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三角縁神獣鏡は、3世紀中ごろに作られた銅鏡で、主に古墳時代前期に古墳に副葬されました。縁の断面が三角形状で、裏面に神や神獣、霊獣が表現されていることからこのような名前で呼ばれています。今回発見された鏡は、銘文から『陳氏』が作ったことがわかり、四柱の神像と二頭の獣像が表された鏡なので『三角縁陳氏作四神二獣鏡』が鏡式名になります。
直径:22.1cm 最大厚:1.56cm 重量:1049.5g
三角縁陳氏作四神二獣鏡復元鏡
本市発見の三角縁陳氏作四神二獣鏡が「1700年以上前に鋳造されたとき、どのように輝いていたか?」を復元した鏡です。地金を採取して行った精度の高い青銅成分比率を基に製作しました。
〈三角縁陳氏作四神二獣鏡青銅成分比率〉
銅:74% 錫:21% 鉛5%
富士浅間神社
この社の祭神は木花開耶姫命 瓊々杵尊で 社宝は宗源宣旨と宗源祝詞である
明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享十二年(一四四〇年)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。
深谷城は、上杉房憲が康正二年(一四五六年)古河公方との戦いに備えて築城したもので、天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には松平、酒井氏が居城したが、寛永十一年(一六三四年)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残をとどめている。
昭和五十九年三月 深谷上杉顕彰会
当社は、内陣に納めた享保六年(一七二一)の宗源宣旨・同祝詞に「正一位智形大明神」とあるように、本来は智形(ちかた)神社であった。これを『明細帳』が「明治十三年九月十三日、冨士浅間神社ト改ム」と記すように、明治初年の混乱期に変更したものである。
当社の創建は不詳であるが、社記に「当社は、深谷城築造(康正二年・一四五六)以前から当所の氏神として祀られ、血刀(ちかた)大明神と称えていた。下って、深谷城上杉氏時代には城の鎮守となり、以後、代々の城主に崇敬され、寛永年間(一六二四-四四)酒井讃岐守城主の時、社殿を再建した」とある。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
一瓶塚稲荷神社
御祭神
豊受姫神
猿田彦神 久久能智神 大宮能売神 草野姫神
御神徳
稲荷大神は、衣食住の大祖神、福徳円満、商売繁昌、火防・交通安全の守護神として、御神徳は御霊験と共に深く信仰せられ、初午講員約五千人を始め、信仰者拾数万人、県内随一の稲荷神社として著名である。
御由緒
文治二年(一一八六年)佐野荘司讃岐守成俊公は、唐沢城再興の際に、富士村の稲荷大明神を今の地に遷し祀り、社領の地を寄進し、佐野荘百数十郷の総社として尊崇した。その折各地の人々は瓶に土をいれてこの地に運び塚を築いたので、塚を一瓶塚と呼び社を一瓶塚稲荷神社と称したと云う。
爾来武将庶民の信仰厚く、徳川五代将軍綱吉公は、館林尾曳城主の頃、毎月当社へ代参を遣わし崇敬特に深かったと伝えられ、延亨三年(一七四六年)には佐野荘の人々によって、見事な銅製鳥居(文部省認定重要美術品)が奉納されている。又寛政十二年(一八○○年)に、日本神祇総官領白川伯資延王より、「佐野総社一瓶塚正一位稲荷神社」の親筆の額を奉献された。
当社の境内は社殿の前面が非常に狭かったので、後方に土を盛り一瓶塚を延長して社殿を移し、境内を整備する事が、多年の宿願であった。昭和四十年境内模様替奉賛会を結成して、氏子信仰者の御奉賛により、社殿を始め一瓶塚、鳥居、社務所、神庫、その他一切の建物、工作物を移轉、改修或は新設して、境内の模様を一新し、昭和四十八年この歴史的大事業を達成した。