といわれていた。ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。
 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。
浮島稲荷神社
 地元の人々から「うきしま様」と呼ばれ、広く親しまれているこの神社が、いつ頃建てられたのかは定かでない。かつては末広稲荷とも呼ばれ、安産の神として麻を奉納する習慣が伝えられている。
 言い伝えによれば、大昔、星野山(今の喜多院)にあったのを慈覚大師が喜多院を開いたときここに移したとか、また一説には、太田道灌(どうかん)の父太田道真(どうしん)が川越城を築城した際に、城の守護神としてこの地に祀ったものとも伝えられている。現在ある社殿は、大正四年(1915)に改築したものである。
 今では、この一帯もすっかり様子が変わってしまったが、以前は「七つ釜」といって、清水の湧き出る穴が七つもあり、一面葦(あし)の生い茂った沼沢地であった。そのため遠くから神社を眺めると、ちょうど島のように浮かんで見えたところから、浮島神社と呼ばれるようになったという。
 また、伊勢物語を初めとして、昔からしばしば和歌に歌われた「三芳野の里」や「たのむの沢」は、このあたりを指すのだともいわれている。   
 昭和五十七年三月  川 越 市
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三芳野神社の参道を行く。

 三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
 この細い参道が、童謡「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
 なお、参道は、江戸時代より若干変化している。
  平成十一年三月 川越市教育委員会
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川越城本丸御殿に寄ってみよう。


西廊下


まだ雪の残る裏庭。
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突然の冠木門は中ノ門堀跡
川越城の歴史
 川越城は、扇谷上杉持朝が長禄元年(1457)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子らの家臣に命じて築城させた城です。当時、持朝は山内上杉房顕と連合し、古河公方足利利成氏と北武蔵の覇権をめぐて攻防を繰り返していました、築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。
 小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落としました。天文115年(1546)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏・古河公方と共に、川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗し(川越合戦)、後北条は北武蔵への支配を固めていきました。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越領を持つことになりました。
 寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの規模をもつ巨大な城郭となりました。
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お昼は時の鐘入口にある「長兵衛とうふ」さんでいただきました。
現在、幸町にて手作り豆腐店を営む「近長(きんちょう)」の先々代“細田長兵衛(ほそだちょうべい、青果商)”は当時の南町の顔役でした。長兵衛が東京神田の市場に仕入れに行った時、ちょうど神田祭の最中でした。長兵衛はその中の一台の山車の囃子の調子に聞き惚れ、どこの囃子かとたずねてみると、偶然にも上尾在堤崎連中との返事。これが縁で堤崎連中は長兵衛に招かれ南町の“翁の山車”に乗ることになり、川越に迎えられることとなりました。(Resource:幸町囃子会ホームページ
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>森の中の恍惚:川越市 de 初参り 2012


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