第二次パープル問題

<15代目フーシェ>が管理人のハンネです 

自民党 谷垣幹事長 <衆参ダブル選>を否定せず

2015年11月30日 | 日記

衆参同日選、否定せず 自民幹事長「可能性いろいろ」

産経新聞 11月30日(月)7時55分配信



 自民党の谷垣禎一幹事長は29日、次期衆院選が来夏の参院選との同日選になるかどうかについて「いろいろな考え方がある。いろいろな可能性はある」と述べた。東京都内で行われた自民党立党60年記念式典後、記者団に語った。

 谷垣氏は「決め打ちで、『こう』というわけでもないだろう」とも指摘し、安倍晋三首相が政治状況を見極めた上で、衆院解散の是非を判断するとの見方を示した。

 政府・与党は通常国会を例年より早い来年1月4日に召集する方針で、会期を延長しない場合、会期末の6月1日に衆院を解散すれば、7月10日投開票の日程で参院選と同日選が可能になる。

 衆参同日選について、自民党の佐藤勉国対委員長も28日の秋田県大仙市での講演で「甘く見ないで、来年ダブル選挙があるかもしれない」と可能性に触れている。選挙協力や候補者擁立が遅れている野党は警戒しており、自民党幹部が相次いで言及したことで、さまざまな臆測を呼びそうだ。

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 いよいよそういった空気になってまいりましたね 来年は選挙の年になりそうですなぁ

私のハンネの元ネタ<ジョゼフ・フーシェ>について フランスの警察大臣(警察庁長官)

2015年11月30日 | 日記
ジョゼフ・フーシェ(仏: Joseph Fouché, 発音例, 1759年5月21日 - 1820年12月25日)は、フランス革命、第一帝政、フランス復古王政の政治家である。ナポレオン体制では警察大臣を務めてタレーランと共に主要人物。特に百日天下崩壊後は臨時政府の首班を務めてナポレオン戦争の戦後交渉を行った。

近代警察の原型となった警察機構の組織者で、特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名で、権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であったとされ、「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。後世からは「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」[要出典]と評された。オーストリアのユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクによる評伝が有名。



目次 [非表示]
1 略歴
2 家族
3 脚注 3.1 注釈
3.2 出典

4 参考文献
5 関連書籍 5.1 フィクション作品
5.2 その他

6 関連項目 6.1 フーシェになぞらえられた人物

7 外部リンク


略歴[編集]

ナント近郊のル・ペルラン出身。父は船員で、フーシェにも後を継がせるつもりだったが、体が弱く、勉学の才があったためにナントのオラトリオ教団[注 1]で学ぶ。その後、僧籍には入らずに、同教会所属の学校で物理科学を教える教師となった。なお、この時期に北部の町アラスにおいて、カルノーや無名の弁護士であったロベスピエールと交わり、彼の妹と交際している。

こうした面々とのつながりから政治運動に目覚めたフーシェはフランス革命後に教会を否定する非キリスト教化運動(英語版)に関わるようになって、1792年に国民公会の議員に当選し、パリに向かった。当初は同郷であるジロンド派に近い穏健共和派の立場であったが、国王ルイ16世の裁判の際に処刑票を投じ、それを契機にジャコバン派内の山岳派に鞍がえした。これによりジロンド派追放から免れるが、国王殺しの罪が後に尾を引くことになる。

ロベスピエールによる恐怖政治を支持して革命運動に身を投じ、1793には私有財産を禁じる法令をナント州などで発布し、リヨンの大虐殺を指導するなど辣腕をふるうが、その後ロベスピエールと対立した。テルミドール9日のクーデターに参加し、情報収集能力の高さを評価されて総裁政府の警察大臣を務めた。ブリュメール18日のクーデターでは体制側であったが、ナポレオンの政権奪取に貢献し、統領政府でも引き続いて警察大臣に就任した。1800年のサン・ニケーズ街暗殺未遂事件の阻止には失敗したが、その入念な捜査でカドゥーダルの陰謀を暴き、王党派を一網打尽にすることに成功。終身制に反対して一時失脚するが、アンギャン公事件で再評価され、ナポレオン1世の帝政において警察大臣、元老院議員を歴任した。

フーシェは総裁政府時代から密偵を雇い、秘密警察を使って国家のあらゆるものを監視させたと言われる。ナポレオンの私生活まで監視し、「奴はネコみたいな顔をして、ネコのように小賢しい」と言われ、「私はタレーランは信用したが、フーシェを信用したことは一度もない」とまで吐露される。それでいてナポレオンは、フーシェを厄介払い出来ず彼からの報告書には欠かさず眼を通し、一方フーシェもナポレオンにいくら面罵されても顔色一つ変えず自分の意見を淡淡とのべていたという[要出典]。

1808年に衛星国ナポリ王国のオトラント公爵に叙されるが、タレーランと同様にナポレオン帝国の崩壊を予想して、次政権の構想を画策し始める。翌年イギリス軍がベルギーに迫ったときに独断で国民軍を編成し、ベルナドットを司令官に据えた越権行為、対英和平交渉が露見して辞職した。この時の駐仏オーストリア大使シュヴァルツェンベルク(英語版)は、「ナポレオンをなだめられる唯一の人物が全国に惜しまれつつ去った」と本国に報告している[要出典]。その後、1813年、短期間であったが、ジュノー将軍の後任としてイリュリア州総督を務めた。

百日天下では再びナポレオンを支持して警察大臣に再復帰。崩壊後、退位したナポレオンに代わって臨時政府首班となり、ルイ18世をパリに迎えたが、首班の地位はタレーランに奪われた。王政復古でも短期間だけ警察大臣となったが、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズは、フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。1815年8月、フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、ザクセン王国(当時はドイツ連邦の加盟国)駐在大使としてドレスデンに左遷された。1816年1月9日、パリの議会による百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放するというフーシェを狙い撃ちにする決議により国外追放される形でプラハに亡命した[1]。

その後はオーストリアのリンツ、イタリアへと渡り歩き、1820年にトリエステで死んだ。晩年は家族と友人に囲まれた平穏な生活を営み、人が変わったように教会の参拝を欠かさなかったという。フーシェは死ぬまで敵対者の個人情報を手中に収め、保身に成功した。オトラント公としての居城跡地のフェリエール城(英語版)があるセーヌ=エ=マルヌ県・フェリエール・アン・ブリー(英語版)に埋葬されている[2]。
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 私はかってに<フーシェ15世>を僭称(せんしょう)していますが、現在もフーシェ家はスウェーデンに土着し、第8代フーシェさんが現在の当主ですね。


 フーシェは生まれは第3身分の平民で、船乗りの息子でしたが、からだが弱くて船乗りには向かず、数学(物理学)の教師になりました(たしかキリスト教の教会の教師だから僧侶と兼業)*あっと失礼、{オラトリオ教団}所属ですが、僧籍には入らなかったそうです*そこからフランス革命の混乱期に、代議員として、パリでそれなりに活動しているうちに、リヨンに派遣され、そこでの仕打ちから<リヨンの霧弾乱殺者>とかよばれることに、ルイ16世の死刑投票には賛成したフーシェでしたが、宿敵のロベスピエールを打倒することに成功しましたが・・・・・その後はしばらく充電期間。総裁政府ではじめて<警察大臣>になったものの、閣僚でありながら、総裁政府打倒のナポレオンの考えに同調して、総裁政府を打倒し、ナポレオン主導の統領政府に参加、引き続き警察大臣をつとめる。

 ナポレオンが権力の中枢にいた<1798年から1814年>までは、外務大臣のタレーランと並んで、ナポレオン政権の車の両輪(タレーランとフーシェ)として活躍、1813年にナポレオンが前年のモスクワ遠征で大敗北した次の年に、一時的に<イリュリア州総督>になったものの、戦わずして降伏した(ってか、さっさと逃げ出した)

 <<<ナポレオンがエルバ島に流刑になったあとの、ルイ18世の<復古王政>では役職につけなかったものの、ナポレオンがエルバ島から脱出した<100日天下>では、ふたたび警察大臣になり、絶大な権限をもった。
 ナポレオンが、1815年のワーテルローの戦いで、連合国に敗北した時には、パリはフーシェの手中にあった。ルイ18世が、ナポレオンがいないパリを奪還するにはフーシェの協力が不可欠だったために、タレーランの提案で、フーシェを警察大臣として、タレーランとフーシェは{臨時政府首班}となる。首班の地位はまもなくしてタレーラン単独になるが>>>

 しかし、復古王政での栄光時代は長続きせず、両親と弟(ルイ17世)を革命で殺されたルイ16世とマリー・アントワネット王妃の娘の<マリー・テレーズ>が、フーシェとの会議にはイスをけって同席しなかったり、昔ながらの古い保守的な貴族たちのせいで、フーシェはフランスにはいられなくなり、今のドイツのドレスデンの大使となり左遷された。

 その後は各地を転々とし、最終的には、イタリアのトリエステで死んだ。若いころは教会を破壊していたくせに、最晩年は、よきキリスト教の理解者となり、教会にあししげく通っていたという。
 タレーランは最後には塗油を受けたが、神さえもあざむいた。しかしながら、フーシェは、死ぬ間際はキリスト教の信仰者に、普通の信者に戻りたかったのだと思う。
 昨夜、NHKの<新・映像の世紀>で、1920年代のアメリカの好景気とグレートファミリー(大富豪)について放送していたが、初代ロックフェラーが1937年に97歳で死んだときに、同じく富豪の自動車王の<フォード>に「さようなら また 天国で会おう」と言ったが、フォードはこう切り返した「あなたが天国に行ければね」

 どんなに巨万の富を集めた人であれ、権力者に登りつめた人であれ、死んだら天国に行きたいらしい。死後の世界があると信じているから、人間は生きていけるのだろう。私もカトリック(キリスト教)の一員としては、死後の世界があることを純粋に信じたいものだ。


フーシェとおなじ激動の時代を80歳までいきのびたタレーランの画像
 

 

豚政連(とんせいれん)って知ってましたか?

2015年11月27日 | 日記
政治団体・日本養豚政治連盟(トンセイレン)参加についてのお願い



  漸く春を感じる季節となりましたが、枝肉価格の低迷、飼料、燃料など生産資材の高騰等、業界として明るい話題が聞かれない中でのTPP参加に向けた動きは何としても阻止していかなければなりません。また、益々厳しい生産環境が想定される中で生産現場の声を高め強く発信していくためのロビー活動は不可欠と考えます。

 今回JPPA役員(生産者)が中心となり『日本養豚振興政治連盟』が組織されました。参加資格は個人であります。

 将来の養豚産業を維持・発展させるためにも、ナイスポークチバ推進協議会会員一人一人がこれに会員として参加願いますようお願い申し上げます。

             ナイスポークチバ推進協議会 会長  平野 拓歩  






                                   平成24年3月25日

      JPPA会員  各位

                

                発起人:(順不同)

                     北海道:富樫  儀禮   ・  中岡    勝

                     青森県:山崎   伸 ・ 岩手県:遠藤  啓介

                     秋田県:丹尾 久剛 ・ 福島県:中野目 正治

                     栃木県:星   正美 ・、群馬県:都丸  明浩

                     埼玉県:松村 昌雄 ・ 千葉県:平野  拓歩

                     神奈川県:志澤  勝 ・ 長野県: 川上 康治

                     愛知県:稲吉  弘之 ・ 大阪府: 川上 幸男

                        岐阜県:栗木  鋭三   ・  橋枝   浩

                     愛媛県:竹内 日出男 ・ 長崎県:上野 孝幸

                     熊本県:中尾  正弘 ・ 大分県:福田   実

                     宮崎県:日高  省三   ・  香川   雅彦

                     鹿児島県:大迫  昭蔵 ・沖縄県:我那覇 明

    政治団体・日本養豚政治連盟(トンセイレン)参加のお願い

  我国の養豚を取り巻く状況は年々厳しいものがありますが、今般のTPP加入問題で、もし我国が参加と言うことにでもなったら、国内の養豚の70%は廃業に追い込まれると農水省が試算しています。しかしこの試算が正しいでしょうか。



 現在は輸入豚肉に差額関税制度が国境措置として、国内養豚の保護を目的に設定されています。裏ポーク事件の多発はあるものの、安い海外豚肉の輸入への歯止めになっている事も事実であります。しかし、TPPで完全に国境措置が廃止されますと、枝肉換算でキロ当たり200円以下の豚肉が国内になだれ込んできます。そこで価格競争になっても銘柄豚は残るというのが農水省の試算ですが、養豚を含む畜産農家の大幅減少でエサや資材のコストが上昇し、出荷頭数の減少でと場の運営が困難になること等、どのように考えましても我国の養豚が大変な窮地におちいることは明白であります。



 このような議論をJPPAの役員会等で何度も話し合いを行い、この危機を回避するためには、自助努力を十分に尽くすことは当然ながら、やはり政治の力に頼るしかなく、政治家と密に連携を取った行動が必要であるとの結論に達しました。今までのJPPAでもこのような見地から、例えば100億円規模の全国肉豚事業獲得等の畜政活動を行って参りましたが、政治資金規正法等の法律から活動は制限されていました。そこで生産者が政治団体を組織してダイナミックな畜政活動を行う目的で『日本養豚振興政治連盟』をこの度、私共発起人で設立申請を行うことと致しました。



 つきましては、次世代へ我国の養豚産業を引き続き守っていくために、お一人でも多くの同志の方がこの主旨に賛同されて、『日本養豚振興政治連盟』へ参加されますことをお願いいたします。

 尚、お問い合わせやご意見は、発起人の一人でもあるナイスポークチバ推進協議会又は事務局までお問い合わせください。

 なお、お近くの仲間へも呼びかけ頂ければ幸いです。









 日本養豚振興政治連盟規約

   1.名  称 本会は日本養豚振興政治連盟(略称:豚政連)と称する。

   2.事務所 本会の事務所は、東京都内に置く。

   3.目 的 本会は、我が国の養豚産業の振興を図るために、養豚生産者が主体となって必要な政治活動を行うことを目的とする

   4.事 業 本会の目的を達成するために、次の活動を行う。

 (1)研究会、講演会の開催

 (2)関係方面への要請・宣伝活動、及び印刷物の発行

 (3)その他目的達成のために必要な事業

   5.会 員 本会の目的に賛同する養豚生産者及びそれに関連する者を会員とする。

   6.役 員 本会は次の役員を置く。

   会長(1名)、副会長(5名以内)、幹事長(1名)、幹事(30名以内)、会計責任者(1名)、会計職務代行者(1名)

           役員の任期は2年間とする。

           但し、設立初年度は任期を1年とする。

    7.会 議  本会は、会員を招集して年1回の総会、並びに必要に応じて臨時総会を開催する。また、役員による執行部会議、幹事会を随時開催する。

    8.経 費 本会の経費は、会費、寄付金、その他の収入をもって充てる。

    9.会 費 本会の年会費は1口10,000円以上とする。尚、計算目安は、経営規模に応じて、飼養母豚1頭当り200円とする。

   10.会計年度 本会の会計年度は毎年1月1日から12月31日までとする。

11. その他

       附則:本規約は平成24年3月1日より実施する。



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 自民党とつながりがあり、献金してきたようです。

そもそもタレーランってどんな人物?

2015年11月27日 | 日記
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord, [talɛrɑ̃ perigɔr] 発音例1発音例2, 1754年2月13日(2月2日説も)[1] - 1838年5月17日)は、フランスのフランス革命から、第一帝政、復古王政、七月王政までの政治家で外交官である。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨した。日本では一般に「タレーラン」と略される。

姓はタレーラン=ペリゴールで、現代でもフランス有数の大貴族であるが、ブルボン王政ではオータン司教、第一帝政ではベネヴェント大公であった。日本語でのカナ表記はタレーランまたはタレイラン[注釈 1]。有名な画家ウジェーヌ・ドラクロワは、その容貌、容姿の酷似やフランス政府の保護などから、息子ではないかといわれる。フランス第二帝政の政治家シャルル・ド・モルニーは孫。



目次 [非表示]
1 生涯
2 評価
3 エピソード
4 語録
5 脚注 5.1 注釈
5.2 出典

6 参考文献
7 関連書籍
8 関連項目


生涯[編集]

シャルルマーニュの末裔ペリゴール伯爵の直系子孫を自称する名門貴族の家柄で、タレーラン侯爵の次男の伯爵家の長男として生まれたシャルル=モーリスは、内反足で片足に障害を持っていたため、父の職責であった連隊長の後を継ぐことができず、父の指示で聖職者の道に進んだ。パリのサン・シュルピス神学校とソルボンヌ大学で神学を修め、1775年、ランスのサン・ドニ修道院長の職に就いた。1779年に司祭に叙階され、当時から反ローマ的な風潮の強かったフランスの教会においてもガリカニスムの急先鋒として知られた。一族の影響力によって順調に出世し、1788年にルイ16世によってブルゴーニュのオータン司教に任ぜられた。

1789年に三部会の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進した(万国共通の単位の制定〈後のメートル法〉を国民議会に提案したのも彼であると言われている)。1790年に国民議会議長に選出されるとともに司教職を自ら辞したが、ローマ教皇ピウス6世から、それまでの反カトリック教会的行為を咎められて破門されている。

1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるが、フランスでジャコバン派による恐怖政治が吹き荒れたのでそのまま亡命し、アメリカ合衆国に渡った。

1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府の外務大臣となるが、1799年に辞任する。ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日のクーデターの陰謀に参加し、成立した統領政府で再び外務大臣となり、リュネヴィルの和約およびアミアンの和約の成立に貢献し、ナポレオンから高い評価を得る。1803年、ナポレオンの指示でサントル地方のヴァランセ城 (fr) を購入・所有し、外賓の接待に使用した。ナポレオンの皇帝就任後は侍従長も兼ねたが、ヨーロッパ列強の勢力均衡を図ろうとする彼の考えと、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大戦略とは相容れず、1807年に外相を辞任。帝国顕官(フランス語版)副大選挙人、元老院議員に就くも、ジョゼフ・フーシェとともにナポレオンの失脚を計画した。

1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席した。この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。

1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年、肺壊疽により死亡。自らの居城だったヴァランセ城近郊にあるノートルダム礼拝堂に埋葬された。

評価[編集]

「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高い。

ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認めあったが、必ずしも親しい関係ではなかった。タレーランの老獪な政治手法をナポレオンは「絹の靴下の中の糞」とこき下ろすこともあった。タレーランは、変節の政治家として嫌われることも多いが、名外交官としてオーストリアのメッテルニヒと並び称され、今も評価が高い。メッテルニヒとともに外交の天才と称されることもある。タレーランは、長年対立関係にあったイギリスとフランスの同盟関係を固め、19世紀と20世紀の200年続く両国の協調と同盟の基礎を作った。両国の同盟関係により後の第一次世界大戦と第二次世界大戦のフランスを勝利に導いたのはタレーランの外交の遺産であった。

タレーランが提案したメートル法が世界の多くの国で度量衡の基準として広く用いられている。

現在でも、欧米では交渉の場で卓越したものの代名詞として使われる。

エピソード[編集]

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2015年4月)
美食家として知られ、シェフとしてアントナン・カレームを雇い、ヴァランセ城に居住させた。重複のない、季節の食材のみを使用した1年間のメニューをつくる事を命じている。ウィーン会議の間もたびたび夕食会を主催し、そこで出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名をヨーロッパ中に広げるきっかけとなった。
あるとき、タレーランは2匹の大きな鮭を入手した。これは、当時としては大富豪でもなければ不可能なことだった。さっそく客たちにふるまうことにするが、しかし2匹同時に食卓に出せば自慢と受け取られ、反発されることも予想される。そこで、1匹目の鮭を客の目前でわざと皿から落として料理を台無しにしてしまった。残念がった客に2匹目の鮭を持ってこさせたため、客はおおいに喜んだといわれる[2]。

語録[編集]

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2015年4月)
1789年以前に生きたことのない人に、人生の甘美さはわからぬ。
カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い[注釈 2]
快楽さえなければ、人生はきっと耐えうるものだろう。
誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。
言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。
暗殺とは、ロシアでもっともよく用られる免職方法である。
私はナポレオンを裏切ったり、陰謀を企んでいたことはない。私自身が人生において策略を用いたとすれば、フランス人が共犯であった時に限られるのであり、私は救国を望んでいた……誓って言うが、ナポレオンより危険な陰謀家はいなかったのである。
ルイ18世はおよそこの世で知る限り、きわめつきの嘘つきである。1814年以来、私が王と初対面の折りに感じた失望は、とても口では言い表せない。……私がルイ18世に見たものは、いつもエゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず、といったところだ。
(ルイ18世は)何も学ばず、何も忘れず。
私は不徳義漢で権謀術数の徒であると見られているが、実は物に動じないで人間を見下していただけなのだ。
私がどんな人間だったか、何を考えていたのか、何を望んでいたのか。それを数世紀間にわたって論議してもらいたいのですよ。
あのような偉大な方がここまで育ちが悪いとは、残念ですな。(ナポレオンに面罵された直後の言葉)
(ナポレオン死去の報を聞いて)それは事件じゃない。ニュースだ。
感受性が強すぎると不幸をもたらし、感受性が無さすぎると犯罪に導く