CHIHIROCK

死ぬまでROCK。
死して屍拾うものなし。

武士道

2007年08月07日 00時16分32秒 | Weblog
「武士道」とは日本が誇る生き方です。

僕は本当に武士道に憧れます。

男の中の男です。

ちなみに、武士道は二つあって、リアルタイムの武士道は「卑怯でも生き残ったほうが勝ち」のようなニュアンスがあるようです(ウィキペディア参照)

ちなみに僕が言ってるのが近代の武士道です。

正々堂々とした生き様。
胸を張った生き様。
真っ向勝負の生き様。
自分に嘘をつかない生き様。

どれをとっても最高です。

ちなみに「武士道とは死ぬことと見つけたり」という意味をご存知でしょうか。

普通は生と死のいずれかを選択しないといけないときには生を選ぶ。
それは誰もが生きたい思うから。
そちらに理屈をつけて生きてしまう。
そこで死に目をそらさないことが武士道であって、それほどの覚悟ができている者こそが武士であるらしいです。

うん、カッコよすぎる。

意地の通し方がいいと思います。

武士道は日本の魂だと思います。

勉強の意味

2007年08月06日 00時35分05秒 | Weblog
どうも、お久しぶりです。

「10分で更新できるから更新頻度を上げます。みんなアクセスしてね」
といった人は誰だっただろうか。

みなさん、これが人間ですよ。

さて、普通の人は義務教育があるので9年間という年月を勉強に費やします。

もちろん、机の上の勉強だけではなく社会の勉強とか人間関係の勉強とかいろいろあります。

で、よく皆いうわけですよ「学校の5教科ってなんの役に立つよ?大人になっても使うのはほんのわずかで、因数分解なんて使うはずない。だから意味がないよ。」てね。

まぁ、一理あるわけですよ。
僕も5教科7科目やってきたわけで、高校卒業してから因数分解やら3次方程式やら使ったことがありません。

でもね、教科自体は活躍する機会は少なくてもそれらが他の思考にリンクしてくれる機会は多いわけで。

僕が勉強し始めたのは中学校3年の11月くらいでした。
そのころは一日12時間はやってました。
それまではテスト前に軽くやるだけで、勉強が習慣ではなかったです。
んで、どうしても第一志望の高校に入りたくて学校では間違いなく自分よりは勉強している人はいないというくらい勉強しました。

成績は著しく伸びたものの、1月の第三志望の私立には受かったが、第二志望の私立に落ち、気合で間に合うかどうかという3月の第一志望の公立の落ちました。

まぁ、やれば伸びるってことだから高校では毎日勉強しよう。

ということで、高校3年間で勉強しなかった日は一日もありませんでした。
基本3時間、どうしてもきついときでも1時間はやってました。
受験の時期になると暇さえあれば勉強っていう体制になりました。

それでも浪人することになって、浪人時代は常に受験生なんで死ぬ気で勉強しました。

さて、成績以外で変わったものはなんでしょう?

考え方が変わったようです。
常に考える癖、いろんな見解を参考にできる癖、広いビジョンでみる癖、などです。

以前母親が「お母さんはね、勉強って何の意味があるかわからなかったけど、あんたを見てその意味がわかったよ」て言ったことがあります。
僕が勉強し始めた中学校3年の11月から考え方や性格が目に見えるように変わったというのです。

毎日見てる母親なのにその変化が見えるということはよほど顕著だったのでしょう。

なぜこのようなトピックになったかというと、昨日親友と電話してるときに母親とまったく同じことを言われたのです。
「お前は本当に変わったな。あれほど聞かん坊だったお前がな。その理由は勉強だと思う。勉強の意味をお前が教えてくれたし、一緒に勉強してきた俺も変わったという実感がある。」と。

僕達が高校時代に親友は「俺近いうちに予備校に通おうかと思ってるけどどう思う?」と聞いてきました。

彼が予想した僕の答えは「何言ってるの?進学クラスで朝7半から授業やってるし、夜も遅いし、夏休みの8割は補習、ただでさえ私立で学費高いのに予備校まで行ってどうするの?」といものだったらしいです。

しかし、高校3年になってた僕は「それでいいと思うよ。君の選んだ道だし。一生で大切な進路だから親も理解してくれると思う。俺はその選択はとらないけど違うやり方で一緒に第一志望の大学に行こうぜ!」と言ったらしく、中学校の頃の僕とのギャップに驚いたらしい。

中学校の頃も今も物事を判断した結果の答えは同じになることが多い。
ただ、いろんなアルファベットを知った上で「A」という答えを出すのと、「A」というアルファベットしか知らないくせに「A」という答えでは大違いだと思うのです。

そして、「A」というアルファベット以外の選択肢を人から素直に聞き入れることができるようになったのも勉強のおかげだと思います。
少なくとも僕と母と親友の三人は確信していますし。

大学に入ったすぐでも「聞かん坊」のレッテルは貼られてたみたいですが、大学は自覚がありません。
一応他人に意見は聞いた上で、そして人の意見を吟味した上で結局自分の答えに戻ってきたつもりだったのですが、あまりにも自分の答えに戻る率が高かったために「あいつは自分の意見しか通そうとしない」と思われてたような気がします。

ちなみに小学校の頃は、算数の教科書に載ってた「たかし君とよしこさんではどちらの解き方がやりやすいですか?」という問いに断固たかし君を押し通して先生に怒られたことがあります。
泣きながらもたかし君を支持した僕は情けないようでたくましくもあったと思います(globeの歌詞から抜粋)
そこまで信念を通せる自分は今は存在しないです(方向性は間違ってますが)

だいぶ遠回りしましたが、勉強の意義はあとになってわかってくるものだと思っています。
意味がないことはないです。
ちゃんと思考にリンクしてます。
たとえテストでいい成績をとるための知識が失われていってもね。

アインシュタインの言葉を借りるなら「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているところのものである」ということです。

A4一枚半くらいの字数になったのでそろそろ終わりとします。
ではでは・・・。