「古典の授業は無駄。社会に出て役立った
試しがない」という意見が話題になっている。
結論から言うと、「無駄」とか「社会で役立た
ない」とかピントがずれた事を言うのは、私が
思うに恥ずかしいことである。
何故なら、古典や美術や音楽は教養だもの。
そもそも「実生活に役立つ」として教えている
わけではないのである。
それも理解できないのだから、「私は思考力
ゼロで~す」と言っているのと同じ。
美術と音楽はさて置いて、問題視されている
「古典」に就いて少しばかり擁護したい。
NHK俳句番組に漫才師アンタッチャブルの
柴田君が司会者として出演しているが、彼は
古典素養が皆無なのが見ていてよくわかる。
「行きぬ」と「行かぬ」の意味がわからないと、
番組内で正直に言ってくれるからだ。
つまり中学校で確実に習ったことを記憶して
いない、ということになる。
で、私は、それぐらいは理解できた方がいい
のでは・・・と思うのだ。
「行きぬ」の「ぬ」は終助詞であり、「行かぬ」の
「ぬ」は打消しであることは文法だからどうでも
いいが、文章の意味もわからないのでは少し
ばかり読書の際に困るのでは・・・と思うわけ。
も一つ例を挙げるとすれば、「我は行かん」は
「行くのか、行かないのか」などね(笑)
私の場合、短歌という文芸に出遭った時から、
どうしても古典文法が必要になった。
仮に「自分は100%口語体で詠む」と決めた
としても、他の歌詠みが文語体で詠むならば
鑑賞する際に知識として必要になるからだ。
古典授業が無駄と言う人は日本各地の旧所
名跡に行っても理解できないことが多いことに
なるだろうが、確かにそれは生活に響かない。
でも、知って楽しいことが沢山あるのも事実。
要するに、タイパとかコスパとか言って何かを
している感を醸し出している人らの言い分と、
私は断定するのであり、だったら「三擦り半で
射精しなさい」と言いたくなるのである。
言っておくけど、人生の殆どが無駄と言えば
無駄なのは、わかってるでしょうに。
「あなたの存在だって無駄でしょ」と言われぬ
ように口は慎むべきであろう。