諸葛氏の起源は、「諸県から陽都に移住してきた「葛氏」」と、ほかの「葛氏」との区別を
するために、「諸葛氏」と名乗ったのが起源とされている。
後漢の光和4年(西暦181年)9月1日に諸葛珪(しょかつ けい)の次男として生まれる。
本名は「亮(りょう)」(明るいことを意味する。)。
その当時の、諸葛珪は、泰山郡の現代の副知事相当の行政官の「丞(じょう)」で俸禄は
二千石を得る家柄であった。
諸葛亮は後年、しきたりにより自分であざなをつけるときに「孔明(こうめい)」(はな
はだ明るいを意味する)を、選んだのである。あだ名は、「臥龍(がりゅう)」(伏して
寝ている龍のこと)劉備(りゅうび)が「蜀(しょく)」という国を興し、覇権を拡大
しようとすることで、優秀な軍師を求めて田舎に隠棲していた「臥龍(がりゅう)」の
諸葛孔明のもとを訪れたが、孔明になかなか会えず、劉備は再訪を重ね、三度目にやっと
会うことができ、そのことから「三顧の礼」ということわざが生まれた。
中国の三国時代(魏、蜀、呉)の、西暦228年、魏と蜀による「街亭での戦い」で、馬謖
が指揮を執る蜀軍が、魏の張郃が指揮を執る魏軍に敗れた。この戦いで敗れた蜀軍は全軍
撤退を余儀なくされ、第一次北伐は失敗に終わった。
その原因、孔明は、馬謖の機智才略を評価して全軍の指揮をゆだねた。しかし、馬謖は
自分の才に溺れてしまった。馬謖起用には反対もあったが、孔明はあえて強行した。
その信頼を裏切られたのである。馬謖は軍の獄につながれ、孔明はその処分をきめなけ
ればならない。「斬る」と」いう字を、孔明は判決文に書いた。その文字の上に、涙が
落ちた。「泣いて馬謖を斬る!」の、ことわざが生まれたのである。
その後、諸葛孔明は建興12年(西暦234年)8月の五丈原の戦いの陣中で病に倒れ、
享年54歳にて死亡するまで劉備(劉備亡き後の後継者劉禅も含め、蜀の国の)の軍師
将軍を務めた。