ブログ やさしい雨が降る

片山日出雄さんのこと・その5

片山日出雄氏に敬意と友情を感じていて、その片山日出雄を処刑しなければならなかった元オーストラリア兵の告白を3回に分けて掲載します。
文章、画像は「百万人の福音2006年8月号」からの転記です。

北の恐ろしい国

 現在、オーストラリア・ブリスベン郊外の静かな入り江の町に暮らすドン・ボールさん(80歳)は、19歳で陸軍の憲兵隊員として、戦後のラバウルに配属された

彼が16歳の年に太平洋戦争が始まり、学校では北の日本がナチスドイツと並んでいかに恐ろしい国かがくり返し教えられた。あっという間にシンガポール、蘭領インドネシアが日本の占領下に入り、ついにオーストラリア北東部の町ダーウィンで日本軍による空爆が始まった。国の歴史始まって以来の他国の攻撃を経験したオーストラリアの危機感はピークに達した。ドンたちの高校でも「万一の場合は、君たちがゲリラとなって戦うのだ」と、授業で手榴弾のつい使い方の訓練が始まった。

17歳で志願して入隊した彼は、カウラという内陸の収容所で警備に当たった。

数ヶ月前に日本兵の大量脱走が起こったばかりだったが、その後警備が強化され、ドンのいたころは事件もなく一度も発砲せずにすんだ

 キリスト教徒の家庭に育ったドンだったが、終戦直後、自分から信仰を言い表して教会で洗礼を受けた。19歳で再び陸軍警備の仕事に就く直前のことだった。任地はニューギニアの東の海に浮かぶニューブリテン島。降伏した日本兵が何万人も残っているラバウルの町で、交通整理や治安維持、日本兵の本国帰還の手続きなど目のまわるような忙しさだった。それでも戦争が終わり、皆どこかホッとした表情だった。

 心の中の信仰を分かち合える同僚はなかなか見つからなかったが、軍のチャプレンをしながら現地の人々の間で宣教師として働いているヤング大尉と親しくなった。少し年上のこの若い牧師は、町のはずれにある戦犯収容所でも毎週奉仕していた。

 

不思議なクリスチャン大尉

 ちょうどそのころ、戦時中に連合軍捕虜が日本軍によって酷い虐待や拷問に遭っていた事実が明るみに出、新聞でも連日大きく報道され、国じゅうに避難の嵐が巻き起こっていた。ヤング牧師のいう収容所とは、そのような捕虜や一般市民への虐待、殺害の罪を問われている旧日本軍将兵たちを集めた刑務所だった。

 その中に、すばらしい教会があるとヤング牧師が語るのを聞いてドンは耳を疑った。日本人でクリスチャンであるということ自体、彼の中では最初結びつかなかった。熱心に通約を務めてくれる一人のクリスチャン大尉は、死刑囚でありながら収容所の教会の中心メンバーだという。彼や仲間たちの働きで、処刑前夜に洗礼を受けた死刑囚も幾人かいるという。「会えばわかるよ、彼が死刑に当たるようなことは何もしていないということが・・・・・・」

受刑者たちが日本に出す手紙の検閲も、憲兵隊の仕事だった。そのクリスチャン大尉「カタヤマ」の手紙もあった。彼が書く手紙のすばらしさ、そこにあふれる信仰の深さにドンは敬意を抱いた。ヤング牧師の前任チャプレン、マッピン少佐も日本に転任後、カタヤマの減刑運動に奔走しているという話も耳にした。

 

だれかが責任をとらなければ

ドンはある非番の日に、たまたま司令部に寄って翻訳室で働いているタカヤマに出会った。とても親しみやすい人だった。その朝はカタヤマも急ぎの仕事がなかったので、二人はかなりの時間お互いの信仰について語り合った。自分の刑についてカタヤマは「この件では、責任をとってだれかが死ななければならないから・・・・・・」と控えめに話した。これは1947年初頭だった。その後も幾度か、カタヤマとことばを交わす機会があった。「カタヤマがここにいるのは何かの手違いで、いずれ近いうちに減刑される」という牧師の意見に、ドンも全く同感だった。

 20歳になったドンに法廷警備の仕事がまわってきた。裁判資料を届けたり配布する仕事、被告を収容所から少し離れた法廷まで運ぶ仕事で、しばらくカタヤマの姿は見なくなった。最後に顔を合わせたのは、収容所の鉄条網越しだった。近くをパトロールで通りかかった時、たまたまカタヤマの姿を見かけて声をかけた。その時も二人は信仰の話をした。

                      続く

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