第3期の歌人
1.山部赤人 生没年未詳。
藤原京から平城京中期にかけて生きたと思われるが、官位は極めて低く、もっぱら宮廷歌人として名を知られている。『古今集』の序には、柿本人麿と並び称されており、後代に与えた影響は大きい。『万葉集』に長歌13首、短歌37首があるが、その作品は大きく分けて二つの様式になる。一つは巻6の聖武天皇の行幸に従って、求めに応じて詠んだ従駕の歌の歌があり、いま一つは巻3や巻8に見られる平城京の宮人の風流の歌である。従駕の歌は長歌に反歌としての短歌が付された形をとっているが、その長歌は比較的短いものばかりで、人麿の長歌に見られた湧き出るような力強さを欠き、長歌形式を保つに必要不可決のことばのみに整理整頓されている。吉野離宮を詠んでも、長歌による正面からの讃歌にはならず、背景としての山川に関心が移って、反歌としての短歌の方で、清新にして澄明な自然把握が実現されている。赤人の歌の後代への影響からすれば、むしろ奈良の都の都雅の表れた歌が重要である。巻3の春日山に登って詠んだ歌(372、373)には都人の雅やかな恋が歌われているが、そうした恋の気分を伴う遊楽のモチーフは「春の野にすみれ採みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」(巻8・1424)などにも明白であって、よかれあしかれ、それはそのまま平城京の貴族の雅びに引き継がれていく。赤人と並ぶ聖武朝の宮廷歌人に笠金村、車持千年があった。
2.大伴旅人(665年~731年)父大納言安麿、母巨勢郎女の長男。のち氏の上を継ぐ。
大伴氏は代々武をもって朝廷に仕えた名門であった。南九州の隼人の乱鎮定の功あって、従三位、正三位と位階が進んだが、晩年、中央政界から遠ざけられて大宰帥となり、九州に下る。着任早々妻大伴郎女を失い、自らも病いに臥したが、一方、筑前の国守山上憶良や観世音寺の別当満誓沙弥との出会いによって、”筑紫歌壇”が形成され、その中心となって活発な作歌活動をした。大納言となって帰京したが、翌年67歳で病没。ときに従二位であった。『万葉集』には長歌1首、短歌60首あまり、『懐風藻』にも漢詩1首があるが、そのほとんどは大宰帥になってからの晩年の作品である。名高い『酒を讃むる歌13首」には漢籍の素養ある文人、知識人としての面が、いかんなく発揮されている。また「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻3・451)など亡妻を偲ぶ歌や、望郷の歌は、その端的な表現に著しい特徴がある。しばしば見すごされがちな贈答歌にも旅人の本領が表れている。その幅広い貴族的教養の上に立って、時と場合により、相手にとって自在に歌を詠み分ける作歌態度は新しい時代のものである。
3.山上憶良(660年~733年頃)
701年、無位の小録という微官で遣唐使の一行に加えられ、翌年渡唐。704年帰国した。伯耆守を経て東宮(のちの聖武天皇)に仕えたが、この頃、『万葉集』編纂の資料となった『類聚歌林』(現存しない)を編んでいる。晩年筑前守となって赴任、九州に少なくとも6年間在住して、その間に大宰帥大伴旅人らと交わり、多くの作品を残した。帰京して、翌年あたり没したと思われる。『万葉集』には長歌11首、短歌54首、旋頭歌1首、漢詩2首、ほかにいくつもの長い序文と、単独の散文「沈痾自哀文」(病気を自ら嘆く文)が収められている。(作者に異説のあるものも加えれば更に数が増える。)しかし憶良の作品は古典和歌史上ほとんど評価されず、近代に入ってもその傾向は変わらなかった。ただ戦後になって歴史学的見地からの評価が行われるようになったが、それも「貧窮問答歌」など一部の作品にとどまる。憶良は学者であり、読書人であった。無位無官から身を起して国守に至った閲歴は、その学識によって勝ち得たものである。その官吏としての人生は中国における士大夫の生き方に重なるが、わが国においては例外的なものと言わねばならない。経書や仏典などの書物から学んだものに、渡唐の経験を加えて形成された人生観、世界観を盛り込むには、当然和歌より漢文の方が適していた。おのずから序文は長くなり、四六駢儷体に倣った、みごとな文章が成された。ところが和歌にあっては、必ずしもその思想の様式化に成功しているとは言えず、かえって人生観、世界観をはみだしたところに「秋野の花を詠む」(巻8・1538)などの佳作が生まれている。 おわり
1.山部赤人 生没年未詳。
藤原京から平城京中期にかけて生きたと思われるが、官位は極めて低く、もっぱら宮廷歌人として名を知られている。『古今集』の序には、柿本人麿と並び称されており、後代に与えた影響は大きい。『万葉集』に長歌13首、短歌37首があるが、その作品は大きく分けて二つの様式になる。一つは巻6の聖武天皇の行幸に従って、求めに応じて詠んだ従駕の歌の歌があり、いま一つは巻3や巻8に見られる平城京の宮人の風流の歌である。従駕の歌は長歌に反歌としての短歌が付された形をとっているが、その長歌は比較的短いものばかりで、人麿の長歌に見られた湧き出るような力強さを欠き、長歌形式を保つに必要不可決のことばのみに整理整頓されている。吉野離宮を詠んでも、長歌による正面からの讃歌にはならず、背景としての山川に関心が移って、反歌としての短歌の方で、清新にして澄明な自然把握が実現されている。赤人の歌の後代への影響からすれば、むしろ奈良の都の都雅の表れた歌が重要である。巻3の春日山に登って詠んだ歌(372、373)には都人の雅やかな恋が歌われているが、そうした恋の気分を伴う遊楽のモチーフは「春の野にすみれ採みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」(巻8・1424)などにも明白であって、よかれあしかれ、それはそのまま平城京の貴族の雅びに引き継がれていく。赤人と並ぶ聖武朝の宮廷歌人に笠金村、車持千年があった。
2.大伴旅人(665年~731年)父大納言安麿、母巨勢郎女の長男。のち氏の上を継ぐ。
大伴氏は代々武をもって朝廷に仕えた名門であった。南九州の隼人の乱鎮定の功あって、従三位、正三位と位階が進んだが、晩年、中央政界から遠ざけられて大宰帥となり、九州に下る。着任早々妻大伴郎女を失い、自らも病いに臥したが、一方、筑前の国守山上憶良や観世音寺の別当満誓沙弥との出会いによって、”筑紫歌壇”が形成され、その中心となって活発な作歌活動をした。大納言となって帰京したが、翌年67歳で病没。ときに従二位であった。『万葉集』には長歌1首、短歌60首あまり、『懐風藻』にも漢詩1首があるが、そのほとんどは大宰帥になってからの晩年の作品である。名高い『酒を讃むる歌13首」には漢籍の素養ある文人、知識人としての面が、いかんなく発揮されている。また「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻3・451)など亡妻を偲ぶ歌や、望郷の歌は、その端的な表現に著しい特徴がある。しばしば見すごされがちな贈答歌にも旅人の本領が表れている。その幅広い貴族的教養の上に立って、時と場合により、相手にとって自在に歌を詠み分ける作歌態度は新しい時代のものである。
3.山上憶良(660年~733年頃)
701年、無位の小録という微官で遣唐使の一行に加えられ、翌年渡唐。704年帰国した。伯耆守を経て東宮(のちの聖武天皇)に仕えたが、この頃、『万葉集』編纂の資料となった『類聚歌林』(現存しない)を編んでいる。晩年筑前守となって赴任、九州に少なくとも6年間在住して、その間に大宰帥大伴旅人らと交わり、多くの作品を残した。帰京して、翌年あたり没したと思われる。『万葉集』には長歌11首、短歌54首、旋頭歌1首、漢詩2首、ほかにいくつもの長い序文と、単独の散文「沈痾自哀文」(病気を自ら嘆く文)が収められている。(作者に異説のあるものも加えれば更に数が増える。)しかし憶良の作品は古典和歌史上ほとんど評価されず、近代に入ってもその傾向は変わらなかった。ただ戦後になって歴史学的見地からの評価が行われるようになったが、それも「貧窮問答歌」など一部の作品にとどまる。憶良は学者であり、読書人であった。無位無官から身を起して国守に至った閲歴は、その学識によって勝ち得たものである。その官吏としての人生は中国における士大夫の生き方に重なるが、わが国においては例外的なものと言わねばならない。経書や仏典などの書物から学んだものに、渡唐の経験を加えて形成された人生観、世界観を盛り込むには、当然和歌より漢文の方が適していた。おのずから序文は長くなり、四六駢儷体に倣った、みごとな文章が成された。ところが和歌にあっては、必ずしもその思想の様式化に成功しているとは言えず、かえって人生観、世界観をはみだしたところに「秋野の花を詠む」(巻8・1538)などの佳作が生まれている。 おわり