IT Medianewsで面白い記事があった。
東京都の八王子にある松栄山の了法寺で、
神仏が「萌えキャラ化」して参拝客が増えているという。
意外にも世の中には真面目な人が多く、2ちゃんねるですら
「檀家にどうやって説明するんだ」とか、「伝統を軽く見やがって」といった
保守的な意見が結構相次いでいた。
断言できるがこの絵も採用したお坊さんも、悪いところは一つもない。
宗教芸術は世界中に溢れているありふれたもので、それがただ単に
受けが良いであろうと推測されたアニメ絵で表現されてるだけに過ぎない。
絵画をはじめとする神仏の可視化とキャラクター化によって信者を集める行為は、
キリスト教よりも遥か以前から行われている非常に伝統的な手法である。
この手法を取り入れなかった宗教は多分この世に存在しない。
要するに客寄せの宗教芸術の一種なのだから、
これが批判されるのならダ・ヴィンチもレンブラントもゴヤもNGだ。
仏教に於いて格式だの伝統だの言っている人は勘違いをしている。
そんなものよりも仏が重んじているのは仏の前では衆人が平等であるという概念だ。
仏の姿がアニメの絵であろうが、運慶の仏像であろうがそんなものは関係が無い。
そもそも仏教に於いては仏像も絵も自分の心の投影を行うタダのデバイスに過ぎず、
修行になるのであれば仏像でなくとも石でもテレビでも何でも良い。
僕は宗教だからといって経済的な自由主義を無視していいとは思えない。
寺院の運営は経済活動そのものなのだから、神社や寺同士でも
自由競争によって収益を獲得する事を是とするべきだ。
既に現実はさまざまな寺や神社が乱立している実質的な自由競争状態なのに、
「坊主(神主)だから世俗まみれの金は稼がない」という
ダブルスタンダードは許容されるべきものではない。
第一お布施が非課税だとカルトな新興宗教の温床となる。
リーマンも坊主も仏の前には同じなのだ。
どちらかを特別に優遇する必要はない。
こういった状況は人間が元からもっているバイアス深く関わりがある。
人間は歴史的に見ると、数十人の少数集団での暮らしが圧倒的に長かった為、
身近な「ウチ」の利益を最大限に図る為に、
よく解らない「ソト」の損失は無視することにある。
こういったバイアスを最大限に肯定すると非常に大衆ウケする。
だから映画などの商業芸術ではよくある演出の一つとなっている。
例えばこんなストーリーを、一度は見た事があるのではないだろうか?
うだつの上がらない片田舎の警察官が大きな手柄を挙げ、
ノンキャリアとしては異例の出世コースの道が開ける。
しかし彼は「ここには妻も仲間も居ます。俺には出世なんて似合いませんよ」
と、お偉いさん達が居る席で令状を付き返す・・・。
ありがちだが、何故ありがちなのかが今回の重要なテーマだ。
冷静になって考えればこれは結構オカシな話で、
主人公である彼が優秀であればあるほど警察の損失は大きい。
では、何故彼の取った態度は好まれるのだろうか。
彼が良い人間であるかのように感じる理由は何処にあるのか。
この場合、権力に媚びないという意志の強さも確かにあるだろうが、
最大の理由は彼の「家族や仲間の側に居たい」という部族的感情が、
ほとんど直感で理解出来るからだ。
何をしているかよく解らない警察上層部なんかより、「身内である自分達の為に」
名誉も金も蹴って尽くす彼が最高に格好良く感じるのである。
映画なら、これは演出として許されよう。
だがこれは間違いなく人的資産の浪費である。
この場合で言うと、片田舎の巡査が出来る人間は山ほど居るが、
警視総監になって警察の腐敗を一掃する事が出来るのは僅かだからだ。
*追記
結構文章を修正した。僕はノリで書いてしまうと
読みづらいばかりか重ね言葉が多くなる傾向にあるようだ。
今後気をつけたい
アニメの殿堂が建設されるそうで、(国立メディア芸術総合センター)
あっちこっちからやいのやいの言われているみたいだ。
個人的には結構どうでも良い話なのだが、やはり効率と収益性に関して疑問が残る。
国がコミットするような産業は近年国内外を問わず失敗し続けていて、
日本では採算が全く取れない世界最速の京速計算機からNECや日立が手を引き、
米国では徹底的に政府から保護され続けたビッグスリーがあの有様だ。
シーメンスからの半導体部門を独立させたドイツのQimonda(旧infineon)、
同じく日本唯一のDRAMメーカーのエルピーダもいまや虫の息である。
国がある産業に関与するようになると、その産業は国の経済的支援を
収益性に含めるようになるので(この点は農業が顕著だ)、
結果的に収益性の悪い非効率な組織を延命させる。
かつて元気だった細胞が老化して癌化しているにも関わらず、
それを延命させて新陳代謝を行わせないとなれば結果的に人間自体が死に至ってしまう。
幸いアニメもゲームも「子供のアソビ」として国からは全く無視されていたので、
駄作も良作も百花繚乱という、表現に於いて理想的な状態を保持できていた。
それが日本のサブカルチャーが培ってきた本当の強みなのだ。
今回の一件も、政治家お得意の相変わらずの箱物行政ではあるが、
収益性の見通しが良いのならば、権利者に利用料を支払って勝手にやれば良い。
変なプロパガンダに使わない限り、使うのは自由だ。
現にイラクのサマワでキャプテン翼を給水車に書いたあのアイデアは、
少し驚いてしまう程センスが良かった。(こうかもばつぐん!だった)
繰り返しになるが、アニメもゲームもマンガも利用は自由だ。
だが絶対に国策としてコミットしてはならない。
ゴダールやトリュフォーに代表される半ば国策状態のフランス映画が
世界市場では相手にされていない現実を良く見て欲しい。
*追記
毎日新聞のソースでは自己収入での運営は不可能で
国費を117億要求するそうだ。今すぐ止めろ。
10億のアニメを10本作る方が遥かにマシだ。