アゴラで小川浩氏がクリエイターとしての生き方について。という記事を投稿されていて、
「他人の猿マネでいいのか?俺はこんなに時間の無い中でも
ちゃんとゴーストライターを使わず自分で本を書いているぞ、
それがクリエイターとしての義務でありプライドだ」という内容の発言をされている。
客観的に申し上げるなら彼の意見はいくつかの意味で正しくない。
まず彼のスケジュールがきついのはそのようにスケジュールを設定したからで、
そんな事はユーザー(読者)には関係の無い話だ。アウトプットされたコンテンツに対し、
中の人が忙しいかどうか、苦労したかどうかという点については
基本的に評価の対象にはされないし、その必要があるとも思えない。
あと彼は口パクを「生の歌声が聴けないならCDの方がマシだ」
として批判されているがこれも大雑把すぎて本質からは外れている。
例えばクラシックのコンサートで丸ごと録音が流れるのは許されないだろうが、
アイドル歌手の場合はそれでも別に構わない。
なぜならユーザーがアイドルに歌の技量など求めていないからだ。
音楽的な技量が不安定なアイドルが地声でリアルタイムに歌う場合、
録音よりも良好な品質の信号をユーザーに届けられるかどうかは分の悪い博打である。
その場合録音の信号を使う事が悪いことだとは思えない。
つまりユーザーがライヴに求めているのはコンサートの形態によって異なるものであり、
全てに於いて一概に「口パクだから駄目」という事はない。
ここでも前述のようにユーザー視点に立つと解る。
ある文章が存在したとして、その文章を著者以外のゴーストライターが
書いたかどうかという点に関しては恐らく評価の対象にはならない。
ジョン・ウィリアムズがオーケストレーションしていないから
ハリー・ポッターのサントラはニセモノだ、なんてケチは普通つかない。
ユーザーにとって重要なのは書籍や音楽などに於いてなら
アウトプットされた作品の品質がまず第一であり、
アイドルのコンサートなら場の一体感、コミュニティとしてのきっかけである。
コンテンツには上記のいずれの要素も含まれているが、
ユーザーの判断基準と優先順位はケースバイケースで変化する。
だからアクション映画のスターがスタントマンで済ませていても
それが信号品質の低下を招かない限り普通は許容されるのだ。
だから小川氏が例として取り上げた口パクやスタントマン起用の批判は
意味のあるものではないし、的も外れている。
小川氏の考え方の骨子は次の一文に集約しているように思う。
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「それは僕がクリエイターだからです。 ・・・中略・・・
人まね、猿真似は死んでもいやです。プライドがあるからです」
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批判ばかりしてしまったが最後にフォローしたい。
彼の意見は客観的に見るのなら自分がクリエイターだ、という思い込みも含めて
全く整合性の無いものだが、思い込みそのものはアーティストの本質である。
芸術家というのは学者と違い主観的な正しさを追求し表現する人種なので
思い込んでいる内容そのものに客観性があるかどうかは実は本人には関係がない。
思い込めない表現者の作品はただの規格品なので芸術的な魅力は無いのだ。
脳科学的に言うならミラーニューロンがある時点で
オリジナリティなどというものは存在し得ないのだが、
これこそが自分のオリジナリティだ、と勝手に自分で定義する事は出来る。
その意味で間違いなく小川氏は芸術家肌でありクリエイター気質である。
(彼を皮肉っているのではなく、僕の本心だ。その事は強調しておきたい)
だから小川氏は、他人から見たら非効率としか思えないような
この思い込みがない限り、作品をアウトプットできない人間なのだ。
そして多分、僕も彼を批判しておきながら、きっと同じような価値観を持っているのだろう。
小川氏と僕とでは彼の社会的な価値が高すぎては比べるべくもないが、
それでも今回の投稿は、なんだかカガミで自分を見ているようで居心地が悪かった。
「ネットに漫画を違法アップするな!」 「少年ジャンプ」誌面で警告の背景
という記事がアップされていた。
大体以前書いた記事と似たような展開だ。
「漫画家の魂」などというこの問題と本来無関係な面を強調するような
情緒的なアプローチは、あまりにも予想通り過ぎだ。
そしてそれは「俺達出版社の既得権を守れ」という
解りやすいメッセージの裏返しである事が殆どである。
政治家の開き直りと同レベルの程度の低さだ。
何故違法なアップロードが続くかという点に関しては明白だ。
出版社がかたくなに公式の電子配信を拒んでいるからに他ならない。
そもそもマンガはその性質上、映画やテレビゲーム、
あるいは舞台や演劇などに代表される総合芸術とは違い
その主体は完全に漫画家本人に帰属してくる。
アシスタントは作家本人の延長(手足と言ってもいい)に過ぎないので、
例えどれほど仕事上重要な存在であったとしても権利的な主体性は無い。
(彼らは音楽で言う所のアレンジャーと同じだ)
主体が本人に帰属しているという事は、その情報を発信するために
出版社のような中間業者を通すのは(原理的に)大変非効率である。
その意味で集英社をはじめとする出版社が電子書籍に反対するのは当たり前だ。
webによってバイパスされる最たる存在は彼らだからである。
現在のビジネスモデルが崩れるということは社員達の首が飛ぶということだが、
それはメディア側の都合であって消費者には関係の無い話だ。
漫画を読むのに出版社で選ぶメリットはそもそも無い。
フィルタリング機能が欲しいなら適当に作家本人や漫画の愛好家が
コンペティションなりオーディションなりを行えばいいだけの話だ。
そしてそれは電子上で十分に遂行する事が出来る。
日本は特に顕著だが、この国に限らず流通を取り仕切る中間業者という存在は
伝統的に政治家と結びつきが強く、発言力がある団体が多い。
(テレビ業界はそれが非常に露骨だ)
出版社のようなマス・メディアは供給を絞り込んで
流通を独占するビジネスモデルをずっと取って来たが、
webという破壊的イノベーションがそれを葬り去ってしまった。
webの本質はそもそもがP2Pという個人が主体となったシステムで、
それは漫画や音楽のような主体性が作者本人に強く依存するような情報を
発信するのに非常に都合が良い。そもそも供給過多の競争的な市場で、
ゼロ・コストでコピー/配信が可能な情報に値段が付いている事自体、
経済的に見ればおかしな話なのだ。
出版社にまだ活路があるとしたら、ネットでコミケを開き
そこでコンペティションを開催して有望な作家に「箔」をつけさせ、
彼と独占的な配信契約を結ぶ・・・といったような、
フィルタリングと新人の発掘機能に特化するしかないだろう。
重ねて述べるようにこの問題に於いて
作家の魂などという理解不能の概念は全く関係がない。
公式な電子化をずるずると引き延ばすと
AMAZONやAppleという魅力的な黒船がやってきて
有能な作家達はさっさと日本の出版社という船から乗り換えるだろう。
消費者は好きな作家の本が安く読めれば出版社など何処でも良いのだ。
供給を絞って流通を独占するビジネスモデルはもう壊れている。
出版社が何社潰れようがもはやそれによって書籍の供給が途絶える事はないのだ。
重要なのは利益(幸福)を最大化する事であって、
10の出版社がつぶれて100の不幸が生み出されても
1000の幸福が消費者と作家の間に生まれる方が社会にとって幸福である。
昨日の記事には僕のblogとしては想定外に閲覧数が伸びた。
(200PV/90IP近くあった) 丁度普段の倍位である。
GoTheDistanceにTrackbackを送ったからだろうか。
それとも皆さんの興味を引く話題だったのだろうか。
とにかく、問題は飲みニケーションがなぜ必要かという存在論にある
などと見栄を切ってしまったので、一応自分なりの見解は示しておきたい。
城繁幸氏も「トヨタに見るムラ社会の頑迷さ」という記事で
閉鎖的なムラ社会の構造を企業内に内包している事を指摘しているが、
それだけでは何故そんなムラ社会が存在するのかという答えにはなっていない。
僕は池田信夫氏の「空気を読むな」という記事と、
「長期的関係の呪い」という二つが参考になると思う。
「空気を読むな」から一部引用させていただこう
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日本では50年前まで人口の半分が農民だった。日本の高度成長を支えてきたのは、
こうした農村から出てきた労働者(その最後が団塊の世代)だから、
彼らの行動規範は基本的に農民のエートスだった。
・・・中略・・・
田は村全体のコモンズで、その収穫は各戸に平等に分配された。
田が各戸ごとに分割されるようになってからも、
村内で水の配分をめぐって争うことは固く禁じられ、
そういう秩序を乱す者は文字どおり村八分によって排除された。
このコモンズとしての水を守るのが、村民の共有する空気としての掟だった。
自由になるには村を離れるしかなく、
それは商人などとして成功する場合もあったが、
ほとんどの場合は餓死を意味した ・・・後略・・・
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こういったケースを考える場合、農民のエートス(文化的特性、習慣など)というのはつまり、
ゲーム理論でいうGrimだ。
しっぺ返し(TFT)は裏切っても再び協力すれば再度協力しあうようになるが、
Grim(容赦ない戦術)は裏切ったものを二度と許さない。
そしてこの戦術を機能させるには組織内の誰が裏切り者かという情報を、
共同体のメンバー達は(みなで追放出来るよう)把握しておく必要性がある。
・・・さて思い出してほしい。
飲みニケーションという残業に於いて、
その会話の殆どははあいつはこうだ、あいつはああだ、という
人事に関する情報だったのではないだろうか。
このように人事情報と共に人間関係も強く緊密化させ、
長期的関係によって徹底的に裏切りを許さない伝統的な組織作りが
いわゆる日本の「家族経営」と呼ばれるものの大きな特徴である。
逆説的ではあるが、その意味でいうなら飲みニケーションは必須だ。
なぜなら共同体の情報共有に参加しないという事は
自分が裏切り者であるというシグナルを発するという事に他ならず、
それはすなわち村八分(=解雇)を意味する。
だが、冷静に考えてみてほしい。現代のグローバル社会に於いて、
会社と呼ばれる組織はそんなにも小さな集団だろうか。
そして小集団だったとしても、彼らはさして異質性のない人間ばかりだろうか。
さらに、会社の取引相手となる人々は近隣の限られた人間達だけなのだろうか。
答えはいずれもノーのはずだ。
グローバルマーケットが発達している現代では、標準化された中間財をそこから調達して
組み立てだけを行いパッケージ化してしまう方が遥かに経済的に合理性が高く、
町一つ丸ごと工場にして彼ら全員を「身内」にし、
緊密な人間関係を構築して1から10まで部品を自社で揃えるような企業は、
必然的に高コスト体質になって世界市場では相手にされない。
そういった伝統的なガバナンスによって会社が回っていた時代は、
インターネットとグローバルマーケットという超破壊的イノベーションを前にして
無残に次々と打ち砕かれているのだ。残念だがそれが現実である。
つまりもう、飲みニケーションでなんとかなる時代は終わったのだ。
あなたの隣の席の同僚はインド人かもしれないし、顧客は中国人かもしれない。
こういった現状では濃密な人事情報の共有など望むべくもないし、
かつてのガバナンスは同質性の高い小集団でしか効力を発揮しない。
こういった時代に適したガバナンスの志向性ははっきりしており、
相手がどんな人間かという点は問わずにまずは信用し、
契約によって行動を拘束し、裏切りに対しては事後的に処罰を課す方が、
不特定多数に対して遥かに効率のよいアプローチだと言える。
つまり古い農民のエートスがさせる飲みニケーションというコミュニケートは、
目の前の上司に媚びるという効用以外、もう何も存在しないのだ。
そしてそれは日本人が日本人という身内しか信用しないでも生きてこられた時代の、
一つの終わりを意味しているのだろう。
パラダイムがシフトしているのに、いつまでたっても文化だの伝統だのを言い訳にして
既得権と過去の成功体験にしがみついていては、組織は丸ごと沈んでいくだけだ。
仲のよい顔見知り達が暖かく迎えてくれる小さくて心地よいコミュニティは、
もう企業の中には無いし、そこに求めるべきでもないのである。
堀江(ホリエモン)氏が、バンクーバー冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプ代表で、
服装の乱れが問題となった国母和宏選手(21)東海大学の国母選手を擁護し、
服装原理主義の行き過ぎだと述べている。
僕も基本的には彼に同意で服装なんてどうでもいい(そもそも五輪自体興味は薄いけど)と
思っているのだが、案外世間は違うようだ。
まあ会見の後のしょうもない態度や言い訳は非難されても仕方ないが、
プレイヤーに重要なのは良いパフォーマンスをするかどうかであって
世間的な規律を守る事ではない。
強いことと非常識なことはトレードオフではないが、アスリートで重要なのは前者だ。
オリンピック選手という存在は社会の中では間違いなく例外中の例外、特殊中の特殊であり
僕自身はそんな彼らに常識を求める自体そもそも無意味だと思う。
結局のところ、この騒ぎの正体はおなじみの同調圧力の一種ではないのか。
服装原理主義者というかTPO原理主義者の行動原則は限定されたエリアでの多数派閥であって、
それは要するに部族的ガバナンスの保全の為に例外(=裏切り)を排除するという、
極めて(社会的には)原始的な行動様式だと言える。
もしそうだとするとこれらは本能的感情レベルの話だから改善は難しい。
このような部族感情に流されやすい人は既存のルールや常識を
他者と共感するためのツールとして正当化しようという意識が強いので、
変化が嫌いで排他的であり、彼のような小物のしょぼい悪にはめざとい割に
自分よりも格式の高い人間の大きな悪事は見逃しやすく、
すぐに大勢に流れるためにコントロールされやすい。
堀江氏のブログのコメントには税金で行ってるんだからキチンとせんか、
というレスが多々あったが、その理屈ならば第一の批判対象は政治家などの公務執行者だ。
国母選手の社会への影響力なんてたかが知れている。
21歳のしょっぱい大学生を叩いても何も出るものはない。
彼が「常識的な真人間」になった所で誰も何も変わらないが、
鳩山首相がマトモにならない限り日本はゆったりと沈没する。
どう考えても問題の優先順位はこっちだ。
予想通り電子書籍の一件以来出版業界が騒がしい。
各出版社は相変わらず文化論を盾にロビー活動をしているがもうそんな非合理的な金の使い方はやめた方が将来の為だ。
本さえ読めればいいんだから出版文化になんて誰も興味無いよ・・・と考えてふと思った。
果たして「文化」とは一体何を指しているのだろう。
今まで何の気なしに使っていたがその実態はよく解らない。
とりあえずwikipediaで調べてみると、言葉の定義としてはかなり複雑らしいが、
重要なポイントは「人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のこと」のようだ。
今ひとつピンとこない説明だが、これは「みんながやっていること」と解釈して良いだろう。
この場合の「みんな」は孤独なマスでもいい。
例えばPS3でロールプレイングゲームをやっている人は家でプレイしている最中は孤独だが、
供給されたゲームは全世界(あるいは少なくとも製作会社の国)でプレイされているから、
孤独な作業をみんなでやっているとみなしていい。だからビデオゲームは文化だ。
もちろん、定年退職した仲間で朝10時にラジオ体操をするのも文化だし、
日本やアメリカのギタリストがyoutubeに演奏動画を投稿するのも文化だ。
まあ個別の例は何でも構わない。
今一度文化の本来の意味に立ち返って欲しい。
先に述べたように文化を「みんなでやっていること」という定義で考えた時、
それは保護するとか守るとか、そもそもそういった概念自体的外れという事に気づいただろうか。
「みんなでやっていること」なんだから、変節はして当たり前だ。
紙と筆という文化があったとしても、PCと表計算ソフトがあるのに給与明細を和紙に書いたりはしない。
つまり合理性に対して本来文化は抵抗出来ないはずなのだ。
それを今回の電子書籍の件のように、出版社が必死で「アナログの暖かさ」とか「紙の手触り」とか、
意味不明の古い文化を持ち出して合理性に抵抗する理由はただ一つ、
文化が既得権になっているからだ。
だが先にも述べたようにそもそも文化は既得権と(親和性はあるものの)一体であるようなものではなく、
ただ単にある集団が行っている習慣的行動にすぎない。
だから文化は守る必要も無いし、国や企業が合理性を無視してまで保護するようなものでもない。
第一そんな事をしたら、芸術産業の場合だと構造が歪む事によって競争力が低下し、
結果的に他の企業にシェアを食われてしまう。
しかし大抵の企業は既得権で食っていて、成功している所ほど変化を拒む。
そして変化を拒むが故に、ある産業において文化論が噴出するという事態が発生した場合、
その叫びはその産業が新たな合理性によって危機的状況にあるという明確なシグナルであると言える。
電子化の波がいち早く訪れた音楽業界を思い出してほしい
「音楽産業は今、インターネットという新たなインフラによって次々と破壊されていっています。
CDを買うという文化はアーティストという創作者にとって不可欠な対価です。
我々音楽出版社は常に作り手と作品のクオリティを第一に考え、皆様に最上級のサービスを提供したいと思っています・・・」