街を歩きながら発見した「ちょいといい話」。
もしかしたら松山の皆さんは御存知なのかもしれないが、移住者
の私は初めて知ったので、本日は全国の皆さんにPR。
信号のない小さな交差点にひっそり建っている石碑。
そこには、次のような文章が彫られていた。

明和の頃(江戸時代・西暦なら1770年前後)の話。
伊予に「おきよ」という奇特な才女あり。
街に疫病が流行り、献身介抱して人を選ばず。
寝食を忘れて尽くし、疫病は漸く治まったが、おきよが
疫病に倒れ、命を落としてしまった。
人々は嘆き悲しみ、小祠を造り、その徳を偲んだ。
それ以来、界隈は「喜与町」と呼ばれるようになった。
私は、その小さな祠を探したが見つからず、きっと碑のある所に
祠は造られたのであろうか、と想像した。
「喜与町」は城山(松山城)の東の麓にある一丁目と二丁目だけ
の小さな街である。
碑のすぐ隣りには大きな「まどんな病院」があって、何やら女性に
優しい街の雰囲気に溢れている。
「喜与」の字は後世に考えられた当て字なのだろうが、おきよさん
の生き方にぴったりの名前になった。
「献身的な介抱は人を選ばなかった」という点がグッと来るね。
身分差が大きくあった時代だからである。
「歩き」じゃなきゃ、おきよさんに触れることはなかったかも・・・。
もしかしたら松山の皆さんは御存知なのかもしれないが、移住者
の私は初めて知ったので、本日は全国の皆さんにPR。
信号のない小さな交差点にひっそり建っている石碑。
そこには、次のような文章が彫られていた。

明和の頃(江戸時代・西暦なら1770年前後)の話。
伊予に「おきよ」という奇特な才女あり。
街に疫病が流行り、献身介抱して人を選ばず。
寝食を忘れて尽くし、疫病は漸く治まったが、おきよが
疫病に倒れ、命を落としてしまった。
人々は嘆き悲しみ、小祠を造り、その徳を偲んだ。
それ以来、界隈は「喜与町」と呼ばれるようになった。
私は、その小さな祠を探したが見つからず、きっと碑のある所に
祠は造られたのであろうか、と想像した。
「喜与町」は城山(松山城)の東の麓にある一丁目と二丁目だけ
の小さな街である。
碑のすぐ隣りには大きな「まどんな病院」があって、何やら女性に
優しい街の雰囲気に溢れている。
「喜与」の字は後世に考えられた当て字なのだろうが、おきよさん
の生き方にぴったりの名前になった。
「献身的な介抱は人を選ばなかった」という点がグッと来るね。
身分差が大きくあった時代だからである。
「歩き」じゃなきゃ、おきよさんに触れることはなかったかも・・・。