本寺は、日蓮宗の寺院です。日朗を開山として文応元年(11260)に創建されました。もとは比企能員の屋敷で、建仁3年(1203)、比企の乱で比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でもあります(悲劇の比企一族)。その後、比企能員の末子の比企大学三郎能本が日蓮上人のためと比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まりです。境内には日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑があります。本尊は十界大曼荼羅御本尊
比企 能員(ひき よしかず)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。阿波国または安房国出身とされる。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となる。
比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡した。
比企一族の供養五輪塔右から
・能本 日学
・能本 日学の室
・比企 能員
・能員 能員の室
比企氏の滅亡
源頼朝が亡くなると二代将軍には長男の頼家が就任した。
比企館で誕生した頼家は、能員の妻を乳母とし、さらに、能員の娘若狭局を側室としたことにより、母北条政子やその実家である北条氏より比企氏を頼りとしていた。
その上、頼家は、伊豆のころより頼朝に仕えていた安達盛長の息子景盛の嫁を横取りしたり、蹴鞠に夢中になるなどの乱行もあったと『吾妻鏡』は伝えている。
1203年(建仁2年)、頼家が病気(危篤状態だったといわれる。)になると北条時政と政子は、頼家の弟実朝を将軍職に据える画策をした上で、能員を時政邸におびき出し、仁田忠常に命じて能員を暗殺、時政の子義時らは比企館を攻めて一族を滅亡させた。
病から癒えた頼家は、頼みの比企一族を滅ぼされた上、将軍職まで失ってしまう。
時政らは、頼家を伊豆修禅寺に幽閉し、のちに暗殺した。
頼家の嫡子一幡は、比企一族とともに焼け死んだと伝えられている 一幡の供養塔
二天門よりの右手に低い竹垣に囲まれた一角に袖塚がある
二天門の右山裾に大きな五輪塔
祖師堂 二天門前に大きな建物がある
この祖師堂はその棟札から天保9年(1838年)建立と推定されている
桁行五間、奥行6間瓦葺の入母屋造りです
本堂は右手に下がったところに
本堂は昭和6年再建された建物です
本堂近くでお弁当を食べていたところ寺の僧から注意を受けた
境内で食事すときは事前許可が必要とのことでした