森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

原邸別荘庭園 天神山

2013年04月28日 | 空色の休日 2013 

生糸貿易で財を築いた明治時代の豪商「原善三郎」氏が故郷神川町(旧渡瀬村)に作った別荘庭園「天神山」。横浜の名園「三渓園」とも繋がるこの庭園は4月のみの一般公開です。


「亀屋」とは原善三郎氏の屋号。


「天神稲荷」となっていました。屋敷神でしょうか?

原善三郎は文政10年(1827)4月28日に旧渡瀬村の旧家に生まれ、機業家へ生糸を売買していました。そして横浜開港後2年目の文久元年(1861)、新糸の出回りのとき、はじめて秩父提糸(さげいと)を野沢屋と吉村屋へ出荷することになり、横浜弁天通三丁目の明林堂の裏手に仮住居することになります。後に横浜経済界のリーダー的存在になっていく善三郎の、最初の一歩でした。
 (Resource:神川町HP

この美しい神流川(かんながわ)の景観をパノラマ。


天神山山荘。明日は箏曲の勉強会が行われるそうです。

群馬県と隣接する神川町が、埼玉県の管轄下となったのは明治9年のことでした。昭和29年には丹荘村と青柳村が合併して神川村が誕生しました。昭和32年に渡瀬村を編入し昭和62年に、埼玉県で41番目の町として町制が施行されました。そして、平成18年1月1日に神泉村と合併し、新「神川町」が誕生しました。
 (Resource:神川町HP

門柱が生えている‥‥?




「亀甲竹(キッコウチク)」節間が亀甲状になった「京銘竹」の一つ。


庭園中ほどに鎮座する天満宮。天神山の由来なのでしょうか?神使の牛もいます。

神流川の名前は、神(カム)の川が神名に転じたことに由来しています。感納川、甘奈とも綴られ、古くはカミノ川といわれたというのは、武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から流れる川の意と言われています。
(Resource:国土交通省

対岸は群馬県の藤岡市。


こんな開けた場所もあります。左には四阿。


石垣の下はトンネルになっていて河原に出られるようになっています。


こんなかんじ。


原善三郎氏が明治25年、郷里渡瀬村の原本家に設立した器械製糸工場が原製糸所で、現在は日本マイカ製作所渡瀬工場となり、繭倉庫と繰糸工場、貯水槽が当時の遺構として工場内に残されているそうです。


庭園のほぼ南端。竹林となっています。


庭園の中ほどには小滝のある池が造られていて、水芭蕉が群生しています。


4月のみとはいえ、無料公開は嬉しい限りですね。


この庭園は案内板も無く、WEBで調べても詳しいアナウンスは見つかりませんでした。もしかしたら暗黙の了解ってことなのでしょうか?‥‥なので、ヒントで原善三郎氏の生家をご案内。
  :ここです→ Google マップ


この駐車場にたどり着ければ一安心です。
原 善三郎
文政十年(1827)~明治三二年(1899)

 武州児玉郡渡瀬村出身。原家は渡漸の四大旧家にかぞえられた名主格の家柄で、農業のほかに製材、製糸業をも営み、善三郎は長男として早くから家業のコツを会得し、特に武州上州一円の糸市で敏腕をふるっていた。
 開港後間もない文久元年(1861)、彼は横浜本町の野沢庄三郎と吉村幸兵衛の店へ生糸の出荷をはじめたが、単なる荷主の地位には満足できず翌文久二年万全の準備を整え
て、横浜の本町三丁目に店舗を構えた。その時に彼が携帯した軍資金は二千両であったという。これは当時としては実大な金額である。この点、彼は開港とともに横浜へ蝟集してきた。いわゆる徒手空拳の一旗組とは明きらかに毛並が異なっていた。
 開港直後の万延元年(1860)に、横浜で開業していた外国商館は、イギリスの四六店をはじめとしてアメリカの九店、次いでドイツ、オランダ、スイスを合せて約八十店に達していた。これに対して同年の日東側の商店は約百五十軒に及んでおり、そのうち生糸売込み商は九三軒をかぞえている。
 亀足善三郎の店-通称「亀善」は、幕末の慶応元年(1865)にはこの生糸売込み商の首位を占めるまでに成長した。明治にはいってから、彼は政府で設立した通商司為替方に任ぜられ、さらにその管下にできた為替会社と通商会社の頭取、次いで第二国立銀行の頭取その他の要職を歴任、生糸荷預所問題では自ら陣頭に立って終始外国商人側と応戦するなど、横浜の財界に大きな足跡を残した。
 議員歴としては明治十三年神奈川県会議員、二二年横浜市制発足の時には市会議長、二五年には郷里埼玉県選出の衆議院議員、二八年には神奈川県多額納税者として貴族院議員に列せられ、勲四等瑞宝章を授与された。
 「横浜は善きも悪しきも亀善の
   はら一つにて事きまるなり」
 これは彼の飛ぶ鳥を落すほどの勢威を寓したそのころの俚謡である。
 彼には一女やゑがあったが、男子に恵まれなかったため、郷里の叔父原安兵衛の長男元三郎を婿養子に迎えたが、元三郎もやゑもともに早世し、二人の間に生まれた屋寿だけが彼の唯一の相続人となった。この屋寿の夫として原家の次代をになったのが、三渓-原富太郎である。横浜の草創期における生糸貿易界の巨星、原善三郎は明治三二年二月六日七三才で永眠した。

 (Resource:「ある横浜商人の賦 -中村房次郎考-」横浜市中区役所)


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