裁判まで行っていない。検察が起訴しなかった。
全国紙を明日から取りなさい。
朝木明代市議は、創価学会からの脱会希望者の代理人として創価学会本部に脱会届を出したり、創価学会を脱会した生徒に創価高校側が退学を強要した問題を世間に広く告発し、反創価学会の講演会開催などを活発に展開していた。
また、議会においては、公明党議員と業者の癒着疑惑の追及、更には創価学会員への市職員の不正採用疑惑など創価学会・公明党の利権疑惑を追及していた。
1995年9月1日夜10時頃、朝木市議が東村山駅前の雑居ビルから転落して死亡した。
彼女には自殺の動機もなく、当初から遺族などは他殺であることを確信していた。
当時はマスコミも、創価学会による殺人と考えていた。
ところが、警視庁東村山署は事件発生当初から碌な捜査をせずに彼女の死を「自殺」と言い張った。
創価学会側も、「万引きを苦にしての自殺」という情報をお金を使って様々な雑誌に書かせて流布させる工作活動を行った。
結局、「東村山元市議・朝木明代さん殺害事件」は、自殺ということで処理されてしまった。
朝木市議の生前に起こった暴行事件や当該殺人事件を担当したのは、なんと創価学園・創価大学出身のバリバリの創価学会員である信田昌男検事だった。
担当検事の信田昌男が創価学会信者だったことは、事件の9ヵ月後に『週刊新潮』1996年5月29日発売号で報じられるまで、同僚の矢野穂積市議も娘の朝木直子さんも全く知らなかった。
同僚の矢野市議や遺族の朝木直子さんらは、信田昌男検事が創価学会信者であることを知らずに、全ての情報を彼に提供し相談していた。
実は、この信田検事の上司の吉村弘東京地検八王子支部長も創価学会信者だった。
事件後3年以上を経過して明らかとなった司法解剖の鑑定書に、法医学上「争った痕」と推定される皮下出血痕が上腕の内側にあったことが記載されていた。
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